2013-03-17

日本史から探る脱市場の経済原理(12)〜日本人の中に息づく鎌倉武士の精神性〜

前回記事では、鎌倉武士の成り立ちと生活を取り上げました。

鎌倉武士は武士の理想像とされます。鎌倉時代が終わって南北朝の動乱、室町期、戦国期、江戸期を通じて「古の鎌倉武士を見るような」との賛辞は武士を褒めるのに最大級のものであったことは確かです。武士の精神は鎌倉期に極限まで高揚し、南北朝、室町期に低迷し、もう一度戦国期に高揚しますが、戦国武者をもってしても鎌倉武士の下位におく人が多いです。
こちらより

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今回は、彼らの精神性の中味をより具体的に見ていきたいと思います。

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◆鎌倉武士の生き様から生まれた言葉
当時の鎌倉武士の生き様からは、現在の私たちも耳にしたことがある熟語や慣用句が生み出されています。つまり、鎌倉武士の精神は、それらの言葉を通じて現代の日本人にも受け継がれていると考えられます。その幾つかを紹介します。
以下、鎌倉武士と文永の役より。
 
「一所懸命」

開墾も初期のうちはいくらでも土地があるように見えましたが、時代が進むと当時の技術で開墾できる所はやり尽くしてしまい、点在していた開墾地も境界を接する事になります。境界を接するようになれば争いが起こります。境界争い、水争いが頻発し、それを仲裁する機関など平安政府に求めるだけ無駄なので、武力の衝突となります。自らのコロニーの命運をかけての戦いです。仲裁機関がないのですから、勝った方は境界を自分により有利にひき直す事も出来ますし、場合によっては相手のコロニーを併呑する事も可能です。新たな開墾地が乏しくなれば、自らの勢力拡大のためにわざと争いをふっかけて戦い取る様なことも横行していたに違いありません。こんな中で「一所懸命」という言葉が誕生する事になります。現在では「一生懸命」として使われる事が多いですが、本来はニュアンスがかなり異なり、自分の領地(一所)を命懸けで守り抜く姿を表した言葉です。

「名こそ惜しけれ」

武士の自衛力の象徴は言うまでもなく武芸です。喰うか喰われるかの争いを繰り返していくうちに彼ら独自の美学がはぐくまれます。常に勇敢である事を至上の価値観に置き、対極に卑怯な振舞いを蔑む精神です。戦いを挑まれればこれを受けて立ち、正々堂々己の武勇の限りを尽くすのが美学とされたのです。こうして生み出された武勇の名は武士の誉れとして称えられ、その名が知れ渡ると周辺のコロニーから一目置かれる事になり、領地の安全保障と直結します。武士が自分の武勇の名を守るのに命を懸けたのは、これがあからさまなほどの実利と裏表になっており、鎌倉武士の有名な精神である「名こそ惜しけれ」が培われる事になります。

「命あっての物種」

生き残る事もまた重要な精神です。合戦で敗れて敗走する時、「名こそ惜しけれ」とばかり踏みとどまって戦えば一族郎党一人残らず死滅します。そこで落ち延びて、生き延びて再起を期すことも当たり前のように行なわれました、「命あっての物種」精神です。

「いざ鎌倉」「鎌倉の命、山の如し」

鎌倉幕府に対する御家人の忠誠心は後の室町幕府や江戸幕府に較べても格段に強いものがありました。はるか後年になりますが、鎌倉幕府滅亡時、京都の六波羅探題を脱出し鎌倉に向かった北条仲時は、番場の宿で包囲されて自刃しますが、その時に一緒に殉じた武士たちは432人と記録されています。本拠地鎌倉攻防戦では、北条一族すべてが誰一人裏切ることなく最後まで戦い抜き、高時自刃の時には一族が283人、郎党を含めると870人余りが自刃したと記録され、鎌倉内だけで6000人もの人間が殉じたと太平記には記録されています。

室町時代になると、こうした鎌倉武士の精神は影を潜め、ひたすら私利私益を追い求めるような気質に変わっていったようです。

元寇以後武士の気風は変わります。南北朝から室町期の武士は鎌倉武士の「名こそ惜しけれ」精神はすっかり影を潜め、ひたすら自分に恩賞を与えてくれる人物に従う事になります。ごく簡単に裏切りをし、さらにまた寝返るなんて事を日常茶飯事のように行ないます。源平合戦に較べ、南北朝の動乱がダラダラ続いたのは、武士が合戦において「命あっての物種」精神でのみ戦い、恩賞の多寡で北朝南朝を渡り鳥のように行き来したからです。

 
◆御成敗式目
もう一つ、この時代の注目されるトピックとして、武家の法律、「御成敗式目」が整えられたことがあります。1221年承久の乱に勝利し、国家機関としての組織を整える必要が生じた鎌倉幕府により作られたこの法制は、その後も長く武士たちの規範となっていきます。

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御成敗式目は武家が対象ですが、内容は現代の「民法」「刑法」のようなものです。例えば、全51条の条項の中には、次のようなものがあります。

第12条:「悪口(あっこう)の罪について」
 争いの元である悪口はこれを禁止する。重大な悪口は流罪とし、軽い場合でも牢に入れる。また、裁判中に相手の悪口をいった者は直ちにその者の負けとする。また、裁判の理由が無いのに訴えた場合はその者の領地を没収し領地がない場合は流罪とする。
第19条:「忠実を装い財産を与えられた家来が、主人死亡の後に態度を変えた場合について」
 主人を敬いよく働いたために財産やその譲り状を与えられた家来が、主人死亡の後にその恩を忘れて財産を奪おうなどと子供等と争った場合、その財産を取りあげて主人の子供等に全てを与えることとする
現代語訳「御成敗式目」全文より

  
現在見られるような細かくて分かり難い法律ではなく、より実感に即したもので、人間的として必要な規範を罰則をつけて明文化したものであるのが分かります。

基本法としてのこの式目は、御家人の所領をめぐる権利意識を背景として、日本独自に発生した『法の支配』の一体系として、我が国、いや世界の法制の歴史の中で画期的な出来事といえる。わずか51か条の法典ではあるが、律令のような外国からの模倣ではなく、武家が日々の生活の中で培った『道理』を成文化した、純粋に我が国独自の法典といえるからだ。
しかもこの式目は他国の文明にあるような専制君主が私的に規定したものではなく、政府である幕府の公の機関である執権・連署・評定衆が審議決定し発布した基本法であり、その実施は政所、問注所、侍所など幕府によって整備された司法機関に支えられていた。
また誰にでもわかりやすい規範をという泰時の希望通り、式目は手写によって広められ、はやくから庶民の読み書きの教材となり、江戸時代になっても寺子屋で教科書として用いられ、松尾芭蕉の俳句に登場するなど後世にまで我が国の司法・教育に多大な影響を与えた。
それは単にこの式目が法的手続きを定めたようなものでなく、『道理』という人間としての規範に訴える性質を持っていたからに他ならない。
貞永式目の歴史的意義より

——-
鎌倉時代は、今回取り上げた武士の世界のほか、仏教の世界においても大きな変化が見られました。空也、法然、親鸞、日蓮など多くの宗教家が登場し、末法思想の流行から浄土信仰の誕生に見られるように、仏教が統合階級の宗教から庶民の宗教へと変わっていき、それに伴って日本独自の仏教観が形成されていきました。
鎌倉時代は思想の花園
 
つまり、この時代は、庶民寄りの東国武士が国の統合を担うようになったことも含めて、大陸から輸入された律令思想や仏教観念が単なる模倣の域を脱し、庶民≒縄文人の意識がブレンドされることで、日本人の精神性の一角を成す観念が成立した時代といえるのではないでしょうか。

List    投稿者 s.tanaka | 2013-03-17 | Posted in 01.世界恐慌、日本は?No Comments » 

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