2012-06-16

『日本国債暴落の可能性は?』【9】日銀の金融政策の変化

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前回は、日銀の金融政策とはどのようなものかを見てきました。今回は、【9】日銀の金融政策の変化?について扱います
『日本国債暴落の可能性は?』シリーズ過去記事は以下をご覧ください。
【1】プロローグ(リンク
【2】国債って何?:基礎知識の整理①(リンク
【3】国債発行と流通の仕組み:基礎知識の整理②(リンク
【4】国債発行の歴史と直近の発行残高(国の借金1000兆の実態)(リンク
【5】国債って誰が持ってる?(保有者の実態)(リンク
【6】コラム①:格付け会社って何?(リンク
【7】国債市場の動き?(リンク
【8】日銀の金融政策って何?:基礎知識の整理③(リンク
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●それではまず、日銀の金融政策の歴史について振り返ってみます。
1975年以降、日銀の金融政策は、金利(公定歩合)政策が主な柱となっていましたが、(詳しくは、リンク参照)銀行救済期の1997年以降、金利は1.4%以下になり、金利政策は、実質全く政策の要になっていない状態になっています。その後、日銀は、量的金融緩和政策にシフトしました。この前後に何があったのか、1985年以降の状況を詳しく見てみましょう。【リンク

日銀は、1985年のプラザ合意を受け、内需拡大のため、マネー・サプライを増やした. ジャブジャブの金は株や土地へと流れ込むしかなくバブルが発生。
1989年5月に日銀は、金融引き締め政策へ転じ、以降短期間に5回もの公定歩合の引き上げを実施し、引き締めに大きく舵を切った(日経平均は、1989年12月の大納会の引け値で史上最高値38915円)
1990年4月には、土地取引の「総量規制」が実行され、バブル崩壊へのダメ押しがされた. この1990年代、日銀は「マネーの需要が無いため、マネーを供給する必要はなし」と主張し続けた(このため、銀行は貸し出しを絞り、中小企業が多数倒産したと言える).また、失業率が増加しようとも、自殺者が増加しようとも政策を変えなかった。
長引く不況により、1997年11月に、三洋証券(3日), 北海道拓殖銀行(17日), 山一證券(24日), 徳陽シティ銀行(26日)が相次いで倒産。
これを引き金に橋本内閣にて、金融行政の構造改革が議論され、1998年4月1日に日銀法が改正。この改正により、金融政策は日銀に委ねられ、金融部門の規制も金融監督庁(日銀出身者が重要なポジションを占める)が行うようになり、日銀は強大な権力を持った。
日銀のライバルの大蔵省は2001年1月5日に完全消滅し、日銀が全面的に勝利した。その僅か2ケ月後に(景気の本格回復を目指して)上記の「量的金融緩和政策」を実行

このように、現在の日銀の量的緩和政策への転換時期は、1998年の日銀法の改正に端を発します。では、日銀の政策決定は、誰が行っているか、その背後には、どのような外圧状況があったのでしょうか?
●何故日銀法を改正する理由があったか?

ヨーロッパ各国が、政府から中央銀行を引き離したのは、ヨーロッパ23か国の法定通貨ユーロを導入(1999年決済用通貨/2002年現金通貨)するためだった。日銀法を改正した1998年は、その前年である。といっても、日本は、ユーロ導入前夜のヨーロッパの真似をして、政府と中央銀行を切り離したわけではない。日銀の独立性は、アメリカが、日本にもとめた構造改革である。
そのとき、日本の政治家や官僚は、ヨーロッパを例にあげて、日銀の独立性を、グローバリゼーションの一環と説明したのである。
リンク
>日本版ビッグバン〜狙いは、護送船団方式の崩壊〜
バブル崩壊後、東京市場の低迷と企業活動の停滞が長期化するにつれて、東京市場の魅力が薄れていったことを背景にしています。
その対策として、行われたのが1996年より行われた『金融ビッグバン』。日本では、英国版ビッグバンをもとに、単に証券にとどまらず、銀行・保険・ノンバンクなどの金融業全般にわたる金融・資本市場、金融システム改革にまで及ぶものとなった。その狙いとは『護送船団方式の崩壊』である。
戦後、金融は大蔵省のいわゆる護送船団方式の下、証券取引法、銀行法などによって業務範囲が制限されてきたために業態を超えた競争には無縁であった。この護送船団方式がある限り、規制が多く、外資が入って来られない環境が整っていた。そこで、この金融ビッグバンにより、護送船団方式が崩壊させられたのである。
その結果、連携しながらうまく統合してきた“日本政府”“日銀”“銀行”“企業”の4つの関係が、規制が自由になったことで、外資企業が入ってきたり、自らの利益を優先するようになり、バラバラに解体されてしまう。【以上のように日銀法の改正の背景には、金融の規制自由化を達成するために、護送船団方式の解体をもくろんだアメリカが日本に求めた構造改革と言えます。また、日銀を大蔵省の影響下から独立させる事にも成功しました。
●それでは、次に日銀総裁人事について、探ってみましょう。
以下に、歴代の日銀総裁とロスチャイルドとロックフェラーの関係を記述した記事がありましたので紹介します。【
リンク

日銀を設立したのは大蔵卿であった松方正義で、彼はロスチャイルドのカウンターパート(現地における受け皿)であるが、重要なのは、覇権国とのこのカウンターパートの関係を歴代の日銀総裁が継続して築いているということである。そして、大蔵大臣と日銀総裁を前後して務める例を多数示している。
高橋是清(第7代総裁)−ジェイコブ・シフ(ロスチャイルド−クーン・ローブ)
井上準之助(第9,11代)−トーマス・ラモント(モルガン)
池田成彬(第14代)− オーウェン・ヤング(モルガン→ロックフェラー)
渋沢敬三(第16代)− ロックフェラー3世 
新木栄吉(第17代)− ロックフェラー3世
一万田尚登(第18代)−ロックフェラー3世
前川春雄(第24代)−デイヴィッド・ロックフェラー

では、最近の人事は?

かつて日本銀行総裁は大蔵省OBと日銀OBが交代で務める たすき掛け人事が続いていたが、28代の速水優、29代の福井俊彦と2代続けて日銀OBが就任していた。(22代から28代までは大蔵と日銀の たすきがけ人事)【リンク
福井俊彦(前日銀総裁)こそが平成バブル期の日本経済で日銀営業局長の座にありバブル経済を導いた実行犯である。接待汚職疑惑で日銀を辞任したが2003年に日銀に戻り総裁に就任した。浪人中にアメリカの投資会社ゴールドマン・サックスの顧問を務めた。リンク
さて日銀人事で思い出されるのが、2008年、福井日銀総裁の後任人事であった白川日銀総裁人事です。当時、小沢民主党は野党でしたが、このとき、参院は民主党が過半数をもっており、小沢氏はこれを踏み台にして露骨に日銀人事に介入した過去があります。このときの小沢氏の日銀総裁人事介入によって、日本政府(財務省)提案の国会同意人事案が参院で拒否され、結局、白川氏の日銀総裁人事が決まったのです。
なぜ、小沢氏は日銀総裁人事に執拗に介入したのでしょうか、当時の本ブログの見方、それは、小沢氏が財務省の日銀支配権奪還の野望を遮断しようとしたのではないかというものです。ちなみに、後に起きた小沢氏の政治資金疑惑受難は財務省による意趣返しの側面があることを否定できません。【リンク

○最近の日本銀行政策委員会審議員の決定についての状況

政府は3月23日、4月4日に任期切れとなる日本銀行の審議員中村清次(69)の後任に、パリに本部をもつBNPパリバ証券経済調査本部長の河野龍太郎(47)を充てる人事案を国会に提示したが、結局同意を得られず、(野党の反対)現在、公認理事は空席のままである。【リンク
このように、過去の人事を振り返ると、日銀総裁人事も欧州と米国金貸し勢力の影響下の綱引きの中で決定されていった状況が見て取れるのではないでしょうか?最近の新議員の人事についても同様の構造があるとて良いでしょう。特に民主党政権になってからは、欧州勢力の巻き返しの影響が出ていると考えられます。※BNPパリバ証券【リンク

●財務省(大蔵省)と日銀の関係
それでは、日銀法が改正された1998年前後の日銀法の改正と当時の大蔵省の間にある構造を見てみましょう。【リンク

橋本政権下での日銀法改正は、大蔵省(財務省)の日銀への関与をなくし、日銀の独立性を高めるものと世間では認識されている。しかし筆者は素直にそのようには考えない。本当に排除したかったのは、大蔵省(財務省)の力ではなく、政治家の日銀への影響力と考える。それまで政治は、大蔵省を通じ日銀に影響力を行使してきた。つまり大蔵省(財務省)の日銀への関与を薄めることを装って、実際は政治の力を日銀から排除しようと官僚達が考えたのである。
しかし改正日銀法が施行されたからと言って、政治の日銀への影響力がゼロとなった訳ではない。「決定する金融政策が、政府の経済 政策の基本方針と. 整合的になるように義務付け」(改正日銀法第四条)の存在だけでなく、日銀総裁の任命権は依然首相にある。つまり政治は日銀に対してかなりの影響力を依然持つ。したがって筆者だけでなく多くの日銀ウオッチャーが、福井氏の総裁就任に際して、政府の政策に協力するよう要請(密約)があったと考えても不思議はない。特に福井氏は、過剰接待などの日銀の不祥事が問題になった時に責任を取って日銀理事を辞めた経緯があり、すんなりと総裁に選ばれたわけではなかった。
福井総裁の就任前後からの一連の金融政策は、一口で言えば異常であった。まさしく速水総裁というおかしな日銀出身の総裁のツケを払うような要求を、政治から突き付けられたとも見られるのである。実際、これまで福井日銀はまさに小泉政権を支えるための金融政策を展開してきたのである。 

●まとめ
1998年までの金融政策の柱は、金利(公定歩合)の操作で行われてきましたが、1998年の日銀法の改正があり、その後は、バブル経済のつけから実質金利政策の行き詰まり、量的緩和政策に移行しました。
元々欧州系の銀行であった日銀を米国金貸したちはその影響力を行使できるよう、日銀法の改正によって、護送船団方式を解体すべく、日銀を大蔵省(財務省)の影響力が及ばない体制を構築し、外資企業が参入しやすい構造改革に成功しました。結果として、速見、福井総裁は小泉政権を支える金融政策を展開してきたことを見ても明らかでしょう。
現在、民主党政権になってからは、欧州勢力の影響を受けた白井氏(小沢一郎が人事介入したのをみると明らかか【リンク】)が総裁となっています。日銀への財務省の影響力は、以前よりも薄くなったと思われますが、相対的に、政治家の影響力(背後には、欧州金貸しの巻き返し?)が日銀人事をも左右する状態に変化してると思われます。
こうしてみると、日銀の金融政策は、制度改革、構造改革といいながら欧州と米国の金貸し勢力の支配の元に行われているとみて良いのではないでしょうか?
今回は、金融政策の歴史をかけ足で探ってきました。では、こうした状況下において今後の日本の国債どうなっていくのか?次回は、国債暴落説について扱います。お楽しみに

List    投稿者 orisay3 | 2012-06-16 | Posted in 03.国の借金どうなる?No Comments » 

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