2009-12-30

【需要発から供給発へ】5.新概念を使いこなせて、はじめて供給者になれる

【需要発から供給発へ】シリーズバックナンバー
1.働かない人に支援金を払って、活力が上がるわけがない
2.「役に立つ答えを探す事」が、社会活力の基礎構造
3.活力再生需要に対しては、『供給者不足』
4.「需要発から供給発へ」
前回のエントリー「需要発から供給発へ」では、

「これまでの市場経済の需要発の発想」を超えて「類的供給体制の整備=供給者の育成」という視点で、補助金(否、手垢についた補助金という言葉は止めて活力再生事業者支援金と呼ぼう)を「子育て支援」活動や「老人のやりがいづくり」活動や勿論「共認形成」活動に払っていけば、供給者はどんどん誕生していき、日本は世界経済のまさに最先端を切って、新たな類的生産の時代を開いていける。

という「需要発から供給発」の認識転換が、今の市場を突破する切り札になる!という提起であった。
しかし、「活力再生需要に対しては、『供給者不足』」でも提起されているように、現状は活力再生需要に応える「答え」の供給者が圧倒的に不足している。
ではどうやったら、答えの供給者になれるのだろうか?
今回は「答えの供給者になるには?」の“答え(=可能性)”の根幹を示した記事を紹介したい。
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るいネットから「新概念を使いこなせて、はじめて供給者になれる」より引用

’70、貧困の消滅(=生存圧力の消滅)に伴う私権の衰弱は、国家を閉塞させ、市場と企業を閉塞させ、学校と家庭をも閉塞させてきた。この30年間、そうして全ゆるものが行き詰まり、活力が失われ続けてきたが、それは同時に、人々が極めて深い所で収束不全を強め、新たな活力再生の需要(=時代閉塞を突破する答えの欠乏)を蓄積してゆく過程であった。
そして現在、すでに至る所に活力再生の需要は存在する。従って、その需要(答え欠乏)に応えることのできる答えさえあれば、新しい事業を立ち上げて人々の活力を再生することも、それによって市場を再生・軟着陸させることも出来る。つまり、答えさえあれば、実現のチャンスは至る所に転がっている。
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しかし、答えの供給者がいない。なぜなら、現在何かを供給=発信できるとしたら、それは私権時代に作られた旧観念発の発信内容でしかあり得ず、(現に学者や政治家やマスコミ発の発信内容がそうであるように)現実の役に立たない旧観念では、21世紀の新たな活力再生需要にまったく応えられないからである。

旧い観念では答えは出せない!
貧困の消滅以降、みんなの価値判断は旧観念(私権観念)では統合されない状況に至っている。お金第一の市場主義がマネー経済(=架空経済、バブル経済)を生み、それを正当化する「個人」、「自由」といった観念は、市場だけでなく企業、学校、家族といった集団をますます破壊し、あらゆる社会問題を次々に引き起こしている。
そうした事態に対し、本来そういった社会問題に答えを出すべく統合階級(政治家やマスコミ)は一向に答えを出そうともせず、傍観者を決め込んだままだ。(マスコミに至っては、旧観念によって私達大衆の思考停止状態を助長している!)
※参考(るいネットより)
みんなが欲しているのは「金」ではない
マスコミは人々を特定の思考に染め上げるだけではなく、「思考停止」状態に閉じ込めている。
社会悪共認による市場拡大
旧観念では全く役に立たないどころか、あらゆる現実場面で弊害を招いているという認識が必要だろう。

この再生需要(=答え欠乏)に応えるには、私権時代(の旧観念)を突き抜け、原始時代⇒サル時代⇒生物史にまで遡って人類の存在構造を解明した新概念体系が不可欠になる。その最初の実現態が、『実現論』である。しかし、『実現論』を読んで、頭で理解しただけでは、答えの供給者になることはできない。
既に述べたように、需要は無限にある。この新需要に応える新しい供給者に成るためには、新概念を自在に使いこなせるように成る必要があり、そのためには不断の研修と実地演習が不可欠になる。
まさに「認識形成は遊びではない。誰もが担うべき、もう一つの生産活動」なのである。

1970年〜現在はそれまでの物的需要を下支えしていた「貧困」の圧力が消滅した時代にある。
古典経済学(=旧観念)は、この点を考慮せず、「需要と供給のバランス云々・・・」と、のたまわっているだけだ。これでは答えなど出るはずもない。

経済破局下においては、何よりも『食料の確保』『仕事の確保』etc実現能力が問われる。しかし、盲滅法に動くのは危険である。そこで、行動を導く道標が必要になる。
その時、初めて「どうする?」という根源的な当事者意識が生起し、みんなの期待に応えて、その答えを求める潮流=認識収束の潮流が生み出される。(新たな認識収束の潮流は、すでに若者の先端層に顕在化してきた。)
そこで求められるのは、経済危機を突き抜けてゆく確かな見通し=この危機を導き出した近代市場と近代思想を根底から突き抜け、乗り越えてゆく新理論である。
潮流9:経済破局を突き抜けてゆく充足・安定・保守の潮流

従って、
現代の常識(=旧観念)に囚われない、本来人類として、生物として見誤ってはいけない判断軸(=普遍性)というのを突き止めた新しい理論が必要になる。それが「新理論、新概念」だ。
新理論を用いれば、例えば市場の背後には、“性市場”、“幻想価値”、“価格格差”などといった普遍構造を抽出できるし、人類の普遍的な活力構造も見えてくる(=共認充足)。
これらを理解していれば、「豊かになった日本で右肩上がりの経済が続くわけが無い」ことも認識でき、「貧困をいち早く脱した日本社会にこそ新たな可能性(=新理論の構築)がある」という方針も導くことができるのだ。
※参考(本ブログより)
2.「役に立つ答えを探す事」が、社会活力の基礎構造
3.活力再生需要に対しては、『供給者不足』
しかし、新理論、新概念に触れるだけでは不十分で、現実場面でこれらを使いこなせなければ、答えの供給者足り得ない。それには、使いこなすための研修・実地演習の場が必要で、それらが、るいネットや、なんで屋露店ネットサロンなどである。
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(ネットサロンの様子)
では、答えの供給者を増やすために、こういった場を具体的にどうやって活かしていけば良いのだろうか?次回はこの論点に切り込んでいく。

List    投稿者 tutinori | 2009-12-30 | Posted in 03.国の借金どうなる?No Comments » 

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