2010-10-17

ゴールドの真相に迫る−8 ゴールドの歴史(4)〜イングランド銀行の誕生と金本位制の成立〜

前回記事では、大航海時代における金の獲得による動きをおさえた。結果、金(ゴールド)は消費意欲の高いヨーロッパへ流入したが、アジアの産物(香辛料、蚕、織物、茶、陶磁器)を求め贅沢品を獲得するために金(ゴールド)と交換し、最終的に金はアジアに溜め込まれていることが明らかになった。
 
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今回は、イギリスにおける経済の行き詰まりを背景に、1700年代〜1800年代の貨幣大改鋳・イングランド銀行の設立・金本位制の確立といったイギリスにおける近代の貨幣制度が確立される様子を見ていく。
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●イギリス国家の行き詰まり⇒貨幣大改鋳とイングランド銀行の成立(12章)【1700年代】
 
約700年から約1600年の間まで、イギリス貨幣は銀を基準とされていたが、国家が市場の波の中に取り込まれていくことによって徐々に国内・国外ともにイギリス国家を行き詰まらせる状況が生まれ、止む無く大改鋳に踏み切ることとなった。
 
国内の流れ

ハンマーで打たれた貨幣の縁は滑らかで、人びとは貨幣の鋳造が始まったときからこれを利用する巧妙な方法を思いついていた。貨幣の縁を少しずつ削り取って金属を貯めこみ、ある程度の量になると溶かして塊にし、それを鋳造所に売れば新品の貨幣が手に入る。この方法はとても儲かったので、現行犯が厳重に処罰されることになっても人々はやめなかった。
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ペニー銀貨  (画像はこちらからお借りしました。)

 
人の手を渡るごとに削り取られたため、すりへった貨幣は額面価値と実質価値の間に大きな乖離が生じることとなった。すりへった貨幣による納税を禁止されていたこと、また、鋳造所で新しい貨幣に交換すると受け取る額面金額が少なくなってしまうことから、人々はすりへった貨幣を使い続け、結果的に、鋳造所に銀が戻ってこなくなり、国家は銀不足に悩まされていた。
 
国外の流れ

1600年代の前半に、メキシコとペルーの大銀山から産出された銀がヨーロッパに大量にもたらされたため、銀の価格は下落し始めた。(中略)一方、1600年代前半のインドでは、銀に大変な高値がついていた。金1オンスを買うのに、イングランドでは15オンスの銀が必要だったのにたいし、インドでは9オンスか10オンスですんだのだ。(中略)商売の実益には抗しがたい。銀の輸出は大きく伸び、その大半を東インド会社が支配していた。

また、1600年後半には、東インド会社に限らず、大衆もインドに銀を売ることによって利益を獲得しようとした。
その背景には、1688年の名誉革命によって宗教問題の解決と絶対君主制の崩壊が起こり、市民階級の権利が保障されるようになったことがある。これは経済へも大きな影響を及ぼし、最終的には生まれて間もない株式市場に投機の波が押し寄せた。
 
この投機熱は貨幣にまで及び、質の悪い銀貨を質の高い安定したギニー金貨と交換する人が急増し、金貨の価値が1年間で5倍にまで急増することとなった。また、金を輸入して、ギニーに換え、さらに銀貨と交換する。その銀貨を溶かして銀塊にし、東洋へ輸出して金儲けするものも現れてきた。
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ギニー金貨  (画像はこちらからお借りしました。)
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国家の行き詰まり⇒大改鋳とイングランド銀行の成立へ
以上のような、国内と国外の流れによって、国家は①金貨価格の急激な上昇と、②深刻な銀不足に見舞われるようになった。イギリス国家は、この行き詰まりを貨幣大改鋳によって突破しようとした。
 
大改鋳は、すりへった銀貨は額面金額と同じ新銀貨と交換され、損失分は大蔵省(+納税者)が負担することとなった。また、削り取られた貨幣はいっさい支払いに使ってはならない、という布告をおこなった。
もう一つの政策として、金貨の価格を引き下げる必要があった。そこで、金貨の価格を従来よりも低い規定の交換比率以外で取引してはならないと宣言し、銀貨の価値を引き上げようとした。
 
また、ほぼ同時期の1689年フランスとの戦争により多額の負債を抱えることになり、国家は財政面で大きく行き詰まった。そして、イングランド銀行が設立され、「銀行が国家に金を貸す」現在の中央銀行制度につながる体制が生まれた。

1697年までに、ウィリアム三世は2000万ポンド以上の負債をかかえていた。課税と個人的な借入れや富籤でいくらか歳入を増やしたが、とても充分ではなかった。不足を埋める策としてイングランド銀行が設立され、銀行の株主となった「名士」たちと政府とのあいだで異例な取引が行われた。銀行は政府に120万ポンドを8パーセントという妥当な利子で貸し付け、そのかわりに民間の最初の有限責任会社、いわゆる株式会社として事業を行うことが認められた。

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イングランド銀行  (画像はこちらからお借りしました。)
 
しかし、この大改鋳も市場の波に取り込まれることによって、成功したとはいえなかった。金と銀の交換比率を決定し、金の価値を最高と決めたことによって、金の価値が絶対的なものとなり、大量の金貨が鋳造され、従来の貨幣として利用されていた銀貨の鋳造は激減することとなった。
 
 
●18世紀末英国の金兌換停止の危機と金本位性の確立(13章)【1797〜1821年】
 
フランス革命戦争の只中の1797年、英国北部の小さな漁村をフランス海軍が襲った事件を契機に、フランスの侵略におびえた市民が、紙幣と金を交換しようとイングランド銀行に押しかける、という事態が起こった。それまでに、確りした通貨制度を保っていたフランスに資本が流れ、金準備が減少していた英国政府・イングランド銀行は、制限法案によって紙幣と金の交換停止を余儀なくされた。イングランド銀行券が金の裏づけなしに発行されるようになった影響は、その後20年にわたって英国経済を混乱に陥らせた。

貨幣価値の下落はゆっくりと、少しずつ進んだが、インフレは結局、イギリスにも定着していったのである。一八〇二年の物価は一八〇〇年よりも低かった。ところが、一八〇二年から一八〇七年のあいだに三〇パーセント上昇し、次ぎの三年間でさらに十五パーセント高くなった。一八一五年にナポレオンがワーテルローで敗れたときには、一七九七年の水準と比べて二倍になっていた。

インフレは、貨幣と債券が大きく増加したことと関係していた。もはや金の貯蔵量による制限がなかったため、イングランド銀行の商人への貸付——いわゆる商業手形の割り引き——は、一七九七年から一八一〇年までのあいだに四倍以上も増えた。

一八〇八年の初め、金の価格は急速に上昇しはじめた。(中略)一方、英貨の価値は、他国の通貨と比べて下がっていた。—— 一八〇九年の終わりごろ、ハンブルグ、アムステルダム、パリで、ポンドは公式の額面よりも一六パーセントから二〇パーセント以上低い価格で取引されていた。その結果、イングランド銀行の金貨と金地金の保有量は、一八〇八年二月から一八〇九年八月のあいだに五〇パーセントも減少した。

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1809年、38歳の株式仲買人デイヴィッド・リカードの日刊紙への寄稿文を契機に、英国議会に金融の専門家ら22人からなる委員会が設立され、この問題が調査・研究された。そして、そのメンバーの中には、1815年、ナポレオンが敗れたワーテルローの戦いにおいて、英国株式市場での巧妙な情報操作によって巨額の利益を上げたと言われるロンドン・ロスチャイルド商会の総帥、N・M・ロスチャイルドも名を連ねていた。
画像はNMロスチャイルド(こちらからお借りしました。)

聴聞会は、一八一〇年二月二十二日から五月二十五日にかけて、つごう三一日間開かれた。その間に、企業、金融界、大学、政府などから選ばれた二九人の証人から証言が得られた。委員会の報告書には、一九ページに登場する人物を除いて、すべての証人の身元が明記されている。一九ページで「非常に高名な大陸の商人」とされているその人物は、二五ページのさらなる注釈によると、「わがくにと大陸の貿易に精通している」という。リカードの証言でも、この紳士は「某氏」とされているだけだ。一九一九年に、この問題全体について権威ある注釈書を書いたエドワード・キャナンは、次のように結論づけている。「この慎み深い某氏が、偉大なN・M・ロスチャイルドだったことがはっきりと推測される」と。

「非常に高名な大陸の商人」と言われた誰よりも偉大なある人物は、こう認めた。紙幣がギニー金貨と交換できたなら、外国為替市場でポンドの価値は決して下がらなかったはずだ。「私はあらゆるものを金地金を基準にして評価する」と、彼は明言したのである。つづいて、委員会に次ぎのように述べた。すべての問題が起こったのは、イングランド銀行が「金地金に、本来それに割り当てられていたと思われる機能を果たさせていない」からにすぎない。

 
その後、イングランドの金融経済には幾つもの危機が訪れ、聴聞会や公開討論が重ねられ、ついに1821年、銀行券と金との交換が再開された。それまではあいまいだった紙幣と金との交換が法律に明記され、イングランドの金本位制が確立。以降100年近くの間、世界の国々の通貨制度の模範となった。
 
イングランドの混乱から約30年後、1848年、米国カリフォルニアの小川で金塊が発見された。これを皮切りに、19世紀半ばから、アメリカ、オーストラリア、南アフリカで大量の金が発掘され、世界はゴールドラッシュの時代に入ってゆく。

List    投稿者 hasihir | 2010-10-17 | Posted in 06.現物市場の舞台裏, 08.金融資本家の戦略3 Comments » 

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コメント3件

 ななし | 2011.08.04 22:17

 サンフェリペ号事件が有名ですね。乗組員がイスパニアはまず宣教師を送り込み住民を手なずけて、次に軍隊を派遣して植民地にするという発言。
 1596年のことですが、これにより、秀吉はイスパニア・ポルトガルを警戒したというし、
家康も、英国人のウィリアム・アダムズ、オランダ人のヤン・ヨーステンを使ってましたから、イスパニア・ポルトガルを警戒してたんでしょうね。

 pipi38 | 2011.08.11 16:57

コメントありがとうございます。
>サンフェリペ号事件が有名ですね
秀吉が家臣(?)の増田長盛に、サンフェリペ号の
一般航海士に聞取り調査をさせた出来事ですよね?
続きのエントリーにて、ちょっと引用・言及していますので、
是非またご意見下さい。

 wholesale bags | 2014.02.11 1:03

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