2013-06-04

貨幣はどこから生まれてきたのか? 西洋編 第2回:メソポタミア文明の農耕と銀

前回の記事(貨幣はどこから生まれてきたのか? 西洋編 第1回:4000年も前からシュメールで価値の尺度として使われていた”銀”)より、西欧(西洋)では貨幣≒コインの製造の前から、銀の重さが貨幣と同様の機能≒価値の基準として広まっていたようです。
今回は、“銀”とその使われ方について、ハンムラビ法典以前の時代に遡って考えてみたいと思います。
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 何故、ハンムラビ法典以前かというと、ハンムラビ法典は利息の記述があり、商取引の開始の証拠として有名になりました。また、「目には目を」「歯には歯を」といった等価の報復を謳った法典としても有名です。
しかし、現在ではハンムラビ法典以前に銀による利息≒金利の記述のある文章が見つかっており、ハンムラビ法典は「商取引開始の証」の意義を失っています。現段階で最も古い利息≒金利の記載があるものはウル・ナンム法典といわれる物でやはり、利息の記述があります。
ウル・ナンム法典はハンムラビ法典BC.1750頃からさらに350年程度遡ったBC.2100年頃のもので(現存する)世界最古の法典です。
今回はこの世界最古の法典に記述されているシステムの原型を作ったのではないかと考えられるシュメール人の時代の都市国家や農業生産の様子などにも目を向けながら“銀”の使われ方を考えてみます。
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ウル・ナンム法典

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1. 農業生産様式と都市国家の成立
http://www14.plala.or.jp/hiro_1/sekai/1/003.htm より

オリエントとは「太陽ののぼる所」を意味し、ヨーロッパから見た東方、今日「中東」とよばれる地方をさす。この地方は一般に雨がきわめて少ないうえに気温が高いため、砂漠・草原・岩山をなす地域が多い。そこでは長いあいだ遊牧生活がいとなまれたが、農業は沿海や河川領域の平野、オアシスでおこなわれ、麦・豆類の耕作やオリーブ・ナツメヤシなどが栽培された。しかし、ティグリス・ユーフラテス川、ナイル川など大河の流域だけは特別で、毎年一定の時期の氾濫がもたらす沃土(よくど)を利用して、はやくから穀物農業がおこなわれ、大規模な定住が進み、高い文明が発達した。
ティグリス・ユーフラテス両河流域のメソポタミア(*1)では、前3000年ごろから都市文明が栄えた。この地は外から侵入しやすい地域ということもあって、アラビア半島や周辺の高原から遊牧民族が侵入し、複雑な歴史をくりひろげた。
(中略)
オリエント社会では、大河の治水・灌漑のために、はやくから強い宗教的支配を特徴とする神権政治(しんけんせいじ)が生まれたが、文化も現人神(あらびとがみ)の権力や宗教の権威を象徴する性格のものが多かった。
(*1)メソポタミアとは「川のあいだの地方」の意味で、ほぼ今日のイラクにあたる。

年一定の時期の氾濫がもたらす沃土(よくど)を利用するため暦が発達し、その暦を司る神官によって宗教と結びついた神権政治で統合されていきました。一方、潅漑農業の発達により高い農業生産性を実現したことにより、神官などの支配階級や商取引に関わる商人たちという生産に直接関与しない人口を支えることを可能としました。
そして、他国との交易も行われており、この時代の交易の記録の中心は支配階級である神官による神殿建設等の材料調達が中心であったようです。そして、その取引、運搬を担ったのが商人たちであったのではないかとおもいます。

そして、前述のハンムラビ法典やウル・ナンム法典はこうした商取引や海運に関するトラブルに対する決め事の色彩が強いのです。
2. メソポタミア文明の農耕様式
http://blog.new-agriculture.com/blog/2009/09/000972.html より

【シュメール文明は何故滅んだのか】
 シュメール文明は、灌漑をやりすぎて塩害で滅んだという説が有力である。メソポタミア南部のような乾燥地帯で、灌漑を行い、大量の水を散布すると、灌漑用水は、いったんは土壌中の塩類を溶かしながら下方へと浸透するが、やがて毛細管現象により上昇し、地表面にまで来ると、水分が蒸発するので、塩類だけが残る。そして、地表面に塩類が残留すると、強い浸透圧により、植物は根から水を吸収できなくなり、枯れてしまう。これが塩害である。
メソポタミアの刻文に「黒い耕地が白くなり」「平野は塩で埋まった」という記録があるから、塩害の被害は当時も深刻だったのだろう。シュメール人は、もともと灌漑で小麦を育て、それを輸出していたが、ウル第三王朝が滅んだ頃は、塩害に強い大麦を育てていたという事実がそれを雄弁に物語っている。シュメールの都市国家の一つラガシュでは、紀元前2350年から紀元前2100年にかけて、単位あたりの麦の収穫高が4割近く減っている [松本健 他:四大文明 (メソポタミア),p.72]。

メソポタミヤで都市国家を築いたシュメール人たちは、潅漑農業の開始後、塩害に悩まされることになります。多くの都市国家の遺跡は高い技術で作られているにもかかわらず、放棄されてしまった様なのです。
潅漑開始当初は高い生産性を誇る周辺農地も何年もの月日を重ねると塩害によって生産力が壊滅状態になったのではないかと想像します。
シュメール人は人類の戦争の歴史の発端であったと考えられていますが、彼らの争いは、次々と新たな土地を求めて定住場所を変えていくことで起こったのではないでしょうか?
元々、遊牧民の出自であると思われるシュメール人たちは、遊牧から定住農業へ生産様式を切り替えても、永住する土地を持つことが出来なかったと考えると感慨(潅漑? 😉 )深い物があります。(笑)
3. 生産物の管理と統合手法
http://blog.new-agriculture.com/blog/2009/09/000972.html より

【シュメール文明は何故滅んだのか】
 シュメール人は、雨季が始まる12月に種を蒔き、5月ごろに収穫していたのだが、収穫の時期と洪水の時期が一致するので、せっかくの収穫が水に流されて台無しになるということがしばしばあった。彼らにとって、洪水は恵みの水ではなくて、災難だった。またチグリス・ユーフラテス川は天井川なので、堤防を造っても決壊しやすかった。そこで彼らは、縦横に灌漑用水路を引き、流れを分散させ、洪水対策を兼ねた収穫増産を行ったわけである。

定期的に氾濫するチグリス・ユーフラテス川による洪水は、せっかくの収穫が水に流されて台無しになるということがしばしばあった様で、収穫物の保管の為の倉庫の建設が行われたようです
http://naturalisticspoon.com/japanese/currency.htmlより

 「貨幣」という機能を人類が初めて創造したのは、紀元前2000年頃、メソポタミア文明の担い手シュメール人だったとされています。彼らは、財の運搬を行う際、仕向け先で元の財との交換を保証する目的で、同じ価値を持つ対価物として銀地金を受け取るという制度を考え出しました。シュメール人の都市国家は各々の神を祀り、共同体として農耕を行い、生産物としての穀物を神殿の倉庫に保管し管理したようですが、その際、預けた穀物と同じ価値のものを引き出せることを保証する対価物として、同じように銀地金を使い始めました。銀は、一定の重さの単位で封印された袋に入れられて用いられたとされ、やがて、銀の重量単位が、価値を表す単位となり、後に通貨単位として使われるようになったのです。これが、「貨幣」の始まりとされています。

倉庫に人々は収穫物を預けるのですが、その預かり証に用いられたのが“銀”だったのです。
倉庫に小麦を預けるとその重量に応じて銀を受け取り、銀を倉庫に持っていくと小麦に交換してもらえるというシステムがあったのです。
この時に小麦と銀の交換基準が成立し、銀は小麦という現物価値のあるものとの交換価値が生まれたと考えられます。
(※他国との交易に銀が使用されていたかは今のところ不明です。他国との交易は現物の小麦であった可能性が高いと考えています。)
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ウルのジッグラト
ジッグラト(Ziggurat)とは古代メソポタミアにおいて日乾煉瓦を用いて数階層に組み上げて建てられた聖塔である。「高い所」を意味する言葉である。シュメール起源と考えられており、一般に地上の神殿又は神殿群に付属しながらジッグラトの頂上にも神殿を備え、神の訪れる人工の山としてメソポタミアの諸都市に建造された。しかし、機能的には不明な点も多い。(ウィキペディアより)
ジグラットは神殿機能だけでなく、倉庫の機能を持っていたのではないか??
一方、シュメール人たちの都市国家では、何年か後には移り住む必要があるため、生産基盤であるはずの土地は支配管理の対象とはならなかったのではないかと思います。そのため、東洋(中国)とは違って、領地を支配するという意識は、その土地に生産力がある期間限定となり、支配の基盤としては、現物の収穫物である小麦の管理だったのではないかと考えます。
その為、小麦との交換価値があり、劣化しない銀が都市国家の支配システムの中にしっかり取り込まれていったのではないかと思います。
4. まとめ
メソポタミヤ文明の都市国家に於いて、シュメール人たちは期間限定の高い生産力の土地を作り出しました。
そのため、余剰作物が生産に関わらない人口を生み、定期的な自然現象を予測・管理する為に暦が発達し、神の概念(宗教)と結びついた神権政治で統合されるようになりました。
一方、永久には生産に寄与しない土地(領地)より、収穫物を直接支配管理するほうが有効だったのではないかと思います。その為の手法として銀と小麦の交換価値が成立させたのではないでしょうか?銀そのものが小麦本位制とも言える貨幣的≒普遍的交換価値へと近づいていったのではないかと考えています。
この時代、地域通貨のように銀は限りなく貨幣に近い物として地域で使われていたのではないかと推察します。
さて、次回は何故小麦の預かり証が“銀”だったのか?について考えてみたいと思います。

List    投稿者 bonbon | 2013-06-04 | Posted in 08.金融資本家の戦略No Comments » 

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