国際情勢の大変動を見抜く!-36~シベリア出兵の真実~
シベリア出兵は米英仏等の連合国の要請によるもの。背景にウラジオストックに保管されていた大量の軍需品がドイツの手に渡るのを防ぎたかったイギリスの思惑がある。
ロシア革命政権を主導したアメリカは乗り気ではなかった。故に早々に撤兵した。
日本はある理由で残留せざるを得なかった。
それがシベリアの邦人居留民を守るため。
ロシア人、朝鮮人、中国人からなる約4千人の共産パルチザン(:非正規軍)が、ニコラエフスクという町に入り込んで占領。革命裁判と処刑を強行し、日本人のほとんどを虐殺したとのこと。なんとその町の人口が半減。
日本軍は秩序が安定するまで残留せざるを得なかったというのが真実。
教科書で謳われているような勢力拡大の目的では決してないとのこと。
他にも似たような事件が中国各地でも起こり、それによって日本は共産主義に対する強烈な反感を呼び起こしたとのこと。
これまでの〇〇革命や△△暴動と称する事件のほぼ全てが金貸しの仕業であるということから類推すると、そもそも数ある日本人虐殺事件も金貸しが仕掛けたと思わざるを得ない。
日本は「金貸し支配」の事実を知らないがために数々の事件に巻き込まれてきた可能性が高いと思います。もっと深い事実を押さえていく必要を感じます。
『知ってはいけない現代史の正体』(馬渕睦夫 著)からの紹介です。
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■1918年 シベリア出兵
◇通説 :米英仏が撤退した後も日本はシベリア東部に勢力を及ぼそうと居残った。
◇歴史の真相:日本は邦人虐殺事件の解決のために撤兵を遅らせざるとえなかった。
●海外派兵に慎重だった日本
正統派の歴史では、ロシア革命後の内乱時期にシベリアに取り残されたチェコ軍救出を目的に日本は米英仏とともに出兵した、ということになっています。そもそもの発端は、そうではありません。ウラジオストックに保管されていた大量の軍需品がドイツの手に渡るのを防ぎたかったイギリスの思惑です。1902年に締結した日英同盟の下で同盟関係にあった日本に、連合国を代表してシベリアに派兵するようイギリスが要請したのです。
イギリスの提案にフランスが賛成し、アメリカに対しても同様の要請をしました。これに対してウィルソン大統領は、ロシア革命政府に対する一切の干渉に反対しました。特に日本が単独で出兵することに断固反対しました。アメリカはロシア革命政府を守ろうとしたのです。近代史研究家・中村粲氏の『大東亜戦争への道』によれば、日本は次のようにイギリスに回答しました。
「日本は常に連合国共同目的のために貢献を行う用意があるが、それは全部の連合国の全幅の支持に依存する。故に米国と他の連合国間の了解が成立するまではいかなる行動をとることも差し控える。」
国際貢献の意思を明確にして各国の強調を訴える、威厳に満ちた堂々たる外交文書です。日本は派兵に非常に慎重な態度をとる国でした。第一次世界大戦勃発後、同盟国のイギリスの参戦要求に応えてドイツに宣戦布告しますが、行動範囲は中国国内のドイツ租借地域とドイツ領南洋諸島に限りました。日本の国是は日本領土の防衛であるとして、ヨーロッパへの派兵は拒絶し続けました。最終的には1917年の2月に巡洋艦などを地中海に派遣することになりますが、それは、ドイツの無制限潜水艦作戦によって自国客船が撃沈させられるなどの事件が増えたからです。
「第一次世界大戦による欧米列強の東アジアからの後退は日本の新たな海外進出の機会となった」「日本はどさくさに紛れて参戦して勢力を拡大した」などと、学校の教科書、つまり正統派歴史学者は書いています。日本を貶める記述をして恥じない程度には、人格に対して疑問を持たざるを得ませんが、それ以前の問題として、これは歴史の改ざんです。
●歴史の逆説を理解できなかった日本
前項のような連合国と日本、アメリカとのやり取りの後で、シベリアでチェコ軍が孤立し、救出のための出兵の必要が生じました。ウィルソン大統領はアメリカ軍の派遣を承認し、日米を含む連合軍の共同出兵が行われました。
そもそも、なぜチェコ軍救出問題が発生したのか、その背景を理解することが必要です。ロシア軍と戦っていた枢軸国オーストリア・ハンガリー帝国下のチェコ軍部隊は、オーストリアから独立を目指してロシア側に寝返って、連合国の一員としてドイツなど枢軸国と戦い始めました。そこへロシア革命がおこり、ロシア革命政権はドイツと和睦して戦線から離脱しました。そこで、ドイツとの戦闘に従事するため5万人のチェコ軍部隊がシベリア鉄道経由ウラジオストックを目指して移動を始めましたが、その途中でロシア革命軍との衝突が発生したため、チェコ軍救出の目的で連合国が共同出兵したのです。
ところが、現場では日米の考え方の違いが明らかになります。日本はロシア共産主義を危険思想と認識しており、共産主義政権の勢力拡大は阻止されなければならない、と考えていました。
一方アメリカは、ロシア共産主義政権は帝政を倒した民主主義政権である、と見なしていました。忘れてはならないのは、時のウィルソン大統領の側近には、ロシア革命に資金を援助した金融資本家がいたということです。アメリカ軍は、チェコ軍救済の名目のもと、ロシア革命軍を守るために出兵していたのです。
アメリカは1920年1月に突然、撤兵します。前掲の中村粲氏の著書には《極東露領が赤化することは、わが国にとっては満州・朝鮮への重大脅威を意味したのであるが、太平洋を隔てた米国にとっては対岸の火事でしかなかった》とありますが、ウィルソン政権の正体というものを考えれば、対岸の火事どころか、自らが支援して作り上げたロシア革命政府を存続させなければならないという切実な状況にあったと言えるでしょう。
同じく中村粲氏の著書にあるとおり、「極東へのボルシェビズムの蔓延は文明社会への恐るべき脅威」と見なすロバート・ランシング国務長官のように、ロシア革命政府に懐疑的な勢力も閣僚レベルでアメリカ国内にはありました。しかし、ウィルソン大統領下のアメリカは、事実上、ソ連の友好国でした。
こういった、歴史の逆説ともいうべき状態を当時の日本は十分に理解できませんでした。この無理解が結局、満州や支那大陸を巡るアメリカとの摩擦を解決できなかったことに繋がるのです。
●ニコラエフスク邦人虐殺事件の悲惨
北樺太の対岸に当時人口1万2千人のニコラエフスクという町があります。この町に、シベリア出兵時に、日本人居留民と軍人7百人ほどがいました。チェコ軍救出問題がひと段落して、ニコラエフスクから連合軍が撤兵したとこのことです。ロシア人、朝鮮人、中国人からなる約4千人の共産パルチザンつまり非正規軍が入り込んで町を占領しました。
共産パルチザンは革命裁判と処刑を強行しました。日本の守備隊を襲撃して大半を殺害し、居留民を投獄するなど、日本軍の援軍が到着する前に日本人のことごとくを極めて残忍非道なやり方で虐殺しました。共産主義に懐疑的な現地の市民も虐殺し、ニコラエフスクの人口は半減しました。
無辜の居留民に対する無差別殺戮という国際法違反ですから、この虐殺事件が解決するまでの間、日本は北樺太を保障占領して秩序の回復を待たざるを得ませんでした。日本のシベリア撤兵が当初の予定より大幅に遅れることになったのはこれが理由です。外国における居留民の保護は国家の義務です。予想される同様の日本人虐殺事件を防止するために撤兵を遅らせざるを得なかったのは当然のことです。
ニコラエフスク邦人虐殺事件は、後に中国大陸で起こる1928年の済南事件や1937年の通州事件などの日本人虐殺事件の嚆矢になりました。当時の日本人に、共産主義に対する強烈な反感を呼び起こした事件でもありました。
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