2013-02-28

日本史から探る脱市場の経済原理(11)〜鎌倉時代にみる武士の成り立ち〜

西洋で中世といえば、奴隷制から貴族(騎士)が支配する農奴制への移行をもって始まるとされています。日本でも武士が支配する封建制(農奴制)があったとみて西欧型中世としているようですがその成り立ちは大きく違うようです。
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(男衾三郎絵巻より)
今回は鎌倉時代の武士、特に武士の多数を占める御家人層の成り立ちに注目してみたいと思います。まずは古代末期の農民形態から見ていきたいと思います。

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■古代末期の農民の存在形態
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(日本の中世社会 著:永原慶二より)
上図は養老5(721)年下総大島郷の孔王部佐留の戸の構成であり27口を擁する家族集団を示しています。
奴婢のような非血縁の奴隷人口が含まれていないことも特徴的で、家父長制世帯共同体となっています。現存する諸戸籍を総合すると一般農民の存在形態としてもっとも普遍的とされています。
また、「日本の中世社会」著:永原慶二では古代から中世への移行期において、日本とヨーロッパで大きく異なるのは以下の点であるとしています。

・農業共同体的な社会関係
・農民の私的土地所有意識の未熟
・階級分解が未熟、奴隷制によって侵食されていない社会関係

これはとても分かりやすいと思いました。奴隷制はその制度含めて序列制度を受け入れておりいつでも序列上位への欲望がある(≒私有意識が強い)のですが、日本の場合は奴隷制に陥ることがなかったため共同体が維持され私有意識が抑制されていたのです。そのため律令制度を中央が押し付けても、浸透していかない。
中央は、郷戸主(家父長)を郡司とすることで国家権力の末端に組み込んでいくしかありませんでした。このように律令制のもとでも共同体を維持しながら国家の制度に取り込まれていきました
■開発領主から御家人へ

開発領主がさかんに活動をはじめるのは11世紀半ば、院政の開始の少し前。当時の農村は、水田も必ずしも多くないうえに、耕地の荒廃と復興がくりかえされ、良田は少なく悪田が多かった。このような状況のなかで、主に水田の開発を中心にすすめてゆく「開発領主」が、所々に発生したのである。彼らは各地域の要所に館を建て、開発を進めていった。その成長した姿こそが、鎌倉時代の地頭=御家人なのであった。

中国とは外圧状況が違うにも関わらず、制度だけを唐から輸入した中央集権的な律令制は庶民に受け入れられず廃れていきます。重い税負担に耐えかね庶民は浮浪や逃亡を図り各地へと散らばっていきました。支配者層の衰退により庶民層は自治、自立を強めていきました。
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(図版資料男衾三郎絵詞より)
それら農民のなかから力のあるものが開発領主となっていきます。農民にとって土地は命であり、その土地を守るために武装します。武士が自分の土地を守ることに命をかける有りようが「一所懸命」という言葉で残っています。
この開発領主が御家人、武士へと成長していきます。ご恩と奉公の「ご恩」とは、頼朝が土着御家人の領地を保障する「本領安堵」が基本となっています。
土着農民→開発領主→在地御家人→地頭→国人→独立領主(小早川、毛利、長宗我部、龍造寺など)となり戦国大名となった武士もいます。伊賀国のように「伊賀惣国一揆」と呼ばれる合議制の強い自治共同体をつくり他国と対抗している国もありました。ちなみに忍者の起こりも農民が土地を守るためにゲリラ戦の技を磨いたことが始まりとされています。
■武士の惣領制に学ぶ

武士は一族・一門という血縁集団を構成。中世武士の族的結合は惣領制とよばれる。
多くの武士は、家々の惣領を中心に庶子とともに原野を開発していた。その惣領を御家人として認定。庶子の分立を認めず単独相続とした。
武士たちは、開発領主の子孫として土着していた土地に居館を構え、そこを拠点として農業経営にあたりながら、所領支配を行っていた。村落内の基幹用水とつながっていた堀の水流を統制。村落内への勧農行為を実現。用水統制権をもった武士の居館を中心に、開発・勧農・祭祀などが武士主導によって行われた。

惣領の地位は、嫡出長子とは限らず、前代の惣領が器量を見極めて決定されました。現在の日本の政治家における世襲や官僚制とは大きく違いますね。実力、尊敬、農業共同体のトップとして認められた存在であったのです。見習うべき点です。
このように田畑の開墾をしてきた土着の農民が武士の起源となっています。そのため武士が支配層となって以降も、力の圧政にならず村落共同体が維持されていったのです。
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(大山寺縁起絵巻より)
■日本の古代社会⇒中世社会への移行のまとめ
(古代)
農業共同体的諸関係が根強く残存する社会的土壌の上に専制的体制が構築された

権力の中央集中がみられながら、農民層内部における私的土地所有・階級分解が未熟のため不徹底ならざるをえず、在地の族長的支配層を接木的に編成する形態をとらざるを得ない

9世紀以降の唐朝の衰退・滅亡。支配層は権力を弱めていく。農民も逃亡分散し律令制度も廃れていく。

(中世)
地方族長層の政治的・軍事的自立、集権的官僚体制の解体を軸として進行。日本独自の共同体性を内包した封建社会を構築していく。開発領主⇒御家人(武士団)へと成長。
(参考文献)
日本の中世社会 著:永原慶二
日本史小百科 武士 著:下村いさお
鎌倉武士の実像 著:石井進

List    投稿者 mago | 2013-02-28 | Posted in 10.経済NEWS・その他No Comments » 

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