シリーズ「市場は環境を守れない、社会を統合できない」6〜自己中と市場〜
こんにちは
シリーズ6回目の今回は、現代人の心のどこかに潜んでいる「自己中」意識と、環境破壊の関連性についてお伝えします。
このシリーズ序盤の記事でお伝えした「環境保護主義」が、支配層の企てによるものであり、「環境問題」が市場拡大のネタになっている事ともリンクしてきます。
その記事も参照していただき、読み進めていただくと有り難いです
↓ ↓ ↓
シリーズ「市場は環境を守れない、社会を統合できない」2〜環境保護主義が盛んになったのはなんで?〜
シリーズ「市場は環境を守れない、社会を統合できない」4〜市場支配のための「緑の革命」
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「オレのモノなんだから、それをオレがどうしようが、オレの勝手だろ」この原理が世界を破滅に導いている (←「るいネット」の記事を紹介します)
>それは所有・保有さえしていれば、どんな人格的欠陥者であろうが、精神に異常を来たしいようが、そんなことは一切関係なく最も発言権があり、行使する権限があり・・・(Silentservice氏の記事から)
私権時代の根幹にある、この原理が、実は決定的に世界を崩壊させる方向に導いていることに最近気が付いた。註)私権時代
私権とは、私的権益あるいは私的権限を略したもの。人類史の過去3000年は財(金)、地位、異性(女)など、全てが私権の対象となっていた。その結果過去3000年間は、誰もが私権の獲得=私権闘争に収束することによって統合される私権統合の社会となった。
(正確には私権闘争は、力=私権の強いものに弱いものが従う序列原理によって統合されており、そうような時代をここでは私権時代と呼ぶ。)貧困が消滅して以降、私権を求める欠乏や私権価値や私権闘争は衰弱を続けている。例えば、「私有」という概念を持たない先住民族は、生活の場であり生活の糧になっている森林をどう扱うか。
森林が豊かだからこそ木の実や果物が採れる事を彼らは知っている。樹木があるからこそ水源は保たれ、狩りの対象の獣たちも生きていけることを。仮に樹を一気に斬って無くしてしてしまえば、自分たちや子孫が生きていけなくなる事を彼らは知っている。
自然のあらゆる対象と対話しながら、そこに垣間見える摂理に従って生きていくだろう。
しかし私権時代の人間はまったく異なる。
北米の森林は別の場所からやってきた欧米人の「所有物」になってからこんなことになった。
樹が高く売れるなら、そこに生えている樹を残らず伐採して売り飛ばす。下草を焼き払ってカネになる作物を植える(奴隷を使ってor労働者を雇って植えさせる)。カネになる動物は絶滅寸前まで狩り尽される。作物の育ちが悪くなれば、化学肥料をしこたまぶち込んで生産性を上げる。そのうち水源が枯れ、土が劣化して何も育たなくなれば(カネを生まなくなれば)うち捨てられる。そうやって砂漠が広がっていく。その後、その土地がどうなろうと知ったことではない。
そこに働いているのは「オレのモノなんだから、オレがそれをどうしようが、オレの勝手だろ」という意識である。
この価値観を持つ、その土地に住んでいない第三者がその土地を「私有」する限り、必然的に、その土地が持つ「カネになる」部分だけが収奪され、劣化させられた残りカスだけがうち捨てられていく。これは必然である。そうやって積もり積もって、地球全体で生態系は破壊され砂漠は増え、大気や水が汚染され、多くの生物が棲めなくなって絶滅し、最後は人類自らも生きていけないような環境になりつつある。
このような狂った状況を生み出したスタート地点。
それは「個人が所有する」という価値観。つまり「所有したものは、所有者がそれをどうしようが所有者の自由である」という価値観自体である。
その価値観は、少なくとも結果を見る限り、自然の摂理に反しており、絶対的に誤っているということは明らかであろう。
では、どうすればよいのだろうか。
その土地や環境にこれからも棲み続けるような「集団」(その土地を自分たちの一部であると感じることのできる集団)を単位としてその土地を管理し、所有者個人の自由にさせないようなシステムを創りあげることが最低でも必要であろう。それができない限りは、どんなゴマカシの手を打とうが、力を持つ一部の自己中の手によって地球のあらゆる生態系が破壊され尽くされるのは原理的に止められないと考えられる。
そもそも始原人類(先住民族)が持ち得なかった「私有」という概念は、一体いつから、一体どこで発生したのだろうか? そして、なんで「私有」という概念が当たり前の常識となっているのでしょうか?
それは、本源的な共同体が次々と駆逐されるに至った、略奪闘争の発生起源である約6000年前、乾燥期のイラン高原、遊牧民族に遡ります。
(詳しくはこちらを↓↓)
女移籍の持参財が私有意識の原点
掠奪闘争が私有婚を一般化させていった
まずは、『オレが!オレが!』という自分第一(自集団第一)の自己中意識の発生起源として、「私有」「所有」という自己中の正当化に繋がる概念の起源や根本構造を理解し、その上で現実を直視し、その歪みを再認識することが、これからの可能性を探る土台になるでしょう。
そして、個人の「自己中」意識も、何らかの圧力で封印していく必要があります。(それは既に、現在形で「KY」や「モンスターペアレンツ」に対する世間の白い目圧力として顕在化しているように見えます)
加えて、現代的な環境問題に関しては、まず「自然の摂理」を理解し、「事実」を把握することが、その解決の一歩目として必要でしょう。(←現在マスコミを通して垂れ流される環境問題の情報は、歪曲・捏造が甚だしい)
くれぐれも、目先の環境ボランティアや、環境プロパガンダに騙されないよう、気をつけましょうね
さて、次回は一歩進めて、近現代の「市場絶対論」の矛盾について考察していきます。
乞うご期待
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コメント2件
hermes handbags brown | 2014.02.02 2:32
hermes uk delivery 金貸しは、国家を相手に金を貸す | シリーズ「食糧危機は来るのか?」9 〜兼業農家の必然性——世界に冠たる担い手システム〜
POISON | 2012.03.02 21:48
まずはじめに小農を否定しているわけでは無いことを前もって断っておきます。
その上で兼業は反対です。
中途半端な姿勢で農業をしないで欲しい。
これからの小農は個性が重要です。
「あなたのこれが欲しい」といわれる農産物は小農が作りやすい。
またそのマーケットはニッチで規模が小さい。
よって小農にマッチします。
ニッチで求めるレベルが高いからこそ腰掛けでは不可能です。
大農家は確かにコスト面では広大な面積を経験をもってやってきた地域と比べたら高いかもしれませんが、これも考え方です。
世界的に見たら小面積であるが高品質な農産物が生産可能です。
いわゆる中の上あたりの安心安全な農産物であれば日本農業であれば安定的に生産可能です。
そこで世界の上等品をもとめるニーズに提供していけばマーケットはあります。
同じ土俵で相撲を取らなければいいのです。
私は効率化を阻み、助成金の大半を利用している兼業農家は排除すべきと考えています。
危機的状況と認識しているのであれば邪魔をしないて立ち去って欲しい。
本気で取り組んでいる専業農家に失礼です。
いずれ助成金はなくなります。
その時に兼業農家は真っ先に廃業となるでしょう。
その時に専業農家を道連れにしないで欲しい。
いま真剣な専業農家は助成金を頼みとしない経営に移行していくべく努力をしている最中です。
最後の企業が農業に取り組んでいる話は兼業と関係ありません。
逆にこのことを紹介することは兼業を認めないことになるのでは無いでしょうか。
マーケティングにより販売先との連携を強めていくことは責任が強くなっていくことです。
納品先は腰掛けでやっている商品を受け入れられるでしょうか?
納期・数・品質を協議の内容通りに守れますか?
それを天気のせいにするつもりではないでしょうね。
篤農家は一切天気のせいにはしません。
いくら天気が悪くても管理出来なかった自分のせいにします。他に責任転嫁しません。
兼業農家にそれができるでしょうか?
甘えたことを言っているのはこの記事を書いているあなただと思います。