2012-10-17

支配のからくり〜財団って何?〜5.キリスト教の影響

財団って何?シリーズ第5弾です。
今回もよろしくお願いします。
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これまで、
1.支配のカラクリ〜財団って何?〜1.アメリカの財団はとっても大きい!!\(@o@)/!! 
2.支配のカラクリ〜財団って何?〜2.財団の始まりって? 
3.支配のカラクリ〜財団って何?〜3.ロックフェラーが財団を設立したのはなんで?
4.支配のからくり〜財団って何?〜4.中間まとめ
を扱ってきました。
 支配のカラクリ〜財団って何?〜2.財団の始まりって?lで扱った様に、財団の思想的背景にはキリスト教の宗教観が色濃く反映されています。そこで、今回はキリスト教の宗教観に着目しながら財団の支配システムの背後にある「支配への渇望」の意識を探ってみたいと思います。

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■牧畜・遊牧と管理(支配)社会
 
キリスト教の追求の前に、ヨーロッパの生産様式である牧畜・遊牧にも触れておきます。
ユダヤ教キリスト教の発達過程には牧畜→遊牧の家畜に対する取り扱いが深く関わっているようです。
 
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牧畜に西洋管理社会の源流をみる1:家畜の起源より
 

西洋社会の特徴として支配−被支配の社会関係(≒奴隷社会)が挙げられるが、その原型を牧畜段階における牧夫=羊飼いと羊との関係にみる視点は、かなり的を射ていると思われる。
 
例えば、ユダヤ、キリスト教的伝統において<迷える子羊><善き羊飼い>といったメタファーで人事を描き、救済保証の代理人である司祭を<牧夫>と呼ぶのは、旧約聖書を書いた人物がヘブライの民を羊飼いの後裔と位置付けているからであろう。
 
遊牧社会の登場が社会の複層化と集団自我→戦争の起源→西洋の略奪性の激しさに大きな影響を与えたであろうことは間違いないが、それに先行する牧畜社会が生み出した「管理社会」的性質や自然観・生命観の変質(畏怖すべき対象としての自然から支配対象としての自然へ)が、さらにその基層をなしているのではないか。

 
 
キリスト教徒たちによる植民地支配の時代、彼らの被植民地に対する扱いは、正しく家畜の扱いと同等でした。植民地化した途端、異教徒である現地人に対する「人間の尊厳」などないに等しいものでした。大航海時代〜アメリカ独立までの大虐殺がそれを教えてくれています。
 
■キリスト教にみる支配思想
 
1.慈善行為の主体はあくまで自己
 

キリスト教では、人は元来罪深き者なので、信者はその贖罪として慈善活動をさかんに行なうのが一般的です。
特にお金持ちの人は、罪の償いを軽減するために、寄付することで、神から恩寵を与えられ、一般人よりも上の地位であることを認められてきました。

http://www.kanekashi.com/blog/2012/09/001918.htm
 
とあるように、富めるものは、神に対する贖罪として慈善行為を行う という考え方で、ひらたく言えば自分が地獄に堕ちないための行為でした。また、慈善行為とは真逆の多くの財貨を集める商活動に対する後ろめたさもあった様です。
 
そして、この慈善事業などに対するキリスト教的背景のポイントは、心情的には困っている人たちへの救済であるのですが、観念的には神への贖罪である点です。キリスト教社会は個々人が同じ神と契約することでお互いの人間関係が形成されているので、社会の秩序や道徳的行為は神との関係性(契約)で概念的に整理されているようなのです。
 
大事なポイントなので、繰り返しになりますが、目の前に困っている人がいた場合、同情なども含めてその対象を救おうとする心情が人間として普通に生起しますが、その行為の正当性やすばらしさを説明するときには、欧米人は神との契約に基づく自己の贖罪意識へと意識が転換しているのです。つまり彼らの秩序意識や道徳観念は困っている対象に真っ直ぐ向いているのではなく、頭の中では神を媒介にしてその対象に対応していますので、頭の中(観念上)では、神と自分しかいないのです。
 
つまり、彼らの慈善行為は対象を救うという結果よりも、その行為を行う自己とそれを見ているであろう神にこそ意味があるのだと思います。
慈善行為と聞いて、日本人はその慈善行為を受ける対象について意識を向けますが、欧米人の慈善行為の主体はあくまで自己であり、意識の対象は「自分」に向いています。 
 
ですので、慈善行為(=みんなのため・社会のため)としての公益団体「財団」のシステムに、税金逃れの仕組みや支配の仕組み(=自己中)を組み込むことに何ら違和感を持たないのだと思います。
 
つまり、キリスト教の宗教観から見えてくるのは、自分(神)>対象というヒエラルキーです。
 
 
2,選民思想と支配
 
ロックフェラー一族をはじめ欧米人の支配意識とはどこに源流があるのでしょうか?
 
・原罪意識から支配の正当化へ
 
キリスト教には人間は生まれながらにして罪人 であるという考え方があります。この原罪という考え方をキリスト教会は布教に利用します。
 
人間は生まれながらにして罪を背負っていると烙印を押され、その上でイエス(代理人としての教会)が救済するという立場を構築し、救済という使命を持って布教活動を行ったのでした。
そして、その延長線上で教会は人々の上に立って、人々の罪の意識を煽ることで、何でも正当化できるようになります。
十字軍や贖罪符(免罪符)も、贖罪行為として正当化され、教会に反するものは異端として攻撃できるようになったのです。
(参考:http://www.kanekashi.com/blog/2010/02/001181.htmlより)
 
どう思われますか? 🙄
 
人間には誰しも多少後ろ暗いところはあります。ちょっとしたウソとか、隠し事など誰でも心当たりはあるものですが、キリスト教はそうした人間の行いに対して「生まれながらの罪」として糾弾してくるのです。そして、自分自身を否定させて、救いを求めるように強要するのです。これって、ものすごい騙し 👿 だと思いませんか?
 
こうした騙しの構造に染まってしまっている欧米人たちは、救済してくれる神という存在に強く同化しようとしたのではないか と私は想像しています。
 
後に先述の免罪符問題を契機に教会の権威が失墜 し、宗教改革が起きますが、宗教改革で行われたのは、「聖書に戻ろう」ということでした。
腐敗した教会には頼ることなく、聖書を通して神を信仰するというのがプロテスタントたちの考えだったのです。
そして、神への強い同化意識と原罪という宗教観からくる支配(≒彼らにとっては救済)の正当化意識は、まさしく「神の代理人」といったところでしょうか。
 
・選民思想
 
キリスト教の土台となったユダヤ教は、虐げられていたユダヤ民族によって生まれました。(当時の負け組ですね)そして、キリスト教も「奴隷の宗教」と言われ、ローマ時代に奴隷たちの間で浸透した宗教です。
どうしようもない逆境の現実の中で、せめて頭の中だけでも充足したいという思いが宗教観に現れています。それは逆境のアンチとして、自らは神に選ばれた民族であると言うモノです。
キリスト教では、「信ずる者は救われる」と言い、信じることで神に選ばれるということです。そして、どうしようもない逆境の中で救いの神を信じると同時に、現実を頭の中で徹底的に否定する宗教観です。
現実を否定すると言うことは、すなわち現実の逆境や異教徒は存在すらしてはならないということであり、逆境の原因に対する激しい敵意や、異教徒に対する敵意などにつながります。
 
前項でも「神の代理人」と書きましたが、自分たちが選ばれた存在であると言うことと、それ以外の人々に対する苛烈な否定視は、十字軍や奴隷貿易など彼らが作った世界戦争の歴史からも理解できるのではないでしょうか。
 
3.ロックフェラー財団への影響
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ロックフェラー財団創設者であるジョン・D・ロックフェラーは敬虔なクリスチャンとして、教会への寄付なども若い頃から行っていたようです。そうした彼にとって、事業での成功 神に選ばれた証だったのではないでしょうか。
その為、彼はクリスチャンとして大衆の救済という意識で財団を設立したのかもしれません。しかし、彼の意識の上では神と彼しか存在しないため、大衆が求めている対象は彼の目に映る事はなく、宗教観に強く刻印されている選民思想と支配の正当化の意識によって財団システムを作り上げたのではないでしょうか。
 
つまり、彼の資産(神の贈り物)を保全することは至上命題であり、それを疎外する税制は敵であったのではないかと思います。そして、大衆を救済することは彼の使命だったのかもしれません。
 
そして、彼にとって救済システムであった財団は、大衆にとっては支配システムだったということなのではないでしょうか。
最後に、
これまでの記事を振り返って、日本に比べて貧富の格差が大きく、富への執着が強い(私権意識が強い)と思っていた欧米人が何故、資産の所有を放棄して、資産≒資本を道具のように運用するシステムに転換したのかが密かな疑問 🙄 でしたが、キリスト教の宗教観を見ていく中で、その理由:「支配による社会統合」というものが見えてきたように思います。
また、キリスト教の「原罪」という宗教観は、人間の根元的な部分で自己否定させ、その否定視を「救済」という騙しの言葉で統合しようとしたものだと思います。
自分自身の存在から否定されている人間は、自分自身が対象とする世界観そのものも否定の対象で見てしまうのではないでしょうか?
その必然として、対象の欠点、都合の悪いことなど否定的側面ばかりが強調され、その積み重ねがお互いの否定視→敵意へと繋がったのだと思います。
キリスト教は奴隷の宗教と言うより、「否定視の宗教」なのではないかと思います。
 
その敵意=お互いの否定視をそのままにして、社会を統合(≒人間同士の関係性を構築)しようとすれば、その統合の方法は支配・被支配の関係でしか成り立たなかったのも必然のように思います。
 
現在、キリスト教の宗教観は近代思想として発展?し、欧米を中心に世界に広がりました。
そして、2度の世界大戦をひき起こし、資本主義と市場主義による支配(&掠奪)が進みましたが、その結果、支配側の国々(先進国側)において、一定多数の貧困からの脱出を果たした人口を創出しました。
こうした、貧困の脱出組(特に日本)は、生きるために他者を否定する必要など実感できなくなってきています。対象の否定視から意識の奥底で脱出しつつあるのではないでしょうか?
そうした人たちが先進国側で増えていくことで、支配・被支配という社会統合に対する強烈な違和感が世界共認となりはじめていると思います。(既に建前上では否定していますし。。。。)
そこに、大きな光明が見えてきていると思うのです。

List    投稿者 bonbon | 2012-10-17 | Posted in 08.金融資本家の戦略No Comments » 

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