2012-06-11

【戦国時代の権力需要と市場】シリーズ第5回 〜信長の天下取りに貢献した「堺」の歴史

 信長は「堺」の町を押さえることで天下を取れたとも言われています。堺の町を押さえることで、鉄砲という武器と経済を手にいれることができたのです。
 
 
 それではなぜ信長は「堺」に着目したのでしょうか。
今回は、信長の天下取りに貢献した「堺」の歴史(安土桃山時代まで)を調べてみました。
前回までの記事
 金貸しの起源は堺にヒントがある! 
 鉄砲伝来の背後にいた勢力 
 巧妙な観念力で勢力拡大してきた寺社
 既得権益層を打砕いた信長の経済政策
もあわせてお読みください。
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画像は「堺と酒造 堺市立図書館」からお借りしました。
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【歴史上での「堺」の登場】 
 堺市域に人が定住したのは古く旧石器時代とされ、市内各地の遺跡からは旧石器時代の打製石器や縄文時代の土器・石器、弥生時代の銅鐸・土器などが発掘されています。しかし歴史上で「堺」が登場するのは古墳時代となります。堺周辺には仁徳天皇陵など有名で多くの巨大古墳があります。100数基から成る百舌鳥古墳群も造られました。全国で古墳が作られましたが、なかでも堺周辺の古墳は巨大です。最もおおおきな豪族が支配していた土地であったということでしょう。中核となる仁徳陵(大仙古墳)は、日本最大規模の前方後円墳(全長:486、後円径:249m、高さ:35m、前方幅:305m、全周:約2.8km)で、クフ王のピラミッド(エジプト)、秦の始皇帝陵墓(中国)と共に世界3大古墳といわれています。
 堺は大陸(朝鮮)から船で日本にやってきた場合の最終港(上陸地)でありました。当時の船では太平洋を渡るには技術不足で、技術力が高まるまでは、日本の東側に船で行くには堺が最終上陸地になったということです。
 朝鮮から逃げてきた民族にとって追いかけてくるかもしれない敵が日本に上がってくる港とも考えられたでしょう。大和(奈良)に都を作ったのも、朝鮮から攻めて来られた場合に、敵が堺から上陸しても少し時間が稼げる(大坂から生駒山麓を越えるために時間がかかる)という理由もあったと言われています。
【日本の工業の先駆となった堺:鉄が西から上がってくる港としての堺が金属加工の職人の町になり、刀から鉄砲まで生産した】 
古墳時代には、泉北丘陵を中心に須恵器(陶質土器)の生産が行われました。5世紀に朝鮮半島南部から伝わり、重宝されました。生産は奈良時代を経て平安時代まで続きました。泉北ニュータウン周辺や信太山丘陵にかけて須恵器の釜跡などの遺跡が点在しており、「陶器」「釜室」などの地名が現在も残っています。
 
 飛鳥時代になると、河内鋳物師(かわちいもじ)という金属鋳造の技術者およびその集団が登場します。活動の最盛期は平安時代後半から室町時代前半で、日本各地に先進的な鋳造技術を広める働きをしました。東大寺再興や鎌倉大仏の鋳造などでも活躍しました。
 堺は、鉄の材料が西から上がってくる港になりました。重い材料である鉄は船で運びたいという理由があります。日本の東側に鉄器を船で運ぶには堺が最終地になりました。そこで堺が金属加工の職人の町になったのです。その中でも武器である刀を作る刀鍛冶が堺では発達したのでした。次ぎに1543年からは堺で鉄砲が生産されるようになりました。それは金属加工技術力の高い刀鍛冶が堺に多くいたという理由によります。南蛮文化の渡来のなか鉄砲が伝来し、堺の匠たちは標準化に基づく協業方式で大量生産体制を創出し近代戦術の幕開けを演出しました。
 
 堺の鉄砲鍛冶の次ぎは、自転車のフレーム加工や部品を取り付けるネジの製造などに大いに力を発揮しました。鉄砲鍛冶の技術を生かして、故障の多い明治時代の輸入自転車の修理や部品製造にあたったことが、堺の自転車産業の始まりで、現在も国産自転車の約4割のシェアを誇っています。かつて戦国の世を席巻した堺の技術は、幾百年の時を経て、現在の技術へと受け継がれています。.
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画像はこちらからお借りしました。
【貿易都市 堺】
 鎌倉時代には漁港として発達し、その後西日本の海運の拠点として発展していきます。港としての堺の出発点は、王家の管理下にあった「国際港」=榎津(えなつ)でした。
 遣明船が、応仁・文明の乱による焼失で当初予定の兵庫港に入港できず、堺港に入港して依頼堺港が遣明船の発着港となって栄えました。応仁・文明の乱以後、それまでの兵庫湊に代わり堺は日明貿易の中継地として更なる賑わいを始め、琉球貿易・南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まる国際貿易都市としての性格を帯びるようになります。
 
 前半期(1469〜1550年)は、東アジア貿易として遣明船貿易(1469〜1523年)と琉球(対明貿易のハブ港)貿易が栄えました。地下請の特権を得て、室町時代には足利将軍家や三管領の細川氏などが行った日明貿易(勘合貿易)の拠点となります。14〜15世紀、元寇の敗北以後、中国の制海権が衰退し、日本人、琉球人が海洋民族として積極的にアジア海域へ進出しました。15〜16世紀のアジア、とりわけ日本は世界でも最も進んだ文明の中心地となりました。世界から日本は“黄金のジパング”と呼ばれ、取引手段としての銀、金の供給元であり、日本の銀を目指して世界が動く時代でした。明やルソン・カンボジアなど東南アジア方面での貿易で戦国時代に堺は栄え、貿易港として黄金の時代を迎えます。堺は「東洋のベニス」と呼ばれていました。
 後半期(1550〜1615年)は、南蛮貿易が始まり、鉄砲の伝来により堺は、政治、経済と併せて軍事戦略上の重要な都市となって発達しました。安土桃山時代には貿易港としての地位を揺るぎないものとしました。
 
【自治都市となった 堺】
 1336年には堺北荘が住吉神社の領地となっていました。室町時代末期、足利氏が堺の支配権を持っていましたが、応仁の乱以降、支配力を足利氏が弱めてから、堺の町は豪族(武士)支配がなくなり、自治をするようになります。堺が自治都市となるには次ぎのような歴史をたどったのでした。
 
 港としての堺の出発点は、王家の管理下にあった「国際港」=榎津(えなつ)であり、住吉大社を海の神として信仰し、海上交通をになう海民たちの活動拠点でした。その後、春日社の共菜人たちが堺と奈良との関係をとりもち、堺に生まれた最初の自治組織として活動していきます。堺という場、あるいはその住人たちとの王権との関わりは、共御人の来往や王家領荘園の成立に始まり、南朝との親密な関係へと展開していきます。室町時代になると堺は、事実上、将軍直轄都市となり、このような自治制も幕府の認定をうけたものでした。
 永享3年(1431年)室町幕府は堺住人の一部に対し、地下請(じげうけ)することを許可しました。地下請とは「地下(その所領の住民たち)」が決められた金額の年貢や地子(じし・借地人が支払う地代)をとりまとめて領主に支払うことを請け負うことをいいます。ここで契約される年貢・地子は平均的な水準よりもかなり高額であるかわりに、領主はそれ以外の税を課することができす、またその所領の警察や裁判の権利も「地下」に引き渡すなど、事実上、領主としての支配を放棄したことになり、これにより「地下」の自治が達成されたことになったのです。
 地下請が成立するためには経済力だけでなく、住人をとりまとめる一定の自治組織が必要で、堺にはこうした組織の基盤がすでに完成していたことを示しています。
 この中心となったのが「会合衆」とよばれる堺の大商人たちでした。会合衆の下には各町の町年寄りや町代、月行事といった役職があり、町はそれぞれで運営されるといった重層的な自治体制をとっていました。
「会合衆」は約10人存在していたと考えられており、実質の堺の指導者でした。当時の都市自治の主体は「町(ちょう)」にありました。道路の両側に向かい合った店を出す住民たちが結束してつくりだした自治組織が町であり、町ごとに掟や式目などの法を定め、個別の町共同体が基礎単位となっていました。堺の運営は町による輪番制がひかれていました。自立的な町共同体が相互に輪番制で代表をだして運営にあたるといった組織の形態はみんなが参加できる民主的な側面をそなえており、成員を平等にあつかう原理が働いていたことになります。しかしながら、しろうとの多数決による衆愚政治に傾く危険性も伴っていました。そこで上位機関の成員として重視されたのが年功と名門であり、それは日本社会の構造に深く根差しており、広くいきわたった慣行でもありました。
 
 都市市民の精神の拠り所として、堺では開口(あぐち)神社があり三村社、念仏寺とも称されました。戦国時代では会合衆が祭りの頭人を務めており、また堺の氏神として崇敬を集めました。
  
 都市の自治を考える場合、防御の問題が大きいのですが、堺は海と環濠に囲まれていました。また、町にはふたつの門が設けられ、夜間は番人がこれを閉ざすという習わしになっていました。
 
 一方、商人たちの多くは高利貸しも行っており、借金の抵当として近隣農村の田畑の権利を集積していました。そのため堺は借金の棒引きを求める百姓たちから徳政一揆の標的ともされました。16世紀になって掘られる堺の環濠は、領主権力に対してだけでなく、徳政一揆に対抗する意味合いもありました。
【堺の経済力】
「織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代」武田知弘著 より

◆信長が目をつけた国際港「堺」
永禄十一(1568)年、信長は将軍足利義昭を奉じて上洛し、たちまち畿内を制圧した。
将軍足利義昭は、その労に報いるために、副将軍か畿内5カ国を治める管領職に就くように要請する。しかし信長はこれを断り、その代わりに堺、大津、草津に代官を置く許可を願いでるのだ。
:::中略:::
堺はそもそも山口、北九州へ続く瀬戸内航路や土佐、南九州への南海航路の起点であり、海上交通の要衝だった。
:::中略:::
応仁の乱で兵庫が荒廃したのをきっかけに、堺は遣明船の母港ともなり、さらに大きく発展した。戦国時代には日本最大の物流拠点となっていたのだ。
◆堺は日本最大の軍需都市だった
:::前略:::
堺は古くから金属産業が栄えたところで、古代から中世にかけての我が国の鋳物産業の中心地でもあった。そして戦国時代になり、物流の中心地にもなったことから、鉄砲や弾薬などもいち早く入ってきた。鉄砲の商品価値を目ざとく見出した堺の商人が、鉄砲製造を始めたのである。
:::中略:::
しかも、堺で造られるのは鉄砲だけでない。堺は鋳物師が多く住んでいるところでもあり、刀などの武具も多く生産されていた。堺は当時の最大の軍需生産都市だったのだ。
また堺は、生産だけでなく、輸入武器の集積場でもあった。明やヨーロッパから輸入される商品の多くが堺港に入ってくる。その中には世界で最新の武器も含まれている。つまり堺港を押さえることは、日本の軍需物資を押さえることになったのである。
:::中略:::
当時、日明貿易は、幕府や大名、大寺社などの後ろ盾があって、行われることが多かった。日明貿易は、海賊による襲撃などの危険も大きいため、大きな権力の後ろ盾が必要だったわけである。逆に言えば大名にとっては、日明貿易の後ろ盾になることで、莫大な収益を得られることになる。信長はそこに目をつけたわけである。
歴史学者の真栄平房昭氏の資産によると、遣明船一艘の一航海あたりの純益は1万8000貫文から2万5000貫文になるという。だいたい二万貫文の純益である。
 戦国時代の後期の物価では一貫文で米一石だったので、二万貫文の純益ということは、米の価格にして二万石ということになる。普通に年貢収入で、二万石の純益を得ようと思えば、年貢率を四割として五万石が必要となる。つまり、遣明船1艘の一航海で、五万石の大名の1年分の収入が得られたということである。

【茶の湯のはじまり 堺】
 堺の会合衆のかかで、とりわけ“納屋衆”といわれた有力商人10人が力を持っていました。これら商人の中には、千利休、今井宗久、津田宗及、山上宗二など茶人と言われた人たちが居りました。千利休(1522〜1591年)は、堺市今市町(現宿院町西)で、納屋衆・魚屋千与兵衛の長男として生れました。利休は独自の美意識ともてなしの心を理念として「茶の湯」の文化を大成しました。道具、茶室、料理などを徹底して「侘び」の思想を貫き、創意工夫を凝らして貴賎の別を越えた超俗の世界、封鎖空間を作り出しました。それは、宗教的な平等空間と中世・堺における自由経済競争における平等の思想を具体化したものでした。
 日本人独特の武士道的価値観をうまく取り入れながら発想された「侘び」、「寂び」の理念としてでだけではなく、日本の生活文化に基づく「もてなしの文化」という独自の「茶の湯」の文化を見出しました。本来の「もてなし」とは、応接、礼儀作法、料理、酒、お茶と豪華な宴会のもてなしを基本としていましたが、応仁・文明の乱(1468〜1486年)、戦国時代(1490〜1570年)など、下克上の無秩序の世の中にあっては、そのような接待宴会が成立しなくなり、やむなく、その一式を凝縮した形で最後のお茶席だけを独立させ、人間不信の時代に人間相互の信頼関係の回復と新たな人間関係の形成を目指した作法が創造されました。
 家の造り、造作、作法を徹底して凝縮し、主人が、客の目の前で全てを公開しながら濃い茶をたて、廻し飲み(毒物注入の嫌疑を払う儀式)をしてもてなし、信頼感の漂う人間関係の形成を目指しました。茶室、その空間は身分を離れ主客対等で安全が保証された聖なる空間として位置づけていたのです。
 利休は後年、織田信長、豊臣秀吉に茶頭して仕え茶の湯天下一の名人と言われました。1585年に、正親町天皇に茶を献じた際に居士号の「利休」を勅賜され、1587年、秀吉が催した前代未聞といわれる大規模の北野大茶会を主宰しました。1591年、不遜の行いがあったとして秀吉の怒りを買い、堺で自刃しその生涯を終えました。
 
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画像はこちらからお借りしました。
【まとめ】
 堺は西側(中国・朝鮮を含む)から海で来るには最後に上がる港という地の利がありました。それが原因で堺は次ぎのような特徴を持った町となりました。
①最新の技術(情報)と材料(鉄など)とが堺に集りました。そこで職人・商人の町(金属加工から鉄砲)ともなり、日本の工業の先駆的都市となりました。
②武器である刀や鉄砲を作る町となりました。武器商人が日本で最初に堺に登場したことになります。
③中国の制海権が衰退することで東洋を代表する貿易都市となりました。
④戦国時代に足利氏が衰退すると自治都市になりました。
⑤戦国武士に取り入れられた「茶の湯」の文化を堺の商人が見出しました。

これらの歴史があって、その価値に注目した織田信長、豊臣秀吉らの前に堺の町は屈服させられ、自治機能が解体され、彼らの支配下(直轄地)に置かれるようになるのでした。

List    投稿者 norio | 2012-06-11 | Posted in 09.反金融支配の潮流No Comments » 

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