2012-07-10

世界を操る支配者たち(6)〜バチカン

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(サン・ピエトロ大聖堂)
 
ローマ・カトリックの総本山バチカン市国の内部文書が頻繁に漏洩している問題で、ローマ教皇ベネディクト16世の執事、パオロ・ガブリエル(46歳)が逮捕・拘留され、欧州メディアを騒がせています。

 【パリ=野村悦芳】ローマ法王庁(バチカン)の金銭疑惑に関する秘密書類や法王ベネディクト十六世への手紙などが多数暴露され、バチカンが衝撃に見舞われている。二十八日までに、秘密書類を持ち出していた疑いで、法王の執事が逮捕されたほか、書類流出との関連が指摘される「宗教事業協会」(通称バチカン銀行)の総裁が突然解任されるなど、スキャンダルは拡大している。
 欧州メディアによると、今年に入り、バチカン銀行の資金洗浄(マネーロンダリング)疑惑などに関する内部文書がイタリアで報じられ、今月中旬には、法王への手紙など秘密文書を暴露したイタリア人ジャーナリストの著作「聖下(法王の尊称) ベネディクト十六世の秘密書類」が出版された。
東京新聞Web20012/05/29

いったい、バチカンで何が起きているのでしょうか
そもそもバチカンって・・・・
今回は、カトリック教の総本山として世界情勢に影響力を持っているバチカン=ローマ教会について、その力の源泉と盛衰を歴史を紐解きながらみていきます。
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○バチカンとは

概要
バチカン市国はローマの北西部に位置するバチカンの丘の上、テベレ川の右岸にある。その国境はすべてイタリアと接しており、かつて教皇を外部の攻撃から守るために築かれたバチカンの城壁に沿ってしかれている。面積は約0.44km2と、国際的な承認を受ける独立国としては世界最小で、東京ディズニーランド (約0.52km2) よりも小さい。その狭い領土の中にサン・ピエトロ大聖堂、バチカン宮殿、バチカン美術館、サン・ピエトロ広場などが肩を並べている。
 
バチカンはローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地、いわば「総本山」である。バチカンの統治者はローマ教皇である。
(中略)
 
国民と国籍
バチカンの人口は832人(2011年7月推定値)であり、彼らはバチカンの城壁内で生活している。バチカン市民のほとんどはカトリックの修道者であり、枢機卿・司祭などの聖職者と、叙階されていない修道士・修道女がいる。教皇庁で働く、修道者以外の一般職員は3000人にものぼるが、彼らのほとんどは市国外に居住し、そこから通勤している。またスイス人衛兵もバチカン市民である。衛兵の宿舎は市国内にあるが、市国外に住居を持って通勤している衛兵もいる。

ウィキペディア「バチカン」より
 
ちなみに、バチカンの居住権は聖職者をはじめ、基本的にバチカンで職務についている期間に限って与えられるので、たとえバチカン市国内で生まれてもバチカンの国籍が得られるわけではないそうです
 
さて、ローマ教皇といえば、カトリック教会のトップであり、教皇の発言はキリスト教信者が多い欧米諸国に対して強い影響力を持っていますが、ローマ教皇が力を発揮し始めたのはいつ頃からでしょうか。
 
○ローマ教皇の起こり

帝政末期のローマではキリスト教が公認され(313)、やがて国教化されることになる(392)が、そのころ正統アタナシウス派の教義にしたがうカトリック教会には、ローマ/コンスタンティノープル/アンティオキア/イェルサレム/アレクサンドリアの5つの有力教会(五本山)があった。このうち、ローマ教会は帝国の首都に位置することと、使徒ペテロ起源説を根拠に、早くから他の教会に対して首位性を主張した。ローマ司教はペテロの後継者を自認し、教皇(法王)Papaと尊称された。しかしコンスタンティノープルへの遷都がおこなわれ(330)、西ローマが滅亡すると(476)、コンスタンティノープル総主教はビザンツ皇帝の権威を後ろ盾にローマ教会の首位性を否定するようになった。
 
こうして両教会の首位性をめぐる対立が激化するなかで、教皇グレゴリウス1世(在590〜604)は北からのロンバルド族の圧力に対抗しつつ、ビザンツ皇帝の支配から離脱しようと試みた。

詳細世界史研究(山川出版社)より
 
ビザンツ皇帝の支配から離脱を試みたローマ教会ですが、武力を持たない教会にとって、ビザンツ皇帝に代わる保護者が必要でした。
 
○ピピンの寄進(教皇領のはじまり)

そこに登場したのがフランク王国の宮宰カール=マルテルである。マルテルはイスラム軍を撃退し、フランク王国の実質的な支配者になっていたが、メロヴィング家にとってかわるためには何らかの権威が必要であった。また、ロンバルド王国の南下に苦しむローマ教皇ステファヌス3世も、有力な保護者を待ち望んでいた。そこで、571年ピピン(小ピピン)がクーデタにより即位すると、教皇はこれを祝福した。小ピピンもこれに応えてイタリア遠征をおこない(754,756)、ロンバルド族を討って領土を奪い、ラヴェンナおよびペンタポリス地方を教皇に献じた。このいわゆる「ピピンの寄進」により、教皇領が成立することになった。

詳細世界史研究(山川出版社)より
 
このピピンの寄進によって、フランク王国の国王権力に対するローマ教会の宗教的権威の優位性が確認されたことになりますが、ローマ教皇によって『王位の正統性』を保障してもらうという慣例・儀式が、『カール大帝の戴冠(800年)』へとつながっていきます。
 
○カール大帝の戴冠
その後、カール(カール1世、大帝、位768〜814)が全フランク王国を統一することになり、8世紀の末までに西ヨーロッパの主要部分を統一することに成功し、フランク王国はビザンツ帝国と肩をならべる強国となりました。カールは、広大な領土の統治のためにローマ皇帝の権威が必要でした。
 
一方、時の教皇レオ3世(位795〜816)は、ローマの貧民階級の出身者でしたが聖職者の道を歩んで頭角を現してゆき、遂に795年にローマ教皇に就任した人です。しかし貧民階級出身者であるレオ3世に対して反発する者も少なくなく、799年には暗殺者に襲われて危うかったところをかろうじて脱出してアルプスを越え、フランク王国のカール1世のものへ逃げ込んだ、という経緯がありました。
 
そこで、カールが西ヨーロッパ統一に成功した800年、教皇レオ3世はフランク王国のカール大帝にローマ皇帝としての王冠を授けました。
 
一見、相思相愛での戴冠式のように見えますが、教皇側がむりやり戴冠させた、というのがどうやら実態のようです。
 
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バチカン美術館画像ギャラリーより。
(ラファエロ作「カール大帝の戴冠式」。西暦800年12月25日サン・ピエトロ大聖堂で行われたカール大帝の戴冠式を描いた作品)

カールは、800年11月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、長男カール、高位の聖職者、伯、兵士たちからなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。




ローマから約15kmのところでカールはローマ教皇よりじきじきの出迎えをうけた。そして、サンピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、教皇はカールを大聖堂のなかへ導いた。




800年12月25日の午前中のミサで、ペトロの墓にぬかずき、身を起こしたカールに、教皇レオ3世(在位:795年−816年)は「ローマ皇帝」として帝冠を授けた。このとき、周囲の者はみな、「けだかきカール、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳」と叫んだという。




ただし、この「戴冠」については教皇レオ3世とカールとの間には認識の差があり、アインハルトは「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サンピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカール自身の言葉を伝えている。




コンスタンティノポリスの東ローマ帝国は、皇帝の称号を名乗るためには東ローマ皇帝の承認が必要であることを強硬に主張していたし、それは西欧世界においても伝統的な認識であった(そもそも、ローマ教皇が皇帝を任命するという慣習はそれまでにはまったくなかった。また古代の東西ローマ分割時代は、東西の皇帝は即位時に互いの帝位を承認し合っていた)。




その意味で、カールの戴冠は東ローマ側から見ると皇帝称号の僭称にすぎないと見なされた。そこでカールは自らの皇帝称号を東ローマ側に承認させるための皇帝補任運動を繰り広げた。カールは、彼自身が東ローマの女帝エイレーネーと結婚することによって皇帝の称号を正式のものとするといった奇策も考えたが、これは実現することはなかった。




東ローマ帝国では当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、女帝エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立し、東ローマはカールの帝位を認めた。その代わりカールは南イタリアの一部と商業のさかんなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。ただ、この時にも東ローマ側としてはローマ皇帝(ローマ人の皇帝)はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみであるとしており、カールにはローマ皇帝ではなく、フランクの「皇帝」としての地位しか認めていない。

ウィキペディア「神聖ローマ帝国」より




ここからのちに神聖ローマ皇帝として知られることになる王位の系譜が始まり、以降、ナポレオンが自分自身で王冠をかぶるまで、ローマ教皇が王冠を授ける権威を持ち、世俗の王位はカトリック教会によって承認されるものであるという伝統がつくられていきました。




武力を持った保護者を必要とする教皇と、王位の正当性を必要とする皇帝は、持ちつ持たれつの関係ですが、どちらがより優位な立場に立つかで権力闘争をしばしば繰り返し、聖職叙任権(教会の司祭を任命する権利)をめぐる教皇と皇帝間の対立(叙任権闘争)が起こり、教皇権の確立を図る教皇側に反発したドイツ国王ハインリヒ4世が教皇から廃位と破門を宣言され、雪の城門で3日間裸足のまま祈りと断食を続け、やっと破門を解かれるといった事件(カノッサ事件1077年)も発生しました。




○十字軍と贖罪符




十字軍遠征は、叙任権闘争の渦中にある教皇にとって、皇帝権に対する教皇権の優位を確立するための絶好の機会でした。教皇ウルバヌス2世(位1088〜99)は、中部のクレルモンに公会議を召集(1095)し、次のように聖地回復を呼びかけました。



「東方で、わたしたちと同じように、キリストを信ずる人々が苦しんでいる。かれらはわたしたちに救いを求めている。なぜであるか。それは異教徒が聖地を占領し、キリスト教徒を迫害しているからである。・・・・神はその解放をみずからの業として遂行なさる。この神のみ業に加わる者は神に嘉せられ、罪を赦され、つぐないを免ぜられる。」

教皇は、遠征に加わるものには「贖宥」(罪のゆるしにともなうつぐないの免除)の特権を与えることを説いて、十字軍をつのりました。
このときに発行した贖宥状が、その後、教会の堕落を象徴となる「免罪符」の始まりです。

第1回十字軍への参加は、兵士やそれに守られた巡礼者も含めると、その数は10万に達し、ユダヤ教徒やイスラム教徒の大量虐殺をおこない、1099年にイェルサレム王国を建国しました。しかし、日ならずしてイスラム側の反撃が開始され、その後は敗北を重ねました。




当初は十字軍を唱導することで威信を高めたローマ教皇ですが、度重なる十字軍の失敗で指導力の限界を感じさせ、威信が揺らぎはじめます。




○貨幣経済の浸透と、教会の腐敗




その一方で力を付けてきたのが商人たちです。十字軍で遠方との交易路が開かれ、遠隔商業が盛んになり、ベネチア・ジェノバ・ピサなどの地中海地域と、ハンブルグ・ブレーメンやロンドンなどの北海・バルト海地域に都市が発達しました。
都市と商業の発達は、貨幣経済の浸透を促しましたが、それは教会においても同じでした。聖職者たちが私財を蓄えることに夢中になるなど、設立以来の伝統である禁欲・節制・従順を徳とする敬虔な信仰が弱まってきました。
教会の世俗化が進み、中世後期のヨーロッパではローマ教会の堕落に対する批判が相次ぎました。




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画像はこちらから
(メディチ家出身の教皇レオ10世は、サン・ピエトロ大聖堂建築の資金調達のため、ドイツで贖宥状を販売した。このことが宗教改革の引き金になった。)



キリスト教会の腐敗としては、司教や司祭などの聖職者の地位をお金で売り飛ばしてしまう売官やキリスト教で禁止されている高利貸し(金融業者)を営む者が見られるようになりました。また、キリスト教会の精神的堕落を象徴するものとして、妻帯を禁じられているローマ法王や司教が子供を作ったり愛人を囲ったりする様子が見られるようになり、マルティン・ルターの宗教改革の大きな原因となった贖宥状(免罪符)の販売が14世紀頃から行われるようになりました。




一般的に免罪符として知られる贖宥状(indulgence)とは、貨幣(お金)を支払って教会が発行する贖宥状を買えば、現世の悪徳や罪業が全て許されて天国に行けるというもので、イエス・キリストが布教したキリスト教本来の教義に違背するものでした。マルコ福音書やルカ福音書に「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」という有名な文句があるように、キリスト教は元々お金を遠ざける禁欲的な道徳を説き、金銭欲に突き動かされる貪欲を悪しき行為として断罪していました。しかし、貨幣経済がヨーロッパ諸国に浸透して、貨幣の所有が現実的な権力(権威)につながるようになり、貨幣がなくては何も欲しいものを手に入れられない時代になってきました。

マルティン・ルターとジャン・カルヴァンの宗教改革(プロテスタンティズム)より




その流れがルターの宗教改革運動につながり、教皇を頂点とする全ヨーロッパ的なキリスト教世界の秩序、教会が支えていた古い社会秩序を根底から揺るがせました。




中世は、国王が武力によって国家を統一し、国王の権威を正当化するために教会が利用されました。そして、時には十字軍のように、他国を侵略することを「異教徒から奪うのは正しい」と、私権拡大の正当化にも利用されました。




しかし、近世になり資本力が権威を持つようになると、禁欲や清貧を是とする教会の制約が、商人たちにとっては邪魔になってきました。




そこで発生したのが「ルネッサンス運動」です。金融業で財をなしたメディチ家は、パトロンとなって才能がある芸術家たちの活動の場を提供し、それまでの宗教画に替わり、人間を題材とした作品を描かせるなど、人間中心主義を説き、神の権威を引きずりおろそうと画策したのです。




さらに、近代になると、「個性」や「個人」に絶対的な価値を置く近代思想が蔓延し、いよいよ宗教は神通力を失ってしまいました。
そして、宗教の利用価値が無くなるや、金貸したちはバチカンを見捨てます。





○教皇領の消滅

近代国家誕生の激動の中、教皇領はイタリア統一運動(リソルジメント)により縮小させられ、1870年に起こった普仏戦争にフランスが敗北したことにより、ローマ教皇領を守護していたフランス軍が撤退すると、1861年に成立していたイタリア王国によってローマが占領され、教皇領は完全に消滅した。




以降、教皇は数代にわたって自らを「バチカンの囚人」と呼び、イタリア政府との交渉を拒否した。しかし、ピウス11世の時代にイタリア政府とバチカンの間での和解が模索され、ラテラノ条約によってその実を結んだ。

ウィキペディア「教皇領」より




ところで、イタリア王国によるローマの占領から50年間に及ぶ確執を解消させた和解とは、どんな内容だったのでしょうか  とても気になります・・・




○宗教から金貸しへ

■バチカンのユダヤ化
日本人が知らない 恐るべき真実
リンクより以下引用  
☆1830年、それまでカトリックでは「金貸しは破門」とされていたのですが、ラテラノ公会議の規定が改められ、「高利貸しでない限り許される」ことになりました。
☆この頃からローマ・カトリック教会は、ロスチャイルド家と金融取引を始めています。




★【1870年、イタリアの統一】によって教皇領を奪われたローマ・カトリック教会は、それまで領地からの得ていた収入を絶たれ、深刻な財政難に陥りました。それを救ったのが1929年にムッソリーニ政権とピウス(ピオ)11世との間で結ばれたラ【テラノ条約】です。




★この【ラテラノ条約の取り決め】により、バチカンは「原資」を持つようになりました。
第1条:イタリアは条約調印とともに法王庁に対して7億5000万リラを支払うと共に額面10億リラの整理国債を法王庁に対して交付するものとする。
バチカンが獲得した金銭は当時のレートで8500万ドル、現時価に換算しておよそ【10億ドル、1200億円】にあたります。

この大金を管理するため、ピウス11世(在位1922〜39)は1929年6月7日に財産管理局を設け、聖職者ではない「カトリックに改宗したユダヤ人」ベルナルディーノ・ノガーラを局長に任命し、その運用を任せるようにしました。




ノガーラの投資家としたの手腕は目を見張るものがあった。大株主となった企業には教皇の親族を経営陣に送り込み、損害を被りそうになるとムッソリーニに高値で買い取らせ、イタリアの敗北を予想するや資産を金塊に替えて巨額の利益を得た。ゼネラル・モータース、シェル、ガルフ石油、IBMなどの大株主となった。また不動産投資にも積極的で、シャンゼリゼの1ブロックを所有し、世界一の高さを誇ったモントリオールの証券取引所タワーやワシントンの名門ウォーターゲートホテルもバチカンがオーナーであった。

ノガーラの死後、教皇庁の財務顧問になったのがシンドナでした。

しかしシンドナにはもう一つの顔があった。このシチリア出身の銀行家はニューヨークのマフィア、ガンビーノ家のために麻薬資金の洗浄を行っていたのだ。このマネーロンダリングはジェッリがコカインの生産地である中南米にネットワークを広げるにつれてより大規模なものになっていく。




ジェッリは軍事政権や反共組織のために武器調達を請け負う”死の商人”であった。バチカンがこのような犯罪行為に手を貸すことになった背景には、冷戦時代の世界情勢がある。当時、カトリック教会の最大の敵はマルクス・レーニン主義であり、バチカンのお膝元であるイタリアですら共産化の脅威に晒されていた。そのためバチカンはマネーロンダリングで得たり利益で反共組織や反共団体を秘密裏に支援していたのである。軍事政権による人権抑圧に苦しむ中南米を中心に、先進的なカトリック神父が「解放の神学」を唱え、反政府運動を展開した。だがバチカンはこうした運動をレーニン革命主義として否定するばかりか、軍事政権に武器の購入資金を与えていた。バチカンは、CIAやマフィアと「反共」の理念で完全に一致していたのである。

ミノリス Minoris の URGENT MESSAGE (緊急情報)より




バチカンは、“ローマ教会”という宗教ではなく、もはや“バチカン銀行”という金貸しになってしまっています。
近代になると、社会統合の制覇力が資金力に移行したため、宗教としての力の基盤を失い、なりふり構わず資金力を武器に金貸しとして生き残りを図っているのです。





現在、どのくらいの力をバチカンが持っているのかは不明ですが、宗教組織のベールに纏われた秘匿性は(スイス銀行がそうであるように)銀行にとっては大きな武器であり、麻薬資金などのブラックマネーを世界中から集めることができるのも、そのためです。




天皇家の資金をバチカンが運用しているという噂もあり、宗教の力が衰えたとはいえ、バチカンの金貸しとしての力は侮りがたいものがありそうです。






○次回は、いままで扱ってきた「ロスチャイルド」「ロックフェラー」「イギリス大室」「ハプスブルク家」「タクシス家」、そして今回の「バチカン」について、領土や資産を拡大していったそれぞれの力の源泉を整理します。その上で、彼らが今後どうなるのか、これからもその力を発揮し得るのかどうか、考えてみたいと思います。
それでは、次回をお楽しみに

List    投稿者 watami | 2012-07-10 | Posted in 08.金融資本家の戦略No Comments » 

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