2022-03-27

ロシアとユダヤ、1000年闘争

ウクライナに侵攻したロシア・プーチンとイスラエル首相のベネット首相が3月5日会談。そこで何が話されたのか?

世界の金融を動かすユダヤネットワーク、ウクライナはそのユダヤの根拠地でもある。ロシアとユダヤは1000年以上に渡って闘争を繰り返してきた。今回のウクライナをめぐる闘争もその歴史の一端ともいえる。ロシアとユダヤとウクライナの歴史から、今後の行方と世界の力の構造を探ってみる。

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下記の文章・図版はヘブライの館さんリンク リンクからの引用です。


●ウクライナの歴史

ウクライナはアシュケナージユダヤの根拠地ハザール王国。
●ウクライナ人は、ロシア人、ベラルーシ人と同じく「東スラブ族」に属している。ウクライナの歴史は古く、紀元5世紀前後に東スラブ族が黒海北方沿岸地域に住み着いた頃までさかのぼる。これ以前この地域は諸民族が入り乱れ、興亡を繰り返していた。

紀元前8~7世紀の黒海北岸地域はギリシア人の植民市が建設され、ステップ地帯ではスキタイ、サルマートなどの騎馬民族国家が興亡した。2世紀には東ゴート族が侵入し、古代ローマ時代末期にはフン族が東から西へ通過していった。

●6世紀頃、ドン川、ボルガ川下流地域を中心に「ハザール王国」(ハザール汗国)が勃興し、北方森林地帯のスラブ諸族を支配した。のちにこのハザール王国は、世界史上例を見ない「改宗ユダヤ教国家」となる。

13世紀に入ると、タタール(モンゴル)がハザール王国を完全に滅亡させた。ユダヤ教徒ハザール人、すなわちアシュケナジー・ユダヤ人たちはロシアが近かったので、その多くがロシア領内に逃げ込んだ。

ロシアのユダヤ教徒ハザール人たちは、すでに12世紀に、ロシア国家の中でロシアに対する陰謀を画策するようになっていた。そして1174年、彼らはロシアの最も有名な皇帝、アンドレイ・ボゴリュプスキー皇帝を暗殺したのである。

当時のロシアは多くの国々の集合体だったので、それぞれの国の皇帝が集まり会議が行われた。その結果、彼らはロシアにいるユダヤ教徒ハザール人を弾圧することに決定した。そして、多数のユダヤ教徒ハザール人が殺されることになったのである。

■ポーランドへ移ったハザール系ユダヤ人

ヨーロッパの歴史を振り返ると18世紀の末、1772年から3回にわたって、ポーランド分割が行われている。ポーランドは3つに分けられ、当時の強国であったロシア帝国はポーランド領の一部を自らの領土内に組み込んだ。ところがそのポーランドに、ハザール系ユダヤ人たちが「国家内国家」を形成していたのである。

大規模なユダヤ・コミュニティは、15世紀まではスペインの中にあった。もっとも、このスペインにいたユダヤ人は、そのほとんどすべてが聖書でいう本当のユダヤ人、すなわちスファラディ・ユダヤ人であった。1492年、スペイン政府がスファラディ・ユダヤ人を国外に追放したことによって、スペインの中のユダヤ国家は消滅した。スペインを追われたスファラディ・ユダヤ人たちは主に、北アフリカ、オランダ、イギリスなどへ渡って行った。

■ポーランド分割でロシアへ入ったハザール系ユダヤ人

ロシアは18世紀の終わりに、こうしたユダヤ人の「国家内国家」が存在するポーランドの領土の一部を自国の領土としたのであった。領土を得たのはよかったが、領土とともにユダヤ人の政府をも取り込んでしまったのである。このときにロシアは、きわめて危険な毒を飲み込むことになってしまった。

こうして、18世紀からロシア国家の内部には、再びユダヤ問題が生じるようになったのである。
ロシアのユダヤ人問題は昔も今も、最も難しい民族問題である。それは、ロシアにとってのユダヤ問題が、10世紀以来のロシア対ハザールの確執を含んでいるからである。ロシアが抱え込んだユダヤ人は、スファラデイ・ユダヤ人ではなく、アシュケナジー・ユダヤ人であり、彼らはユダヤ人ではないにもかかわらずユダヤ人と称する人々である。つまり彼らがユダヤ教徒ハザール人であるところに、この民族問題の複雑さがある。

その後18C~20C初頭は、エカテリーナ女王によるユダヤゲットー(強制収容地域)に。
●エカチェリーナ2世がこの「定住地域」を設定したのは、皇帝による伝統的なユダヤ人追放令の延長ともいえるが、直接には、ユダヤ商人によるロシア国内での商業活動を恐れたロシア商人の要求によるものであった。

この「定住地域」の広さは約100万平方キロメートルにも及び、ロシアにおけるいわば巨大なゲットーのような存在であった。1897年までに500万人以上のユダヤ人が住んでいた。

※ この「定住地域」は英語では「ロシア・ペール」と呼ばれている。

●このように啓蒙君主であるピョートル大帝を除くと、ほとんどのロシア皇帝は、18世紀後半のポーランド分割に至るまでは、ユダヤ人追放という一貫した政策を取ったことがわかる。

そのため、女帝エカチェリーナ2世によって「定住地域」が設置される以前の東欧ユダヤ人は、度重なる追放令によってロシア国内には法的には存在せず、もともとハザール王国の領域だった地域──黒海北部・ウクライナの地域で多く生活していたのである。この時期のウクライナはポーランド領である。

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↑「ユダヤ人制限居住地域(定住地域)」の拡大図
※ 定住地域外の東部の町にも多くのユダヤ人が住んでいた

●ポグロム(ユダヤ人虐殺)とユダヤ人の拡散
ロシアにおけるユダヤ迫害は、一般に「ポグロム」と呼ばれているが、一番最初のポグロムは、1871年にウクライナ南部──黒海北岸の都市オデッサで発生した。

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↑1881~1884年のポグロムの発生状況
※ 黒海北岸で集中的に発生している

&■反ユダヤ政策の「5月法」成立

●1881年のポグロム後、内相イグナチエフは皇帝アレクサンドル3世に、ポグロムの原因をユダヤ人の商業、工業への進出に対する一般民衆の抵抗の表明であるとし、ユダヤ人の“有害な”活動を阻止する必要があることを報告した。これを受けて、アレクサンドル3世は特別委員会を開設し、この問題について討議させた。

この結果として翌1882年5月3日に、種々の反ユダヤ法が成立した。内容は以下のものである。
◎町以外におけるユダヤ人の居住を禁止する
◎町以外におけるユダヤ人の商業活動、および土地賃貸の中止
◎ユダヤ人の日曜日(キリスト教祭日)の商業活動の禁止

●1881年にウクライナ南部(黒海北岸)において発生した一連のポグロムは、ロシアにいるユダヤ人たちに大きな衝撃を与え、ロシア・ユダヤ人社会に大きく分けて“3つの動き”を生み出すことになった。

●1つめの動きは、ユダヤ人の大移住である。1881年から1910年まで、300万人近くのユダヤ人が、ロシアを離れて他国へと移住した。その7割は、アメリカ合衆国を目ざしている。ユダヤ人は、エルサレム陥落以後、全世界に「離散の民」として移り住んだが、これほど短期間における大規模な移住は、かつて例を見ない。しかも彼らは組織もなく自発的にロシアを去ったのである。
●2つめの動きは、革命への積極的参加である。ロシアに残ったユダヤ人、とりわけ青年の一部は、革命によって自由と権利を得ることこそユダヤ人問題の唯一の解決だとして、革命運動に参加したのであった。
●3つめの動きは、シオニズム運動の開始である。一部のユダヤ人は、当時オスマン・トルコ帝国下にあったパレスチナにユダヤ人の国家を樹立することこそ、迫害の唯一の解決と考え、シオニズム運動を展開した。
・・・引用以上

●そして、ユダヤによる1917年ロシア革命・・・

・・古代ウクライナ・平原で交通の要衝だったからか、交易の民の根拠地であり、そのためユダヤ教に改修したのか。
その後も、アシュケナージ・ユダヤの根拠地としてユダヤ拡散の起点になっている。
次回、ロシア革命以降について概観する。

続く

 

List    投稿者 inoue-hi | 2022-03-27 | Posted in 05.瓦解する基軸通貨, 09.反金融支配の潮流No Comments » 

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