2007-12-18

トヨタは本当にジャパンブランドなのか?

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大変遅くなりましたが、勝ち組のトヨタの歴史を調べてみたので投稿します。
当初から「販売のトヨタ」と称される一面が既に垣間見られます。

トヨタは、豊田佐吉氏(1867〜1930年)が創業した豊田自動織機製作所の自動車部が起源です。

静岡県湖西市で生まれた豊田佐吉氏は、貧困から脱出するために、1890年に木製人力織機を発明し1897年に木製動力織機を発明しました。
当時、三井物産がこれに目をつけて援助し、日清戦争で日本軍が満洲で大量発行した軍票回収のために、綿布を大量に輸出する際に大いに活躍した。

1906年には三井物産の資金提供で豊田式織機株式会社が創立。佐吉氏は常務兼技師長となったが、利益優先の経営陣と対立し、1910年辞職しています。

さて辞職後の佐吉氏はどうなっていくんでしょう?気になる人も大体知っている人もポチっと応援よろしく

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そこから1914年2月に、名古屋市に移り、紡績工場を再スタート。その7月に、第一次大戦が勃発し未曾有の好景気に恵まれて発展し、1918年に豊田紡績株式会社を設立。
1929年には、世界の織機の母国と言うべきイギリスのプラット社に、欧州・カナダ・インドで登録されていた特許を10万ポンド(邦貨100万円)で譲渡し、佐吉氏は、「世界の織機王」として名声を得たのです。

その佐吉氏は晩年の口癖は、「これからは自動車工業だ」であり、その意志を継いだのが長男喜一郎氏でした。 ここからいわゆる「トヨタ」の歴史が始まります

大正から昭和初年にかけて、日本でもバス、トラック、タクシーが登場しましたが、それらのほとんどは、アメリカ車でした。、フォードと、GMは日本に組立工場を作り、昭和6(1931)年には既に合計、2万3千台を販売していたが、国産車は数社が試みていた程度で年、437台しかなかった。

そこで、、軍部は輸送手段としてのトラックに目をつけ、、三井、三菱、住友などの財閥を大合同させ国産化を進めようとしましたが、肝心の財閥の方が、GM、フォードの支配体制を崩すこと、さらに複雑かつ緻密な多種類の自動車部品の製造は困難で、、そんな危険な事業に莫大な設備投資はできない、として乗ってきませんでした。

そこで昭和9(1934)年1月29日、豊田自動織機の株主総会で、喜一郎氏は、「現状のままでは、カナダがフォードのノックダウン生産(部品を輸入し組立だけを国内で行う)に占領されて自動車工業など芽もないように—-日本も同じ道をたどる。引いては日本の工業が全部アメリカの隷属下に入り、日本は永久にアメリカの経済的植民地になる。」と語り、自動車事業に取り組むこと、今年中に試作一号機を完了させる、と宣言したのです。

それから部品は国産で揃えるために、国内の部品メーカーをしらみつぶしに当たり、自動車用の少量でかつ特殊な鉄鋼は、軍艦や大砲用の生産に忙しい鉄鋼メーカーは相手にしてくれないので、製鋼会社の技師長をスカウトし、4tと2tの電気炉を持つ小さな製鋼所を作らせました。3月には試作工場が完成し、まずはシボレーのエンジンを見本にエンジン製作に取り組んだ。

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悪戦苦闘を続けるうちに目標の1年はとうに過ぎ、ようやく5月下旬には乗用車の試作第一号が完成、さらにトラックの試作も6月には軌道に乗りかけていた。そこで喜一郎は、「トラックはすぐに本格生産を始め、今年中には発売を開始する」と宣言して周囲を驚かせたのです。

当時、フォードが横浜で巨大な自動車工場建設を計画していた。それが完成したら、国産自動車の芽はつぶされてしまう。そこで日本政府は実力と実績のある国産会社「一社、または数社」に絞って集中的な援助を行い、その他の企業は自動車生産を許さない、という法案を準備中で、翌年1月には議会に上程されるとの情報を喜一郎氏は掴んでいました。

実は政府の期待する筆頭候補が鮎川義介氏の設立した日産自動車であった。鮎川氏は、アメリカのグラハム・ページという自動車会社の工場施設をそのまま買い取って、横浜の新子安海岸に大工場を建設しつつあった。
自動車生産・販売の実績があげられなければ、自動車事業そのものの道が閉ざされてしまう。喜一郎氏が「今年中にトラックを販売する」と決断したのは、そのためでした。

11月にはG1型トラックが完成し、東京で盛大な、発表会が開かれた。その後、地元での販売が開始されたが、セールスマンたちには営業の責任者から風変わりな訓辞がなされた。

「ええか、車を売り込むのに、うちの車は他の車よりいいなどとは、決して言うてはならんぞ。世界のどこに比べても、現在のうちの車は一番劣悪なんだ。ただ、国産品だから買ってくれ、使ってくれと頼むんだ。そうでなければ、自動車はいつまでもアメリカの独占物になる。日本の自動車工業は育たず、であるから日本の民族工業全体が、二流三流のままで取り残される。皆さんが使ってさえくれれば、トヨタは必ず改善して、やがて世界一の車にしてみせる。」

考えてみれば一企業の営業戦略を国家の政策に堂々と組み替えてしまうところがすごい!まさに私権獲得が国家と企業と人をも貫いた統合軸になっていた時代の象徴といえます。

もちろん6ヶ月でろくな試作もせずに急拵えしただけに、無数の問題があることは分かっていた。それを承知で買って貰おうというのである。かわりに、故障したら昼でも夜でも駆けつけて修理する、全力をあげ、誠意を尽くしてサービスすることを約束した。

トヨタ式と言われる「改善」はここがスタートなのです。

果たして、納入した車は毎日のように故障を起こした。業界紙には「豊田トラックまたエンコ」「国産豊田、またも座禅を組む」などと書き立てられる有様だった。しかし客の中には怒りながらも我慢強く使ってくれる人も少なくなかった。
修理サービスの担当者たちは不眠不休で対応を続けました。喜一郎氏もほとんど工場に泊まり込んで、技師たちに改良を続けさせたという。こうして1年間で800点以上もの改良を行い、故障も減って、顧客の信頼をしだいに得ていった。そして喜一郎氏の思惑通り、その過程で自前の技術が蓄積されていった。

昭和11(1936)年5月「自動車製造事業法」が成立。
フォード、GMは日本国内での生産をそれまでの実績から年1万台程度に制限され、国産メーカーとしては日産自動車豊田自動織機のみが自動車生産を許可された。喜一郎はかろうじて賭に勝ったのです。

昭和13(1938)年10月1日トヨタ自動車工業株式会社が設立され、11月3日に挙母(ころも:現在の豊田市)工場の竣工式を挙行し、現在のトヨタの姿が次第に見え始めたのです。

工場の設計に当たって、喜一郎氏は、部品メーカーから流れるように部品が集まって、よどみなく組立が行われる「ジャスト・イン・タイム」の生産方式をとるように命じた。
戦後トヨタ生産方式として世界を席巻することになる「ジャスト・イン・タイム」の考え方は、すでにこの時に芽生えていたのである。

トヨタを「販売のトヨタ」にのし上げたもう一人の立役者は、喜一郎氏に請われ昭和10(1935)年にトヨタに移籍した日本GM販売広告部長であった神谷正太郎氏(トヨタ自販初代社長)です。トヨタは創業当初から、全国各地の地場資本に協力を求め、早期に販売網を整備していた。これは神谷氏が、米国GM流の販売方法を取り入れたためです。
神谷氏は日本GMにおいて日本での自動車販売網を整備しオートローンもはじめるなど米国GM流儀を日本において徹底させ、戦前の日本自動車市場をフォードと二分していた。神谷がトヨタに入ってからはGM、フォードが開拓していた各道府県のディーラー網を自社ディーラー網として取り込んでいったのです。

国策と企業戦略が一体となって発展していく「トヨタ」が、戦争を挟んでどのように進んでいくのか?は次回のテーマにしたいと思います。では

List    投稿者 goqu | 2007-12-18 | Posted in 04.狙われる国の資産2 Comments » 

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コメント2件

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