2019-11-26

国際情勢の大変動を見抜く!-40~「日本」対「ソ連を含む欧米諸国」の戦い~

日中戦争

今回は第二次大戦前の日中戦争開始の要因について。アメリカとイギリスの金貸しが強調して中国の富を略奪しようとする動きで邪魔な日本を陥れる戦闘がいくつも起きた。

そこにアメリカ傀儡のソ連も絡んでくるので、教科書に載っているような歴史は中々読みにくいのですが。全てが金貸しが仕組んだという事実から歴史を見ると、それらが繋がって非常にスッキリする。

金貸しに脅された蒋介石の裏切り、日本が信頼していた張作霖の爆殺、毛沢東や周恩来の立ち位置など、それまで不明だった中国指導者達の立ち位置、役回りが見えて非常に興味深い内容になっています。

 

日中戦争は、アメリカが中国との戦争を日本が避けようとするのを阻止して起こったとのこと。この後日本は第二次世界大戦に巻き込まれていく。

『知ってはいけない現代史の正体』(馬渕睦夫 著)からの紹介です。

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■1937年 日中戦争開始

 

◇通説   :日本は南京占領の際に多数の中国人を殺害して国際世論の非難を浴びた。

◇歴史の真相:アメリカは中国との戦争を日本が避けようとするのを阻止した。

 

●「日本」対「ソ連を含む欧米諸国」の戦い

国際主義者で構成される世界社会主義化勢力にとって、中国と満州は格好のターゲットでした。具体的な戦術は二つありました。ソ連およびコミンテルンによる共産主義の拡大浸透、そして英米金融資本家による中国経済の奪取です。実はこの二つは相通じています。

 

共産主義が第一の旗印に掲げるのは、国家組織の廃止です。そして金融資本家による世界経済戦略には、国家によるビジネス活動への干渉を排除するという側面があります。この二つの相通じる国家組織の排除ないし廃止という目的は、対外戦争と革命、つまり、国家内部の秩序崩壊によって実現することができます。

 

まず、欧米の武器商人が中国を近代武装化しました。欧米の各政府はそれを承認していて、ときには商人たちの事業資金のために借款まで供与して中国の近代武装化を推進しました。その目的は、つまり、中国に日本と戦争させることです。支那事変は日本と中国の戦いではありません。「日本」対「ソ連を含む欧米諸国」の戦いでした。

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ソ連の外交官レフ・カラハンは、対中友好宣言である「カラハン宣言」を出して中国指導部を安心させ、その裏で満州における共産主義政権樹立の工作を開始します。ソ連は満州を統治していた軍閥・張作霖配下の郭松齢という軍人を買収して反乱を起こさせますが、これは張作霖を支援した日本の関東軍が鎮圧しました。張作霖は満州の治安安定化のために日本が最も頼りにしていた人物でした。関東軍が張作霖を支援した事実は、1928年6月に起きた張作霖爆殺事件の主犯探しである「関東軍参謀首謀説」に疑問符が打たれる理由の一つにもなっています。

 

カラハンが中国工作員に資金援助をする一方、イギリス系ユダヤ人のモリス・コーエンが孫文に資金ならびに武器援助を行っていました。コーエンは、孫文亡き後、蒋介石に将軍の地位に任ぜられ、国民軍の訓練にあたった人物です。ソ連による南進と英米資本の北進は、蒋介石の北伐つまり北京軍閥政府への侵攻と連動していました。

 

中国の経済利権を独占したい英米にとっての危機感は、中国北部いわゆる北支が日本の影響下に入ってしまうことにありました。そこで英米金融資本家勢力は「支那幣制改革」という荒業に打って出ます。

 

●英米金融資本家による中国の富の収奪

1935年に実施された「支那幣制改革」は、中国民衆が保有する銀を吐き出させて蒋介石政府発行の紙幣と交換するという政策です。イギリス政府の最高経済顧問リース・ロスが主導しました。この改革は、抗日の蒋介石政府に従っていなければ紙幣が紙くずになってしまうという意味において、対日政策です。実際、リース・ロスは自ら北支に赴いて北支民衆保有の銀を蒋介石の支配地域に輸送しようとしました。しかし、日本軍が鉄道駅で食い止め、北支においてこの政策は失敗しています。

 

民衆に吐き出させた銀は、上海財閥のサッスーン家などがイギリス市場に持ち出して売却し、銀の内外価格差を利用して巨利を得ました。蒋介石やその後ろ盾だった宋子文一族もこれに続きました。

 

中国の銀を巡る儲け話にはアメリカのユダヤ人実業家も一枚かんでいました。前出のウィルソン大統領のキングメーカーだったバルークがルーズベルトに画策して、連邦政府の銀買い上げ価格を値上げする法律を制定させ、銀の国際価格を吊り上げることに成功しています。銀本位制を取っていた中国はこの煽りを受け、その対策の一端を「支那幣制改革」は担うことになったのです。

 

アメリカ金融資本家とイギリス金融資本家は強調して中国の富を略奪しようとしていました。英米資本の対中国協調は、当然、日本に対する締付けとして具体化します。ここに共産勢力がからみ、日本が、対中和平の道も共産勢力撲滅の道も失う発端になったのが1936年12月に起こった西安事件です。

 

●日本から対中和平の可能性を奪った西安事件

蒋介石の配下にあった国民党の東北軍司令官・張学良が、対共産党作戦の打合せと称して蒋介石を西安に呼び出し、監禁しました。蒋介石は、「共産党とともに日本と戦争すること」を約束させられて解放されます。これが西安事件です。

 

アメリカで活躍した日本人ジャーナリスト、カール・カワカミの『シナ大陸の真相』によれば、張学良は共産主義者と交流を深め、「真の敵は蒋介石ではなく日本である」と説いて回っていた人物です。張学良が毛沢東の共産軍の指導で起こした事件であることは間違いないでしょうが、毛沢東は原則的にソ連の指令のもとで動いていました。西安事件のシナリオは、毛沢東とソ連コミンテルンの合作だったと言えるでしょう。

 

蒋介石の監禁を巡って西安には、毛沢東配下の周恩来、蒋介石婦人の宋美齢らが集合しました。その中に、サッスーン財閥と英米金融資本家勢力の傀儡である宗子文がいました。もはや出来レースですが、張学良を説得したのは宗子文です。改めて蒋介石に国共合作を約束させたのも宗子文でしょう。このことから蒋介石は実質トップの地位を失い、国民政府の実権は宗子文と、その背後にいるサッスーン財閥に移っていきます。

 

西安事件の結果、抗日統一戦線が成立したことは日本にとって致命的な痛手でした。蒋介石が実権を失ったことは日中和平の可能性が消滅したことを意味し、国共合作は、共産勢力を撲滅して東アジアの赤化を防ぐことを事実上不可能にしました。

 

日本の中国での行動が侵略行為ではないことは、この西安事件から一目瞭然です。戦争を選んだのは国共合作が成立した中国であり、背後にいたソ連と英米です。この後、1937年7月の「盧溝橋事件」を皮切りに、「第二次上海事件」「南京攻略」をはじめとする日中の軍事衝突が続きます。日本政府が事変不拡大を目指して持ちかける和平方針のことごとくは、抗日統一戦線に縛られた名目上のトップ・蒋介石に拒否され続け、状況は泥沼化していきました。

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