2010-10-03

ゴールドの真相に迫る−6 ゴールドの歴史(2)〜貨幣制度の普及による中世市場の拡大〜

gold_and_human.jpg前回記事では、約6000年前、古代エジプト王族の装飾品としての人類と金(ゴールド)との永い歴史の始まりから、紀元前6世紀(約2600年前)、砂金が豊富に採れた黒海沿岸のリュディア王国において、世界最古の金貨がつくりだされたエピソードまでを、ピーター・バーンスタイン著『ゴールド—金と人間の文明史』1〜3章より紹介した。
今回は、リュディアで生まれた貨幣がビザンティン、ローマ、アラブへと広がっていき、金(ゴールド)がこの頃の人々を強く魅了すると同時に、貨幣経済が中世の巨大帝国群に根付いていく様子を、同書4〜8章から紹介する。
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7世紀末頃の地中海沿岸

●ビザンティン帝国の繁栄を支えた“中世のドル”ベザント金貨(4章)【BC2〜AD8世紀】
3〜5世紀の古代ローマ帝国分裂・衰退の後、暗黒時代のヨーロッパでは人々は金を使うことなくひたすら貯蔵に努め、貨幣としての用途は姿を消した。一方、ローマで発行されたベザント金貨をはじめとする金の力は、ビザンティン(東ローマ)帝国に受け継がれ、独自の文化を開花させた。15世紀まで続いた帝国の繁栄を支えたベザント金貨は、あらゆる貿易や支払いに使用される信用の高さから後に“中世のドル”と呼ばれた。

ビザンティン帝国の皇帝たちは人道的にも政治的にも悪名を轟かせたが、彼らはコンスタンティヌス一世のつくったベザント金貨の完璧さ、純度、名声、流通性に心を奪われた。ビザンティン帝国の歴史を特色づけたのは、貨幣としての金への執着ばかりでなく、比類ないゆたかさを異常なまでに誇示しようとしたことである。広がっていく多様な領土を一つにまとめる道具として、歴代皇帝が残虐と抑圧をほしいままとするとともに使用したのが、金だった。ベザント金貨はビザンティン帝国の貿易と軍隊と他国との同盟を全てまかなったのである。

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ベザント金貨。画像はこちらから

ビザンティン文化の隆盛を支えた旺盛な金の需要に対して、古代ローマ帝国の時代からこの地域の金需要を支えてきた黒海周辺の金鉱山は既に枯渇しかかっており、彼らは、金の供給源をロシアやアフリカにまで求めていくことになる。

これだけの金はいったいどこからきたのだろうか。中世におけるベザント金貨の抜きんでた地位は、国内の金資源によるものではなかった。クロイソスには無尽蔵と思えたパクトロス川の金もとうの昔につきてしまい、このほかにビザンティン帝国の領土には需要な金の資源は知られていなかった。金の一部は東方の国境を越えたはるかロシアの地からのものだったが、最も潤沢な金の源泉はエジプト南部からスーダンにかけてのヌビアの古い金鉱だった。

しかし、このヌビアの金鉱山も、7世紀にはアラブのムスリムに征服され、その後、ビザンティン帝国は、貿易と商業を発展させ、9〜10世紀の最盛期を迎えた。同時に、金はアラブ勢力の拡大でも中心的役割を果たすようになった。
●中世アラブを魅了したゴールド(5章)【AD8世紀】
一方、アラブ地域の支配者たちも、黄金にあくなき欲望を抱いた。戦いで負かした敵(ペルシアやシリア、エジプト、パレスチナ)を略奪し、貿易上の競争相手(ビザンティン帝国)をだしぬき、何世紀もの間わずかしか金を産出しなかった鉱床の埋め合わせをした。

貿易には貨幣が必要である。貨幣は力をもたらす。金はこれ見よがしの消費をするばかりではなく、それによって多くの目的が達せられるのである。ムハンマドの死から五〇年と経たないうちに、アラブ人は過去の偉大な支配者たちを模倣し、ダマスカスのカリフ、アブド・アルマリクが独自の金貨—ディナール—を発行した。純度九七パーセントのディナール金貨は大量に鋳造され、しだいにベザント金貨にかわって主たる国際通貨になり、イスラーム圏とキリスト教のヨーロッパに流通した。

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ディナール金貨。画像はこちらから

アラブ人は際限なく金を求め続けため、遂に需要をみたせなくなってしまった。しかし、北アフリカ沿岸を征服して定住した結果、貿易の才を用いて、運よくカルタゴの繁栄を支えてきた西アフリカの金鉱を独占的に買いつけることができた。この時、彼らが金の対価として現地人に払ったものは“塩”であった。

塩は金鉱を掘る人びとにとって非常に貴重だったため、彼らの多くは塩の返礼として金を差し出した。

アラブ人にとっては金は物欲を刺激する魅惑の金属だったが、アフリカ人は、塩を渇望したために骨を折って金を集めたのである。
●中世ヨーロッパで流通したペニー銀貨(6章)【AD8世紀】
ローマの衰亡から一〇〇〇年のあいだ、ヨーロッパでは金の役割はビザンティン帝国やイスラーム圏ほど重要ではなかった。単にヨーロッパ人が金をあまりもっていなかったからである。
ローマ後のヨーロッパの貨幣の物語で最も重要な発展は、イギリスで起こった。

イギリスには金の資源はごくわずかしかなかったが、コーンウォールにゆたかな銀鉱があり、そこから産出される銀を使って硬貨がどんどんつくられた。七〇〇年ごろに、およそ七〇年間金貨が鋳造されたことがあったが、まもなく銀が加えられ、その後はすべての高額硬貨が銀貨に、補助貨幣は銅と真鍮になった。

このペニー銀貨は高い純度が保たれたため、まもなくヨーロッパ中に流通した。十三世紀の終わりまで、イングランドの貨幣制度の中心になった。

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ペニー銀貨。画像はこちらから

また、同時期にフランク王のカール大帝は、ビザンティン帝国をモデルとして銀よりも金を重んじ、金貨を発行した。貨幣としての一ポンドをニ〇シリングないし二四〇ペンスとし、重量としての一ポンドを一ニオンスと定めた—かつてのローマにならったものである。この金種区分と重量の制度は長く使われた。
このように、金の役割はまだ小さいが、暗黒時代を脱しつつあったヨーロッパで貨幣と通商の重要性が増していったのである。また、この時代に作られた貨幣体制は、今日の金融世界の基盤となっていくようなものになった。
●十字軍とジェノバ交易による金のヨーロッパへの流入(7章)【AD10世紀】
ローマ帝国境界を越えようとする異民族侵入の脅威も落ち着き、多彩な住民を抱える都市では人々が複雑に絡まるようになる。金は貿易、通商、金融面で大きく変化し、経済的に大きな力を持つようになる。この気運は十字軍遠征で頂点に達し、十字軍は聖地奪還を謳って、他国から大量の金を強奪する。
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十字軍のコンスタンティノープル占領

十字軍が使った金の大半は聖地からのもので、これによってヨーロッパはあまり金を輸入しなくても済むようになった。 ・・中略・・ 「コンスタンティノープルの皇帝がフランク族に支払った寄付金、 ・・中略・・ 基本通貨が古くから金貨だった被征服地に課した税」。

ヨーロッパ国内においても金を巡る争いは繰り広げられ、特にジェノバに入る金は増加していった。貿易も好転し、イスラム諸国やビザンティン帝国から硬貨がもたらされ、ジェノバの硬貨に作り変えられた。こうして高い純度を保った価値の高いジェノビーノ金貨が生み出され、その価値の高さはそれを発行した者の威光と繁栄を反映、他のヨーロッパ諸国も金貨を続々作成していった。

金への回帰はたたのシンボルや象徴ではない。・・中略・・カトリック世界がそれまでの2世紀ないし三世紀で蓄積した経済的な利益の最もすばらしい象徴であり、西洋が東洋を初めて凌駕したことを明らかに示すシンボルだった。

11〜13世紀の200年間、9度にわたる十字軍遠征によって、イスラム世界との力関係を再び逆転させたヨーロッパ。しかし、貨幣制度によって拡大を続けてきたヨーロッパの市場もやがてその拡大限界を迎え、新たな原資を求めてコロンブスらが新天地へ向かうことになる。次回は、中世ヨーロッパ後期およびポルトガル、スペインなどが次々と新大陸を目指した大航海時代において、ゴールドがどのような役回りを演じてきたのかを見てみる。

List    投稿者 s.tanaka | 2010-10-03 | Posted in 06.現物市場の舞台裏, 08.金融資本家の戦略3 Comments » 

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コメント3件

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