2009-08-05

食料自立・日本どうする! 1.江戸〜明治・大正、五穀による食料自給

『食料自立への道を探る』シリーズは、いよいよ、日本について考察開始です。日本考察は、数回以上になると思いますので、シリーズタイトルを分岐させます。
世界各地を扱うシリーズは、そのまま、『食料自立への道を探る・・・・』とし、日本シリーズは、『食料自立・日本をどうする!・・・・・』のタイトルで扱っていきます。 
 
さっそく、第1回です。江戸期から明治・大正・昭和初期を扱います。
昭和25年、時の大蔵大臣池田勇人が、「貧乏人は麦を食え」と発言し、国会で大問題を起こしましたが、貧乏人だけでなく、普通の人々が麦を食していた時代です。 
 
  長野県阿南町・日吉の御鍬祭り(五穀豊穣)
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  30戸の日吉集落伊勢社、伊勢外宮(豊受大神)の流れにある「五穀豊穣・虫おくり」の神事 
  リンク 
 
1.食料を他国に依存せず、食料自立は当然視していた 
 
江戸時代は、鎖国政策に見られるように、日本国全体としては、食料は自給していた。国家としてみた場合は、食料は当然ながら他国に依存せず、自立していた。 
 
では、明治から第二次世界大戦までの時代はどうだろうか?朝鮮半島や台湾島を領有していた、大日本帝國の時代です。 
 
外地米という言葉があります。これは、朝鮮半島、台湾から本土に移入されて来るお米を指す言葉です。 
 
大正から昭和になると、江戸・明治の<お米+麦・雑穀>から、お米志向が強まり、本土産のお米だけでは足らなくなります。そこで、台湾と朝鮮で、米増産政策をとります。
朝鮮の米生産は、1910年代の190万トンから1940年の400万トンに倍増します。台湾は、1900年代の40万トンから1940年の160万トンに4倍増となります。
この朝鮮産、台湾産のお米を本土に移入することで、大日本帝國は、食料自給・食料自立を確保していました。 
 
因みに、1940年(昭和15年)当時、本土人口は7400万人です。
そして、本土産のお米は1200万トン、朝鮮及び台湾から移入されお米が250万トンです。ですから、本土のお米自給率は、83%ですね。・・・・1200÷(1200+250)=83%。 
 
食料自給率を考える時、標準的な食事内容により、今まで自足(自給)できていたものが、自足できなくなります。大正・昭和のお米志向(銀シャリ志向)が、本土のお米不足をもたらしました。 
 
食料自給では、その時代に何を食べているのかが重要ですね。そこで、日本人の主食・五穀について、江戸時代からみてみます。 
 
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2.五穀で暮らしてきた日本人 
 
食料自立を追及しているグループには、昭和20年代、30年代の田舎(農家)育ちのメンバーがいます。昭和20年代の食事を思い出してみると、概ね以下の様になります。 
 
夏の一日の食事メニュー
 朝食 : 麦ご飯(米と大麦・押麦)、(鶏が産んでくれたら)卵、ナス味噌汁、かぼちゃ煮つけ
 昼食 : 素麺、かぼちゃ煮付け。あるいは、間食代わりに、蒸かした甘藷ととうもろこし
 夕食 : 麦ご飯、ナス味噌汁、ナス味噌炒め。稀に、川魚(ナマズやフナ等)煮付け
 注:甘藷(かんしょ)はさつまいものことです。後で出てくる馬鈴薯(ばれいしょ)はじゃがいも。 
 
穀物としては、お米、大麦、小麦(素麺)ですね。
炭水化物(でんぷん質)の摂取は、上記の米、大麦、小麦に加え、甘藷やとうもろこしが入るので、お米の比率は概ね半分くらいです。 
 
冒頭で紹介した「貧乏人は麦を食え」のエピソードは、ウイキペディアでは以下です。

1950年12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした。この質疑応答を池田は「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくったが、これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていた新聞を刺激した。
翌日の朝刊は「貧乏人は麦を食え」という見出しで池田の発言を紹介、これが池田自身の発言として伝わり、各方面から強い批判を受けることになった。

農家なので、お米が確保されていますが、江戸時代、室町時代へと遡ると、黍(きび)や稗(ひえ)、粟などが加わった、「五穀」を組み合わせて食してきたのが、日本人です。 
 
五穀の項を、ウイキペディアで簡単に確認すると。

日本においては、「いつつのたなつもの」あるいは「いつくさのたなつもの」とも読む。古代からその内容は一定していない。現代においては、米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)を指すことが多い。いずれも代表的な人間の主食である。
  稲・麦・粟・大豆・小豆 (『古事記』)
  稲・麦・粟・稗・豆 (『日本書紀』)

3.小麦・粉食の本格化は江戸時代から 
 
お米や大麦に比べ、食べにくい小麦は、粉にすることで、主食の一部を成していきます。
古代では、正倉院文書にでて来る索餅(さくべい)です。小麦粉(15)と米粉(6)に塩を混ぜて練ったものを、細い縄の形にひねったもが索餅です。この索餅から、鎌倉・室町時代に、素麺へと発展します。 
 
そして、世の中が安定し、都市へと人口が集中する江戸時代になると、専門的な粉屋が登場します。 
 
図は、元禄時代の『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』に描かれている、横臼です。大きな石臼を数人がかりで引いています。 
 
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江戸後期には、近郊の武蔵野の村々で、水車を利用し、米粉、小麦粉、蕎麦粉をつくり、巨大な江戸の人口を支えていきます。
図は、江戸末期(1836年)の刊行された『製油録』にでて来る、二連水車です。巨大なニ輌の水車を連結して、複数の臼と多数の杵を連動させ、菜種と綿実の粉砕を行っている。
中央に水の流れが見えるところが、水車です。右方向に回転軸がでてきていて、その軸に組み込まれた腕木が、杵の上げ下げをしていますね。 
  
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4.江戸から昭和へ、日本人の米シフトが進んでいく 
 
粉食普及で、小麦を本格的に取り入れた日本人の食料構成は、どんなだったでしょうか。まずは、江戸末期から明治初めの主食構成のデータです。(資料は、「農事統計表」、平野師応、1888年大日本農事会刊から)。 
 
江戸末期・明治初期の主食構成

  文久元年
1861年
明治3年
1870年
明治12年
1879年
明治19年
1886年
 米   47%  50%  53%  51%
 麦   28%  27%  27%  28%
雑 穀  19%  17%  14%  13%
甘 藷   3%   3%   5%   5%
その他   3%   3%   1%   3%

 
 
江戸末期から明治初期では、主食に占めるお米の割合は、ちょうど半分ぐらいで、余り変わっていませんね。 
 
次に、明治から昭和初期にかけてどう変化しているかみてみましょう。データの取り方が違うので、上の表とは直接比較できませんが、大きな特徴をみることができます。
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まず、お米の消費が確実に拡大していっています。明治13年には年106kgだったのが、大正9年には147kgになっています。
それに対し、麦は、明治後半は増加していますが、大正・昭和では逆に減少しています。雑穀、甘藷・馬鈴薯も昭和になると減少していますね。(なお、表の雑穀は、燕麦・粟・稗・黍・玉蜀黍・蕎麦の合計です。) 
 
 
考察:五穀(米・麦・雑穀・いも)に依拠すれば、食料自立は確保される 
 
昭和初期までは、米だけでなく、麦や雑穀、イモ類を主食とすることで、日本の食料自給は確保されていました。勿論、麦も国産麦です。(温暖な表日本を中心として、二毛作(秋〜春作)として麦が広範に栽培されていました。) 
 
しかし、昭和初期の都市化により、都市住民の白米シフト、銀シャリ信仰が高まり、麦・雑穀・イモ食が衰退の兆しを見せています。
この白米シフトは、朝鮮・台湾での米生産と本土への移入により、何とか対応していたのです。 
 
敗戦により朝鮮と台湾を失った時、日本人は、麦・雑穀・イモ食へ先祖帰りする必要があったのです。しかし、その動きをせき止めてしまったのが、米国の余剰農産物、余剰小麦粉・パン食です。 
 
次回は、戦中の米穀統制(米配給制)と戦後の米国産小麦の流入あたりを扱ってみましょう。 
 
参考資料
『ものから見る日本史・雑穀Ⅱ/粉食文化論の可能性』(木村茂光編、2006年青木書店発行) 
 
『人口と食料(環境・資源の制約)−戦前の日本及び旧植民地を例にして−』(大浦裕一郎・川島博之)

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List    投稿者 leonrosa | 2009-08-05 | Posted in 01.世界恐慌、日本は?2 Comments » 

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コメント2件

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