『なぜ今、中東民主化が起きているのか?』【2】ニュースの整理:チュニジア編
前回は、プロローグとして、今回のシリーズの問題意識と今後の記事予定を紹介しました。【リンク】
今回は、最初に民主化運動の引き金となったチュニジアから整理してみたいと思います。
【事件の整理】
2010年12月17日、シディブジド(人口約4万人)という小さな町で失業中だった26歳の男性モハメド・ブアジジが果物や野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないとして警察官が商品と秤を没収、さらには婦人警官の1人から暴行を受け、没収品の返還と引き換えに賄賂を要求。これに抗議するために同日午前、県庁舎前でガソリン(もしくはシンナー)をかぶり、火をつけ、焼身自殺を図る。当時のチュニジアは失業率が高く、街頭で果物や野菜を売り生計を立てる失業者も多かった。また、イスラム教を含むアブラハムの宗教は自殺することを禁じているため、イスラム世界においては米国などに対する自爆テロなどを除いて、自殺することは非常にまれで、自殺率は国際的にみて非常に低い傾向がみられ、その背景もあり、この事件がブアジジと同じく、大学卒業後も就職できない若者中心に、職の権利、発言の自由化、大統領周辺の腐敗の罰則などを求め、ストライキやデモを起こすきっかけになりました。
その前に、応援よろしくお願いします。
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【暴動の拡大】
発端となったブアジジは自殺を図った後、2011年1月4日に死亡。翌年1月5日に葬儀が行われたが警察は行列を阻止。役所前で行われた抗議行動をブアジジの従兄弟が動画に収めてネットに投稿したことで、騒動が拡大。1月7日には中部の都市タラで暴徒が警察署といった政府関連庁舎や銀行に火を放ち、1月8日夜から9日にかけてタラ、カスリーヌといった都市で高い失業率に抗議するデモが発生。治安部隊が発砲したことにより14人〜25人が死亡。1月10日にはカスリーヌで放火や警察署への襲撃が起こり、これに対処した警官隊が発砲したため市民4人が死亡。11日夜には、ついに首都チュニスに暴動が拡大。労働者街にて参加者が車、銀行、警察署といった政府関係庁舎への放火、また商店街において略奪行為を行う。警官隊はこれを解散させるため威嚇射撃を行い4人が死亡、また火炎瓶や催涙弾の使用を行った。
このように、わずか一ヶ月の間にデモが全国各地・全年齢層に拡大、デモ隊と政府当局による衝突で死亡者が出るなどの事態となりました。高い失業率に抗議するデモは、腐敗や人権侵害が指摘されるベン=アリー政権の23年間の長期体制そのものに対するデモとなり、急速に発展しました。
2010年末に始まった退陣要求デモが全土に拡大する中、2011年1月14日に国外に脱出したベン=アリー大統領の後任としてまずモハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言。翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命。この一連の事件はジャスミン革命と呼ばれています。
ここでチュニジアの概要をおさえておきましょう。
【チュニジアの概要】【国土:162.155平方km
気候:北部と沿岸の温暖気候、比較的乾燥した内陸部と南部
気温:12月 11.4℃ 7月 29.3℃
天然資源:原油、リン酸塩、鉄鉱石、鉛、亜鉛、塩
人口:950万人(2000年)
人口増加率:1.1%(2000年)
平均寿命:72.2歳
言語:アラビア語(公用語)、フランス語が広く普及、英語とイタリア語
宗教:イスラム教スンナ派(キリスト教徒とユダヤコミュニティも存在する)
識字率:74.4%
通貨:チュニジア ディナール(TD1.4=US$1;5月2002年)
国内総生産:TD269億
国民一人当たりのGNP:2701.8(2000年)
■政体
共和制
■元首(暫定大統領)
フアード・ムバッザア(2011年1月に暫定大統領に就任)
■議会
2002年の憲法修正法により二院制に移行(それ以前は代議院のみ)
代議院(日本の衆議院に相当) 議席数:214(地方区:161、全国区:53) 任期:5年
評議院(日本の参議院に相当) 議席数:126(大統領任命:41、地方自治体代表:43、労組代表:42)任期:6年(3年毎に半数改選)
■経済
チュニジア経済には小麦とオリーブを中核とする歴史のある農業、原油とリン鉱石に基づく鉱業、農産物と鉱物の加工によって成り立つ工業という三つの柱がある。急速な成長を見せているのは欧州諸国の被服製造の下請け産業。
貿易依存度は輸出34.4%、輸入45.2%と高く、狭い国内市場ではなく、フランス、イタリアを中心としたEU諸国との貿易の占める比率が高い。2003年時点の輸出額80億ドル、輸入額109億ドルの差額を埋めるのが、24億ドルという観光収入である。フランスやリビアに出稼ぎしているチュニジア人労働者からの送金も大きな外貨収入源。
■最近の経済概況
○2008年秋からの世界金融危機に対応するため、2010年5月、チュニジア政府は第11次経済社会開発5ヶ年計画(2007-2011年)を途中で総括した上で、大統領選挙に当選したベン・アリ大統領(当時)の選挙公約を具体化する目的第12次経済社会開発5ヶ年計画(2010-2014年)に置換。
○1987年からのベン・アリ政権下で、チュニジアは着実な経済発展を遂げ、ここ数年は、年率5%程度の安定した経済成長を継続した。一方で、30歳以下が人口の過半を占める人口構成等に起因して、雇用対策、特に若年高学歴層の雇用対策が大きな課題となっていた。ベン・アリ政権は、外国企業の誘致や観光による地域開発を進めていたが、2010年の失業率は13.3%と依然として高く、特に最終学歴が大卒以上の失業率は、20%を超えている。
○2009年のチュニジア経済は、金融危機に伴うヨーロッパ実体経済悪化により、
(1)経済成長の鈍化(2008年:4.5%→2009年:3.1%)
(2)失業率の悪化(2008年:12.4%→2009年:13.3%)
(3)輸出額の減少(2008年比18%減)
(4)観光客数の減少(2008年比2%減)等、の影響を受けた。
○1995年7月、EUとの間に自由貿易圏を設立する趣旨のパートナーシップ協定を締結し、2008年1月1日、工業製品に関する関税撤廃が導入された。また地中海地域アラブ諸国(モロッコ、エジプト、ヨルダン)との間でもFTA(The Arab Mediterranean Free Trade Agreement (通称:アガディール協定))を締結する等、経済の自由化を推進している。
■外交・国防
非同盟中立。米、仏等欧米諸国と緊密な関係。穏健かつ現実的な外交政策。中東和平プロセスを支持するとともに、アフリカ問題への関与にも積極的。かつては中東和平多国間協議をホストするなど、中東和平問題への関与も積極的。近年目立ったイニシアティブは取っていない。また、サルコジ仏大統領の提唱で2008年7月に発足した「地中海のための連合(UPM)構想」を支持。
■特筆する内容
○チュニジアは、将来を担う人材の育成に力を入れ、すべての国民は無償で公的教育を受けることができる。義務教育対象年齢は6歳から16歳。義務教育は小学校から中学校までだが、その先の大学まで無償で教育を受けることができる。教育費予算は、チュニジアのGDPの30%を占める。(4人に1人のチュニジア人は学校に通っている。2000−2001年の学期では約240万人の学生が公共教育機関に属す。)
○女性の権利保障と社会進出を重視した法整備も進められてきた。特に、一夫多妻の禁止と世俗的法に基づいた離婚の権利(1956年)、女性の参政権(1959年)が保障。
○中産階級の割合が1975年の44%から2000年には80%にまで成長。これらの人々は、所得が増えた結果、生活も豊かになる。チュニジアは、アフリカで最も貧富の差が少ない国のひとつで、チュニジア家庭の80%が自分の家を所有。原始的な住居の比率は1999年には1.2%にまで減少(1966年時点では44%)。
○チュニジア全体で約9割の家庭で電気、飲料可能な水道が設置。農村において1984年20%だった水道普及率が現在では約80%。
【チュニジアの歴史】
続いて、チュニジアの歴史を紐解いて見ましょう。
紀元前9世紀より都市国家カルタゴとして栄えた。ベルベルとフェニキアの文化が融合する。
紀元前146年 ローマ帝国がカルタゴを征服。
439年ゲルマン系ヴァンダル族がカルタゴを占領し、ヴァンダル帝国を建設。
533年東ローマ帝国のビザンチンがヴァンダル帝国を滅ぼし、ビザンチン文化が開花。
7世紀アラブ侵入、イスラム化の始まり。
1574年オスマン帝国の属州となる。
1881年フランスの保護領となる。
1907年にはチュニジア独立を目的とする結社、「青年チュニジア党」(民族主義)が創設
1956年フランス政府は、ベイのムハンマド8世アル・アミーンを国王にする条件で独立を受け入れた。初代首相にはブルギーバが選ばれ、「チュニジア王国」が成立し、独立を達成。
1957年には王制を廃止。大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立。
1959年首相から横滑りで大統領となったブルギーバは憲法を制定し、社会主義政策を採る。
1970年代には自由主義に路線を変更。
1987年長期政権の中、ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり、無血クーデターが起こり、ベン=アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉。
その後、ベン・アリ政権は、5選を果たす。
1991年の湾岸危機ではイラクのサッダーム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。
【何故、長期政権になったのか】
イスラム圏諸国は、大体独裁長期政権となっています。ベン・アリ政権が、何故こんなにも長期政権を持続できたのか大統領制と国民議会に踏み込んで見たいと思います。【リンク】
59年6月1日公布されたチュニジア共和国憲法規定による世俗主義的共和制。1956年の独立以降チュニジアの制度的政治システムは、アメリカ型大統領制に限りなく近い政治システムだったが、1970年首相制の導入によって、フランス式の執行権の双頭制に制度上近似したものになる。ベン・アリ政権下にあっては、その役割は飾りで、憲法上、首相の任命権は大統領にあり、大統領は強大な権力を有していた。
一方議会の方では、1988年11月7日、「国民協定」によって、ブルギバ時代からの認可を受けていた3党野党勢力に加えて、新たに3党が認可。2005年緑の党が創設されるなど、中東・北アフリカ諸国の中でも世界的な潮流にいち早く乗じる。議員を送り込むことができていないものの、他に2党と1会派が存在していた。
ベン・アリ大統領に率いられた立憲民主連合(RCD)は、解党処分となり、あらためて、1988年に創設された立憲民主連合は、ベン・アリ革命から1988年2月、社会主義デストゥール党(PSD:1964年〜1987年)を母体として誕生した全党員数175万人(人口980万、一家族平均5〜6人で換算すると1家庭に2人の割合でRCDの党員がいることになる)国民議会161議席を誇るチュニジア最大政党となり、1988年6月、初の党大会が開かれて、ベン・アリは新党RCD党議長として選出され、へディ・バクーシュを副議長(のち首相)として任命。
ベン・アリ独裁体制を支えたRCDの役割は大きく、党中央にベン・アリ大統領(議長)を中心に、副議長、事務総長など幹部11名による政治局があり、その下に200名からなる中央委員会、全国に約360ある支部、さらにその下に6,710の細胞(最小組織)を組織し、54,840人の組織委員が活動を展開。RCDは全国・地方に限らずほぼ全ての組合、商工会議所、女性の相互扶助団体、NGO、青少年のクラブ活動に入り込んでいた。
ベン・アリ大統領(議長)は、1989年以降五選を果たす。大統領を中心とした立憲民主連合は、強力な体制を構築し、一党独裁に近い議会運営を行った。独立以来のブルギバ大統領に引き続き1987年以降、ベン・アリ大統領は、近代化・西欧化を推進。
ここで、注目すべき事象があります。ベン・アリ政権下では、イスラム系組織は非合法であり、議会に進出できませんでした。過去ベン・アリ政権に反旗を翻した勢力もあったのです。
1970年代末から、イスラム志向運動(MT)のリーダーラシェッド・ガンヌーシ(モハメド・ガンヌーシとは異なる)は、左翼組織として本格的な反政府運動を開始。(ラシェッド・ガンヌーシは、1960年代にアラブ民族主義の頓挫に失望し、イスラムによって民族主義を発揚させようとするイスラム・ナショナリスト)
MTIの主張は、親西洋的政治によって、イスラム世界の分裂を招いているということ、そして政府は経済自由化することによって国を外国に売っているというものであった。イスラム勢力による反体制運動の波は80年代半ばに本格化し、1987年4月23日、首都チュニスで大規模な政府に対する抗議運動が起きると、イスラム運動を扇動した主要リーダーが逮捕され、そのうち約10名が死刑。ラシェッド・ガンヌーシは、その後の影響が甚大とされ死刑を免れたが、多くの指導者が欠席裁判で死刑の判決を受けた。
1987年革命後、政治的自由化の一貫として、国民協定が締結されると、MITは認可を受けるために、団体名をエンナーダに変更。だが隣国のアルジェリアで行われた地方選挙で、イスラム指向の急進勢力であるイスラム救済戦線(FIS)が台頭し、1991年12月の総選挙で大勝利を収めたことにより、以後ベン・アリ政権は自国におけるイスラム主義運動の台頭を警戒して本格的に弾圧を開始。国内では、エンナーダの運動員が暴動を起こし、エンナーダ系学生組織であるチュニジア学生総連(UGTE:1985年創設)も大学で激しい反体制抗議運動を展開。ベン・アリは、主要なイスラム主義者達を逮捕して国外追放に処し、加えてUGTEの活動を禁止。
現在、ラシェッド・ガンヌーシ氏は、2011年1月、20年の亡命生活に終止符を打ちロンドンから帰国、数千人の支持者の歓迎を受けた。イスラム主義の象徴的存在だった同氏の帰国で、イスラム原理派の台頭を懸念する声も上がっている一方、同氏は帰国後、次期大統領選挙には出馬しないと明言、同時に行われる予定の総選挙にエンナーダ党が参加するかどうかには触れていない。
【まとめ】
チュニジアは、フランスからの独立以降、王政、社会主義、自由主義と路線変更を行いながら、1970年以降は複数政党制の選挙は行われているものの、独裁政権下で、西欧型の政治、経済システムを導入し、歴史的に関係の深い欧州諸国との貿易を強化、一定の豊かさを追求できた国であるといえます。
同国の表面的な「安定」は、政治的自由を制限し、反体制派を抑圧する強大な警察力によって維持されてきました。
「民主的でなく透明性が低い」という批判もあるなかで、経済は年率5〜7%で成長していましたが、近年は、年間8万人以上の大卒者のうち2万〜3万人は就職できない状態になっており、加えて、世界経済の悪化から更に、若年失業率も高い状態が続き、他方、富が大統領一族に集中。「貧富の差への国民の怒りは鬱積」もきっかけとなり、今回の事件に発展していったといえます。今後の体制が、西洋諸国側につくのか、それともエンナーダを中心としたイスラムの民族派側につくかは、今後、更に注視していく必要がありそうです。
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