ギリシャ危機2〜ギリシャと米国の関係の歴史(戦後偏)〜
さて、前回は第二次世界大戦における、ギリシャと米国との関係を見ていきました。
戦後の財政難に苦しんでいたギリシャを助けたのは、アメリカでした。マーシャルプランによってギリシャを援助したアメリカは、当然、ギリシャとは緊密な関係(属国関係)を築いていきます。しかし、ギリシャとアメリカの関係はいつまでも続くわけではなく、ギリシャはアメリカと離れていきます。
さて今回は、その辺りの歴史を、第二次世界大戦後から’90年代まで、勉強していきたいと想います。
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それではまず、戦後のギリシャの歴史について、アメリカとの関係に着目していくつか出来事をピックアップしつつ、見ていきましょう。
52年10月
アメリカの脅しにより小選挙区制が導入され、明確な反共思想を持つ右派の政権樹立
54年12月
キプロス問題(※)を国連で取り上げるよう提議するも、アメリカ・イギリスの強固な反対で却下される。⇒ギリシャ内で反英米デモ
56年2月
国連にキプロス問題を取り上げてもらう為、各国に外交攻勢を行うも、同時期にギリシャ国内のアメリカ軍基地に関する協定に調印する。
64年
再びキプロス紛争勃発。アメリカのジョンソン大統領による調停により回避される。ジョンソンがギリシャ大使に対して発した発言「諸君の議会と諸君の憲法。アメリカは象である。キプロスはノミである。ギリシャもノミである。もしこの2匹のノミがいつまでも象を痒くさせるなら、ノミは象の鼻でひっぱたかれるだろう。それもこっぴどく。」
67年4月
クーデターにより軍事政権樹立。この時、アメリカのジョンソン民主政権が名目的に重武器禁輸を行ったが、ニクソン共和党政権によって撤廃される。
72年9月
ギリシャに米第6艦隊の母港が設定される。
戦後しばらく政治、経済、軍事全ての面において、アメリカの巨額支援に頼っていたギリシャ。一方でアメリカは、反共思想を持つ右派政権の樹立を強く望んでおり、総選挙で右派政党が有利になる小選挙区制の導入を要求しました。これはまさにアメリカのギリシャに対する内政干渉ですが、ギリシャはこれを受け入れ右派政権が樹立します。
54年12月、ギリシャが前から問題となっていたキプロス問題を、国際連合で取り上げるよう提議したところ、イギリス・アメリカから強固な反対を受け、却下されます。これを受け、ギリシャ国内では反米英デモが繰り広げられ、反米感情が高ぶります。政府は国民世論の流れに逆らうことは出来ず、国連の議決に勝つ為に外交攻勢を強めますが、アメリカに対しては弱気で、56年2月にギリシャ国内におけるアメリカ軍基地に関する協定に調印します。依然として、ギリシャ経済がアメリカに依存している状況だったのです。
64年に再びキプロス問題が再燃し、ギリシャとトルコの間に緊張が走りました。ところが、当時のアメリカ大統領ジョンソンの調停によってこの危機は回避されます。この時、ジョンソン大統領がギリシャに対して発した発言は、アメリカとギリシャの関係をよく表しています。この発言、かなり過激ですよね・・・
67年4月、政治不信により、右派政党の勢力が弱まり、左派政権の樹立が予想されていた5月の総選挙を目前にして、突如陸軍の中堅将校団がクーデター を起こし、軍事政権が樹立します。この時に、アメリカのジョンソン大統領は名目的に重武器禁輸措置を行ったが、その後、ニクソン大統領によって撤廃されます。この軍事政権は強く反共を訴えたことから、アメリカからの支持を受け、裏にはCIAの影があるとの噂もあったようです。当時、アメリカはアラブ諸国とイスラエルの「6日戦争」やリビアの「新米政権転覆」の危機を打開するために、ギリシャにおける軍事基地設立の望んでおり、72年9月にギリシャに米第9艦隊の母港が設定されました。
このように、アメリカとギリシャは緊密な関係(属国関係)が築かれていました。しかしながら、ここからギリシャとアメリカの関係が薄れていきます。
74年7月
三度キプロス紛争勃発。トルコ軍に島面積の40%を占領され、軍事政権の勢力は衰退、新政権(カラマンリス政権)が樹立。この間、アメリカは何の動きも見せず、ギリシャ国民内で反米感情が高まる。
74年8月
全ギリシャ社会主義運動(以後、「パソック」と記す)なる非マルクス主義左派政党が組織され、アメリカとNATOとの絶縁を訴える。
79年
カラマンリス政権はEC加盟を目指し、(支持率獲得という意味もあったであろうが、)積極的に経済・社会の近代化を試みた(国営航空会社や石油精製所の民営化、銀行の統制、選挙権獲得年齢の引き下げ、女性の社会的地位向上、等)。
81年
EC加盟
81年10月
この年の総選挙でパソックが圧倒的な支持を受け、ギリシャ史上初の左派政権(パパンドレウー政権)が誕生する。パパンドレウーは社会改革を劇的に進展させた。
83年〜
トルコとの間でエーゲ海の油田をめぐる衝突が起こるが、ギリシャはこれをNATOの非協力的態度が原因であるとした。
74年7月、三度キプロス紛争が勃発し、トルコ軍が島面積の40%を占領します。これによってギリシャは大打撃を受け、軍事政権の勢いは衰退し、新たにカラマンリスを首相とした政権が樹立しました。この3度目のキプロス紛争において、アメリカは何の動きも見せず、ギリシャ国民はアメリカがトルコに味方していると思い込み、反米感情は爆発寸前 のものとなります。こういった動きを受けて、アメリカ・NATOとの絶縁を訴える非マルクス主義左派政党(パソック)がパパンドレウーによって組織されます。この時期から脱米の考えが明確になりつつあったようです。
カラマンリス政権はEC加盟を望み、積極的に近代化を図ります。その結果79年にはその2年後の81年に正式加盟が約束されます。一方で、ギリシャ国民の反米感情は依然強く、アメリカに強硬な態度を示すパソックが確実に勢力を伸ばしていました。
81年10月、この年の総選挙でついにパソックが勝利し、ギリシャ初の左派政権(パパンドレウー政権)が誕生します。パパンドレウーは社会改革を劇的に行い、国による医療福祉サービス整備したが、経済政策は「銀行の国家管理」「森林私有地の強制的買い上げ」などにとどまりました。
83年からトルコとの間でエーゲ海の油田をめぐる衝突が何度も発生したが、この事件に対して、パパンドレウーは、責任は非協力的態度を取るNATOにあるとし、西側よりも東側との距離を縮める方向へと進んで行きました。
以上のように、キプロス紛争におけるギリシャ国民の反米感情の高まりから、左派政権(パパンドレウー政権)が誕生し、徐々にアメリカとの距離は離れていきました。また、カラマンリス政権、パパンドレウー政権ともに、EC加盟や支持率獲得の為、社会保障制度の充実を図りましたが、経済政策は不十分で、さらに、キプロス紛争のため、相当の軍事費も必要であったことから、ギリシャ経済は赤字体質になっていったと考えられます。
はじめは緊密な関係を築いていましたが、キプロス紛争を介して、徐々に反米感情が高まり、反米政権が樹立するなど、関係が悪化していったギリシャとアメリカ。さて、これがどうギリシャ危機とつながっていくのか?次回お楽しみに〜
※キプロス紛争
ギリシャ系住民とトルコ系住民が混住しているキプロス島における、ギリシャとトルコの領土問題(リンク)
参考サイト:ギリシャ近現代史
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