稼げる人材の育成とは ~近江商人に学ぶ人材育成~
前回の投稿では、近江商人の企業はなぜ老舗が多いのか?という視点から、企業が長生きする経営とはなにかを掘り下げていきました。
企業では「人材が全て」とも言われます。近江商人はどのような人材育成制度を取っていたのでしょうか?その中には、現代にも活かせる、稼げる人材の育成のヒントがあります。
■仕事ができる人を育てる、江戸の教育システム ~丁稚奉公とは~
※画像は、「子供のための近江商人図録 近江商人ってな~に?」(サンライズ出版 2014)より引用
【近江商人の一生】
⓪6~7歳で寺子屋に入門。10歳ごろからは丁稚見習いとして本宅で基礎的な教育を受ける。
①12歳くらいから「丁稚」に。以降5年は親元に帰らず丁稚として働く。主人のお供、子守、掃除など。読み書きそろばんの練習。行儀見習い(無給)
②【初の昇進試験】5年後「初登り」で親元の近江に帰る。登りの時は、退職の形をとる。再勤を許されたものだけ、再度出店に戻る。
③16~17歳「手代」に元服後になる。番頭の指図で出納、記帳、売買など商いの本筋に携わり給金が定まる。
④「中登り」初登りから2、3年後。「隔年登り」中登り以降、2、3回
⑤30歳ころ「番頭」に昇格。店の経営、家事の切り盛り。奉公人の指導監督。給金以外にも報奨金も。毎年登りが許される。
⑥35歳ころ「別家」を許される。本家から家名と財産を分与されて独立。妻をめとり、所帯を持つ。
⑦隠居後は、社会活動、文化活動、宗教活動に従事。また、家訓、店則を定めて、次世代に受け継ぐ。
【12歳ころから始まる丁稚奉公】
近江商人の特色として、近江の本宅は商いの最前線ではなく、全国各地での出店が営業拠点でした。その出店で働く人は、近江の本宅で採用された人々でした。
本宅では丁稚見習いとして、10歳ころから商人としての基礎的な教育が行われ、その子の適性が判断されます。
丁稚見習いを終え12歳頃になると、丁稚として、全国の出店へ仕事に出向きます。
【何回もの昇進試験(昇り)】
丁稚として出店で仕事ができるようになっても、何回もの昇進試験(登り)があり、番頭、支配人と出世するのは並大抵ではありませんでした。能力がないとみなされると、近江に帰され、解雇されました。
【丁稚奉公に行く若者の意識】
『丁稚さんに行けんほん!』
近江商人の里の子供たちは、「丁稚さんに行けんほん!」としかられると、おとなしくなったといいます。近江商人がたくさん成功している姿を間近で見ている子供たちにとって、丁稚奉公に行って、一人前の商人になることは、あこがれでした。よって、まずは寺子屋や本宅での教育期間を無事通過することが、エリート商人への第一歩でした。
つまり、まずこの丁稚奉公システムが十分に機能していた大前提として、「大きな成功となる先(進路)が明確であること」「子供たちも含めて、社会全体でその必要性が共有されていた」ということがあります。
その上で、まずは10代のころに「家を出て、5年は親元に帰らずに、住み込みで丁稚として社会の現場に身を置いて働くこと」は丁稚奉公システムの特徴です。
5年後、初登りにて再勤が許されるのか否かが決まる、つまりこの5年の働きと評価がその後の人生にかかわってくるのであり、丁稚である子供たちも相当な真剣さで取り組んだことでしょう。
【丁稚奉公にみる人材育成のポイント】
当時の子供は12歳という若さで丁稚となり、親元を離れて仕事をしていました。また受け入れる商家も、戦力として丁稚に来る若者を育て、一人前にしていくという使命を持って指導していたと思われます。
また一度社会に出ても、何回もの昇進試験があり、誰でも出世していける社会ではありませんでした。このような丁稚奉公の仕組みが、仕事のできる人材を育てていたのです。
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