2012-07-05

近代市場の成立過程(11)〜現代金融システムの原型とデカルトの思想を生み出した商業国家オランダ〜

前回記事では、16世紀のイギリス───群小貴族が細々と国家を営んでいた北海の弱小島国が近代の覇権国へと成り上がってゆく、その萌芽の時代───を扱いました。
今回は、16世紀に宗教改革によって大量の商人が流入したことを契機に独立し、現在もベネルクス三国(ベルギー・ネーデルラント(オランダ)・ルクセンブルク)としてユーロに隠然とした影響力を及ぼし続けているオランダを扱います。

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運河の網が張り巡らされたオランダの首都アムステルダム

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●自由を求めた商人たちが創った国家
ネーデルラントとは「低地の国々」という意味。宗教改革期以前のこの地域は神聖ローマ帝国の領地でしたが、15世紀頃、南部のフランドル地方を中心に、毛織物で経済先進地になってゆきました。
 
16世紀半ば頃はスペイン・ハプスブルク家の領地でしたが、宗教改革が起こると、ルター派・カルヴァン派が流入し、都市部の商人や手工業者を中心に勢力を広げてゆき、主に現在のオランダ地域を中心とするネーデルラント北部地方の宗教は、利潤追求を求めるカルヴァン派が多数を占めるようになりました。宗主国スペインの皇帝カール5世が弾圧を強めますが、逆に、重税政策に対する反発とともに独立の気運が高まってゆきます。
 
1568年、有力貴族オラニエ公ウィレム1世を先頭にスペインに対する反乱を起こし、独立戦争(八十年戦争)が勃発。ネーデルラント連邦共和国が誕生します。ネーデルラントでは、以前から商船を海賊や私略船が襲うこともしばしばであり、商人は自衛のために武装を行っていました。八十年戦争では、これらの武装商船が結集して戦い、オランダ海軍の起源になったといわれています。
 
 


 
●株式会社・紙幣発行銀行・証券取引所の誕生 
このようにして成立した商業国家ネーデルラント連邦共和国は17世紀に黄金時代を迎え、アムステルダムは世界で最も裕福な都市になります。その発展の原動力となったのが、17世紀初頭に次々に誕生した、現代までつながる新しい金融のシステムです。
 
世界初の株式会社:オランダ東インド会社
東インド会社という会社は、この時期イギリスやフランスでも設立されていますが、現代の株式会社に最も近い経営形態を構築したのはオランダ東インド会社でした。

 1598年、アムステルダムとロッテルダムの商人たちの出資によって組織された船隊は、東インドに向かい、さらに進んで香料の主産地であるモルッカ諸島のバンダン、アンボイナにまで到達し、貿易取引に成功しました。しかし、多くの船団の派遣によって利益の減少が生じるようになったため、1602年、諸会社を合同して連合オランダ東インド会社(マークはV.O.C)を設立しました。この会社は、国家から特別の保護と権限が与えられており、アフリカの喜望峰(きぼうほう)からマゼラン海峡にいたる地域で独占的に貿易を行うこと、この地域で条約や同盟を結ぶことや軍事力を行使すること、貨幣を鋳造すること、地方長官や司法官を任命することなど、さまざまな権限が認められていました。そして出島にもオランダ東インド会社の船が来航したのです。
出島ヒストリーより

 
中央銀行の原型:アムステルダム銀行
さらに、金融調節という現在の中央銀行が担う機能を持ったアムステルダム銀行が1609年に誕生します。

 17世紀のオランダでは、両替商が505種類の金貨と341種類の銀貨を扱わねばならなかった。この頃1609年に設立されたアムステルダム銀行が、両替商や商人の持ち込む貨幣をその正味の重量に従って預金額にする、というサービスを始めた。
〜中略〜
当時のオランダ商人達の資金調達金利は、2.5〜4.0%であり、英国の水準を大きく下回り、その資金調達金利の低さは、商業を中心とする経済にとっては規模のメリットとしての大量仕入れ大量販売を可能とさせる原動力となります。ヨーロッパ内での資金調達コストの低さは、他国対比でのオランダ商人の優位性を与えることになり、それだけ交易の繁栄を促すわけです。ここに商業と金融が密接に結びついた経済圏が、大規模に展開され、地中海での中世ヴェネツィアの強みを、17世紀に大西洋側で実現することになったわけです。
こちらより

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アムステルダム銀行

そして、アムステルダム銀行の創設から85年後、国債引受という本格的な中央銀行機能を持つイングランド銀行がつくられますが、この時の英国王はオランダ出身で、かつ英王室とオランダ王室を兼務しています。イングランド銀行のノウハウは、明らかにオランダから受け継いだものだと言えます。
 
株式市場の原型:アムステルダム証券取引所
現代の形態に近い株式会社の登場と隆盛は、必然的に、現代の形態に近い株式市場を生み出しました。

 アムステルダムは欧州で最も重要な交易市場であり、世界を牽引するファイナンシャル・センターであった。アムステルダム証券取引所は世界初の常設取引所でもあった。へーレン運河、プリンセン運河、ケイザー運河といった運河が同心円状に建設され、アムステルダムの運河網が形を整えていったのもこの時代である。
ウィキペディア

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1572年(左)〜1662年(右)の間に運河も現在の形に拡張された

アムステルダム取引所では、17世紀初めには1602年に設立された東インド会社の株式が主に取引されていましたが、18世紀までに貿易手形や債券が取引されるようになり、先物取引、信用取引、空売りなどさまざまな取引手法が開発されました。
こちらより

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アムステルダム証券取引所

東インド会社、アムステルダム銀行、アムステルダム証券取引所の登場によって、17世紀のオランダにおいて、現代も見られる金融システムの原型がほぼ揃います。中でも、アムステルダム銀行の登場によってもたらされた大きな変化の一つは、商取引において、現物価値を伴う金貨や銀貨ではなく紙幣の流通を普及させたことです。しかし、実体価値を超えたマネーを流通させることができ、かつ、実物の裏付けが確認できない「信用システム」の成立は、金貸し支配と市場の暴走を加速させることになります。

金融の技術革新は、人間の貪欲さに火をつけることで、本来の目的を超過して、爆走し始めることが金融の歴史から確認できます。イタリアやオランダの場合も同様に、決済機能の充足の次のステージでは、パブリックな性格が祟り、政府等への貸し付けに発展し、レバレッジ拡大へと邁進してしまうことになったのです。経済の成長スピードを大きく上回る貨幣の増大です。

そして、このような金融システムの弊害が、すぐに当時のオランダで顕在化します。
 


 
●世界最初のバブルとその崩壊
1637年、オランダで世界最初のバブル経済事件が発生します。それは、現代なじみの深い不動産や株ではなく、なんとチューリップの球根の高騰から始まったチューリップバブルでした。

 1636年の夏頃から、オランダでチューリップの球根価格が急騰した。特に新種や珍種の価格は暴騰し、人々は球根が途方もない富を生むと信じて投機に狂奔した。当時からチューリップは4−5月に開花し、6-9月には古い球根が掘り出され、10-11月に新しい球根が市場に出されて、翌年への準備がされるというプロセスをとってきた。今でこそ栽培技術の進歩で、交配、栽培などの仕組みはすべて分かっているが、当時は珍種や新奇な種は、球根についたウイルスなどによって、花の模様や形状を変えるという突然変異のような結果が生まれたらしい。思いがけない新種が生まれると、人々はそれに夢中になった。特に、赤と白、紫と白などの色で、焔が燃え上がったような花が、高値を呼んだようだ。

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当時、超高値をつけた紫と白の縞模様のチューリップ

 バブルたけなわであった1637年1月の時点で、「フローラ(花と春の女神)のことしか頭にない人々が多数いる」との皮肉なコメントが残っている。実際、この頃、新種や珍奇種によっては、わずかひとつの球根で豪華な邸宅が購入できるほど、とてつもない暴騰を見せていた。ところが、2月に入ると、理由は必ずしも明らかではないが、球根価格は暴落し、膨大な損失を被ったチューリップ業者、貴族、富豪などが破産するなど、大きな社会的ショックが生じた。「チューリップ・バブル」の崩壊だった。
こちらより

チューリップの球根は、ピーク時には、球根1個で馬車24台分の小麦、豚8頭、牛4頭、ビール大樽4樽、数トンのチーズ、バター2トンが買えたという、途方もない価格まで上昇したそうです。こちらから当時のバブルの発生と崩壊までの経緯を見ると、実物を必要としない信用取引、愛好家や農家でもない素人や投機家の参入、二流品・三流品の高騰、土地ころがしならぬ“球根ころがし”等々、現代のバブルと瓜二つです。
 
オランダが生み出したのは、新しい金融システムだけではありませんでした。チューリップバブルの崩壊と同じ1637年のアムステルダムで、近代市場にとどまらず、近代という時代の成立に大きな影響を及ぼす一つの出来事が起こっていたのです。 
 


 
●「こんな自由な都市はほかにない」デカルト

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いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものはすべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥けてゆき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちには残らぬであろうか、これを見とどけなければならならぬと私は考えた。
 
〜中略〜
 
かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した。けれどもそう決心するや否や、私がそんなふうに一切を虚偽であると考えようとするかぎり、そのように考えている『私』は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。そうして『私は考える、それゆえに私は有る』というこの真理が極めて堅固であり、きわめて確実であって、懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束ねてかかってもこれを揺るがすことのできないのを見て、これを私の探究しつつあった哲学の第一原理として、ためらうことなく受けることができる、と私は判断した。
(『方法序説』ルネ・デカルト(岩波文庫)第4章より)

オランダはこの時代世界でもっとも出版の自由や言論の自由、思想の自由が保障されている国であり、宗教的にも寛容であったため、ヨーロッパ各国から文化人が亡命し、オランダ、特に最大都市であるアムステルダムに居を構えた。
ウィキペディア

 
「我思う、故に我あり」(Cogito, ergo sum)
この、西洋近代思想の原点となったデカルトの命題(テーゼ)が生まれた舞台も、この17世紀前半、オランダのアムステルダムだったのです。
 
宗教改革の新旧勢力のどちらにも属さず、思想的な規制が少なく、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教も混在していたアムステルダムは、“哲学者たちの避難所”と呼ばれていました。1596年、フランスに生を受けたデカルトは、ドイツ、イタリア、フランスを遍歴し、哲学と数学の研究に没頭した後、32歳から1650年に54歳で死去するまでの22年間をネーデルラント連邦共和国で過ごしました。そして彼が「こんな自由な都市はほかにはない」と評したアムステルダムにおいて、『方法序説』は執筆・出版されたのです。
 


  
この当時の欧州は、国王や封建領主に代表される「武力」と、ローマ教会の「宗教」という2つの力のせめぎ合いの中で、商人階級が次第に頭角を現していった時代だと言えます。その中で、「武力」と「宗教」の双方の強制力から逃れ、自由を獲得し得たのが当時のオランダだったのです。国家や教会といった集団からの完全な離脱を果たした商人や思想家たちは、この新天地で個人の自我を全面的に解放させたのでしょう。その結果、現代の金貸し支配の武器となる金融のカラクリが編み出され、バブルが発生・崩壊し、西洋近代思想の源流が生み出されたのは、必然の成り行きだったのかも知れません。
 
次回は、経済政策としては国富の源泉を商業に求める重商主義を打ち出しながら、政治的には、自由の国オランダとは対照的に絶対王政をとったことで知られる、16世紀のフランスを扱います。

List    投稿者 s.tanaka | 2012-07-05 | Posted in 08.金融資本家の戦略No Comments » 

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