2023-03-31

いかにして稼ぐか!? ~近江商人に学ぶ集団の存続と外圧適応~

創業から100年以上を経た会社を老舗といい、さらに200年以上の老舗が日本には3000社あると言われています。アジアでは中国の9社、インドの3社、韓国0社。ヨーロッパではドイツの800社、オランダ200社と比べても、日本が大変多いことがわかります。日本で200年以上続いている企業を地域的にみていくと、現在の滋賀県(東近江や湖東地域)で、近江商人と呼ばれる人たちが創業した企業(※)が多数あります。

※200年以上続いている企業では、西川産業㈱(1566年)、メルクロス㈱(1585年)、外与㈱(1700年)、矢尾百貨店(1749年)など。伊藤忠商事㈱、丸紅㈱も近江商人に端を発しています。

★なぜ、近江商人の会社には、長寿の会社が多いのでしょうか?

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さまざまな理由がありますが、景気に左右されず目先の利益を追わない経営方針、日頃から災害や思いがけない事故に備える心掛け、更に「売り手によし、買い手によし、世間によし」の『三方よし』の精神で社会に貢献してきたことが大きな理由と考えられます。
そこで今回は、江戸の商家(近江商人)を掘り下げ、集団の存続と外圧適応を追求していきたいと思います。


★近江商人とは!?
近江商人とは、江戸時代に現在の滋賀県に本拠を置きながら、滋賀県以外の地域へ行商を行った商人のことです。近江商人は滋賀県の中でも琵琶湖の東岸、現在の東近江市、日野町、豊郷町から誕生しています。当時、彦根藩が農業のできない冬季に、農家の副業を奨励したことから、地域の産業として麻布など織物の生産がさかんになり、繊維製品を商う商人が多く誕生しました。
近江商人は信仰心があつく、比叡山延暦寺を開いた最澄の残した「忘己利他(もうこりた)」という言葉を大切にしていました。自分中心にものごとを考えるのではなく、周囲の人たちのためになるように勤めることが大切」という意味です。伊藤忠商事㈱創業者の伊藤忠兵衛は、商売は「売り買いの何れも益し、世の不足をうずめ、菩薩の心にかなうもの」といい、商業は世の中に必要な品物を不足なく行きわたらせる、社会に必要な大切な仕事と考えていました。

★各地の特産物を人々に!
近江商人の商いの手法は「諸国産物まわし」といわれています。
近江の特産物を各地へ持ち下り、そして遠くは北海道の海産物や山形の紅花、関東や東北の原材料を「登せ荷(のぼせに)」として、上方(京・大阪周辺)に持ち込み加工して、商品として再び「下し荷(くだしに)」として販売するといった、各地域の産物を売れ行きの良いところへ回転させる手法です。例えば、山形では紅花がたくさんとれたため、江戸時代は、紅花で染める原染料(紅餅)を近江商人が現地で生産加工までして、それを京都へ持っていき、京都で染め物などにして、全国各地へ持っていく商売をしています。伊藤忠商事も創業当時は紅忠という名前であったように、紅花は非常に大きな価値を持っていました。


★近江商人が大切にした商いのこころ
売り手によし 買い手によし 世間によし
「三方良し」の原典は長らく明らかではありませんでしたが、末永國紀同志社大学教授らの調査により、宝暦4年(1754年)に近江国神崎郡石場寺村(現在の滋賀県五個荘町石馬寺)の麻布商、中村治兵衛(法名宗岸)が残した書置(遺言状)「宗次郎幼主書置」であることが確認されています。

たとえ他国へ行商に出かけても、自分が持参した商品を、その国の人々が皆気分よく着用してもらえるように心掛け、自分のことばかりを思うのではなく、まずお客のためを思って、一挙に高利を望まず、何事も天道の恵み次第であると謙虚に身を処し、ひたすら行商先の人々のことを大切に思って、商売をしなければならない。そうすれば、天道にかない心身ともに健康に暮らすことができる。自分の心に悪い心が生じないように、神仏への信心を忘れないこと。地方へ行商に出かけるときは、以上のような心構えが一番大事なことである。このことをよく心掛けることが一番である。


★近江商人のくらし
近江商人の特色として、近江の本宅は商いの最前線ではなく、全国各地の出店が現在でいう営業拠点でした。その出店で働く人は、近江の本宅で採用された人々でした。本宅では丁稚見習いとして、10歳くらいから商人としての基礎的な教育が行われ、その子の能力や適性が判断されます。店の雑用に追われながら、16、7歳で元服式があり、奉公して5年目くらい経つと、「初登り」という、親元(在所)への最初の帰省が許され、販売などに携わる手代となります。さらに2、3年後に「中登り」が認められ、奉公人としての格も番頭、支配人へと上がっていくにつれて毎年1ヶ月ほどの在所への登り休暇が与えられ、そのころには結婚が許されました。在所登り制度は、長い奉公期間の一区切りであり、大きな慰安休暇であったと同時に、継続勤務が可能かどうか、それまでの勤務に評価が下されるときでもあったのです。だから、この在所登り制度は、単なる年功序列ではなく、人材選抜の厳しい能力主義によって貫かれたといえます。

それらの人材選別には、近江商人の妻たちが大きくかかわっています。「関東後家(かんとうごけ)」ともよばれた近江商人の妻たちは、一年の大半を行商に赴き本宅を留守にする主人に代り、家政全般に留まらず、丁稚の採用や教育・出店からの報告などの商売向きにも大きな役割を担っていました。寺子屋への入門から汐踏み(しおふみ)(商家での行儀見習い奉公)・上女中を経て近江商人の妻となって「のれん」を守り、商家の精神的な支えとなったのが商家の女性たちでした。

八幡商人に「おこひつさん」という言葉があります。「御後室様」と書き、大店の未亡人を指す言葉ですが、大店にふさわしい人格と教養を備えた大奥さまとして自他共に認められた女性への親しみが込められていました。

 

次回、人材育成としての「丁稚奉公」に着目し、さらに深く掘り下げていきたいと思います。

List    投稿者 matui-hi | 2023-03-31 | Posted in 09.反金融支配の潮流No Comments » 

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