2010-07-31

シリーズ「市場は環境を守れない、社会を統合できない」8〜“官”僚から“民”衆へ〜

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本シリーズもいよいよ佳境に入ってきました〜 😛
前回は、市場絶対論、市場主義の根本的矛盾を鋭く暴きましたが、今回は、市場主義を切り裂く第二弾
「官から民へ」というフレーズの誤魔化しを暴きます。
小泉政権の頃に良く叫ばれたこのフレーズ、新自由主義者の合い言葉となり、今も、「みんなの党」の渡辺氏がアジェンダ?として掲げています。
この耳障りの良い言葉の正体とは
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ありがとうございます 😮
まずはるいネットの秀作投稿から
「官から民へ」はなぜゴマカシか?

「民営化すれば市場が活性化する」という理屈は、性闘争⇒自我・私権闘争の活力を根拠にしている。性闘争⇒自我・私権闘争が活力源であるが故に、その活力を生かすべく自由な市場競争に委ねれば、市場は活性化するというわけだ。
※引用注
性闘争:生物において、メスの獲得を巡るオス同士の闘いをさす。オスはメスを手に入れる為には、メスが安全に出産し、子育てする為の縄張りを確保しなければならず、従ってオス同士は縄張り闘争も闘わなければならない。性闘争本能はすべての動物に備わっているが、とりわけ哺乳類は、淘汰適応の必要から、性闘争本能をとことん強化した動物である。C.ダーウィンの提唱する、「性淘汰」の現象を、オスの闘争とメスの選択に分解したもので、その内の前者を指す。
私権闘争:私権とは、私的権益あるいは私的権限を略したもの。人類史の過去3000年は財(金)、地位、異性(女)などの、全てが私権の対象となっていた。その結果過去3000年間は、誰もが私権の獲得=私権闘争に収束することによって統合される私権統合の社会となった。(正確には私権闘争は、力=私権の強いものに弱いものが従う序列原理によって統合される。)貧困が消滅して以降、私権を求める欠乏や私権価値や私権闘争は衰弱を続けている。
※引用注終わり
しかし、本能を直撃するような生存圧力を克服し、もはや性闘争⇒自我・私権闘争は活力源ではなくなってしまったという現実を直視すれば、民営化はその理論的根拠を失っていることに気づくであろう。民営化が市場の活性化に結びつくのは、性闘争⇒自我・私権闘争が活力源である限りにおいて予測できることであって、その根拠である現実を捨象して、「民営化すれば市場が活性化する」と叫び続けるのは、ゴマカシ以外の何ものでもない。現に、これまでも様々な民営化や規制緩和、市場開放の施策は打たれてきたが、根本的なところ、市場が活性化して拡大するような気配はない。
例えば、建築物の計算書偽造問題にしたって、元をたどればアメリカの圧力によって建築基準法が改正され、規制緩和⇒民営化されてきたことに起因するが、建設業界が活性化する気配は全くない。それどころか、民営化⇒市場原理に委ねれば上手くゆくかのようなゴマカシをゴリ押ししてしまったがために、別の問題を引き起こしてしまった事例であると言ってもいいと思う。
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別の問題とは、「市場はそれ自体では統合機能を持たない 」という問題である。統合機能を持たない市場(民間)に権限だけを委譲すれば、今回の事件のような闘争圧力の抜け道としてのゴマカシや責任逃れが横行するのは必然である。言うまでもなく、官の権限には、その裏返しとしての統合責任が伴う。そして、この統合機能⇒統合責任は結局官が担うしかない。民営化して市場(民間)に権限を委譲したところで、市場(民間)には責任をとれる力(統合機能)はないから、結局は官が監督指導責任を問われることになる。
社会の統合は誰が担うのか?という本質論を抜きにした民営化論議は、ゴマカシそのものである。そのようなゴマカシの民営化論議が横行するが故に、社会は統合機能を失ってガタガタになる一方であり、今回の事件のような不祥事は増える一方であろう。
前段の話と繋げれば、「もはや性闘争⇒自我・私権闘争は活力源ではなくなってしまったという現実を捨象し、社会をどう統合するかという本質論を棚上げにした民営化であるが故に、市場は活性化することはなく、逆に一部に残されている自我・私権派(国家というモチに寄生するカビ)がはびこるばかりである」というのが事件の真相であろう。このようなゴマカシが蔓延するのは滅亡の構造そのものである。
「官から民へ」という論議は、本質的には、「自我・私権闘争に代わる活力源をどう考えるか?」「社会統合は誰が担うのか?」といった観点から省みられる必要があると思う。

「官から民へ」という論理は、貧困の時代、皆がお金を求めて必死に生きていた時代には市場の活性化に寄与するが、豊かさを得て、活力源が変わってしまった現在では、機能しないということ。
また、根本的に市場は社会を統合する機能(責任)を持たないため、民営化すればするほど、後始末する必要が出てくるということ。リーマンショックの後始末が最近では良い例?ですね。
この2点だけを見ても、「官から民へ」の論理は全く役に立たないものなのです。
そして今、まず必要なのは、これからの新しい社会統合はどうあるべきか??ということ。
「官から民へ」という言葉を用いるならば、
「官営から民間へ」ではなく、「官僚から民衆へ」社会統合の当事者を変えていく必要がある。
今や一部の特権階級による社会統合ではうまくいくはずが無く、社会の成員たる皆が当事者となって社会統合を担っていくことがこれからの社会統合であり、皆の活力源となる。
まずは当事者になれる場をつくり、世論形成をしていくことがこれから求められることと言えます。
市場を捉え直すには社会統合を捉え直す必要があることを説きましたが、
次回はさらに、市場と国家のズブズブの関係を明らかにしていきます。
それでは、また 😀

List    投稿者 vaio | 2010-07-31 | Posted in 09.反金融支配の潮流3 Comments » 

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コメント3件

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