エネルギー経済3 石油の価格決定権の変遷 (泣く子も黙るOPECの支配はごく短期間)
ニューヨーク、マーカンタイル市場の原油価格は、8月28日現在115.46ドル/バレルと、7月11日に付けた最高値の1バレル=147.27ドルから、約1カ月半で31ドル以上、率にして20%強下落したことになりますが、そもそも原油価格はどうやって決まっているのか、その価格決定機構の歴史的変遷を追って見ました。
出典はみづほ総研論文集2006年Ⅲ号世界的な原油争奪の構造と行方
<肖像は最初に原油を発掘したドレーク大佐>
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レポートを要約しました。
(1)石油産業の創世記(1859〜1914)
石油は1859年米ペンシルバニア州にて、エドウィン・L・ドレークによって世界で初めて機械掘が行われた。
その後J・D・ロックフェラーが創立したスタンダード石油が価格決定に大きな力を持ち、19世紀末ごろにはロックフェラーの設立した石油トラストは全米石油工業の90%、世界の62%を支配するまでになった。
この時代はスタンダード石油が独占的価格決定権を持っていた。
(2)メジャーズの時代(1914〜1973年)
第一次世界大戦(1914〜1918年)によって、石油は戦略的商品としての地位を確立した。
1908年中東で初めて石油が発見され、中東の戦略的位置づけが高まった。
一方、反トラスト法により、スタンダード石油は解散を余儀なくされたが各国で石油の開発競争が激化した。
米国でもテキサス州で石油が発見され、価格は13㌣/バレルまで下落した。
原油価格の低下に対して、1928年スタンダードやシェルなどの生産会社3社は、アクアナキャリー協定と呼ばれる現状維持協定を結んだり、「ガルフ・プラス方式」と呼ばれる国際的な価格決定体系を確立し、本格的な石油メジャーによる価格支配の時代を迎える。
(3)メジャーの支配と産油国の反発〜OPECの結成
第二次大戦が終了すると、世界経済の拡大に伴って原油需要も拡大したが、それを上回るペースで供給も拡大した。
この時期は、メジャーが生産割当てを実施する中で、価格は比較的安定的に推移した。
1940〜1950代は中東で油田開発が進む一方、欧米メジャーの価格支配が続き産油国には資源ナショナリズムが徐徐に台頭してくる。
資源ナショナリズムの高まりの中で、1950年サウジアラビアとアラムコとの利益折半協定が結ばれたことを契機として、中東産油国にメジャーへの利益還付の動きが強まってくる。
1951年イランはブリティッシュ・ペトロリアムを接収し、1956年の「スエズ危機」でエジプトが英・仏・イスラエル連合に勝利したことにより、中東産油国の民族主義が強まってくる。
50年代を通じて、原油需要は好調に推移していたが、一方新たな油田の発見により需給が緩和してきたことから、メジャーは一方的に公定価格の引き下げを行った。
これに対し中東産油国は猛反発し、1960年9月14日石油輸出国機構(OPEC)を結成した。
これ以後、OPECとメジャーの間で石油権益の取り分を巡る攻防戦が続く。
しかしこの時期はまだ米国の石油増産に余力があったため、中東地域の紛争が石油需給に与える影響は決定的とはならなかった。
(4)OPECの時代(1973〜1985年)からWTI(ウエスト・テキサス・インターミーディエイト)先物取引の開始
70年代に入ると、世界経済の拡大に伴い原油需要が供給に追いついてきたことと、米国の増産余力に陰りが見えてきたことから、1970年リビア新政府のメジャーとの価格引き上げ交渉の成功を契機に徐所に産油国が価格決定権への影響力を強めていった。
1973年クエート宣言により、OPECが一方的に公示価格の70%アップを行い、OPECの価格決定の主権を確立した。
1973年第4次中東戦争の勃発により、OPECによる石油禁輸措置がとられたことから原油高騰を招いた(第一次石油ショック)
その結果産油国では国有化の動きが早まり、消費国ではパニック的仮需が発生した。
世界の安定的なエネルギー供給を目的に国際エネルギー機関(IEA)が作られたのもこのころである。
以後80年代前半まではOPECが絶対的な主権を握っていた時代である。
1979年イラン革命によりパーレビ王朝が崩壊し原油供給が停止したことから、石油業界にパニックが広がり、価格は13ドルから34ドル/バーレルまで急上昇した。(第二次オイルショック)
石油需要はどこまでも拡大し、価格もどこまでも上がり続けるとの予測が支配的だったことから、産油国は大幅な能力増強投資に踏み切った。
しかし、既に不況による需要の減退と産油国の供給力拡大、さらに石油各社の大幅な在庫積み増しにより需給が緩みはじめていた。
溜まっていた原油在庫が市場にあふれ出し、価格は低下を始めた。
非OPEC諸国がOPECの公示価格より低い価格で供給するに到り、OPECは大幅減産を決定し割り当てを決めたが、サウジアラビアだけは全体の原油生産量を調整することになった。
ここまでは、石油各社の原油供給は産油国との長期契約が主で、スポット市場はその余りを処分する場に過ぎなかった。
しかし産油国の資源ナショナリズムの高まりにより、石油各社は産油国の上流へのパイプが細くならざるを得なくなった。その結果新たな原油調達の場としてスポット市場の重要性が高まった。
ニュヨーク商品取引所(NYMEX)でWTIの原油先物取引が開始されたのも1983年である。
(5)マーケットの時代
80年代半ばになると価格はさらに下落傾向を強めた。OPEC各国は生産割当てを上回る輸出を行い、「スイングプロデユーサー(生産調整役)」としてのサウジアラビアの輸出は減少を続け、シェアの大幅な減少となった。
1985年シェア回復を目指し、サウジアラビアは生産調整役を放棄し、スポット価格に連動して販売価格を決定する「ネットバック契約」に切り替えた。
85年のOPEC総会で適正シェアの確保・防衛G決議されたが価格は暴落した。
これ以後、OPECの販売価格はスポット価格に連動することとなったため、原油価格決定の場はマーケットに移り、OPECは生産調整を通じて間接的に価格決定に影響を与える役割に後退した。
その後OPECは再び公示価格を設定したが、サウジアラビアは自国のシェア維持のため、米国向けはWTI、欧州向けは北海ブレント(英国)、アジア向けはドバイ・オマーンという4油種をマーカー(指標)原油として販売価格を決定する方式を採用し、この方式が現在まで続いている。
★石油発見から約150年の価格支配の歴史を見てみると、
①最初の約半世紀は石油生産を商業化したロックフェラー(スタンダード石油)の独占の時代
②次の半世紀(約60年)が欧米メジャーの時代
③次の10数年がOPECの時代
(OPECの実質支配が僅か10数年とは意外でした!)
④次の25年がマーケットの時代と概括できます。
しかし、同じマーケットでも、現在は需要と供給のバランスを取り合う古典的マーケットの時代から、
現実の需要とは関係ない投機マネーが、小規模のWTIという「札」の売り買いに一喜一憂する「博打場」と化している。
この「博打場」を越える次の価格支配者の姿はいまだ見えない。
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