2014-01-03

資力が武力を上回ったのはなんで?(3)〜武力が制覇力になりえなくなった時〜

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さて、このシリーズでは、「資力が武力を上回ったのはなんで?」を扱っています。これまでの記事はこちらです。

(0)プロローグ

(1)“公共事業”としての十字軍と周辺ビジネスで肥大化した「騎士団」

(2)負け組が築き上げた国:スイス

是非、どうぞ 今回はスイスが世界に与えた影響について扱っていきます。

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 1291年にスイスは独立国家として誕生しましたが、険しい土地ゆえに耕作面積も少なく、国家を維持するには出稼ぎに出て外貨を稼ぐしか手がありませんでした。

 そこでスイスは、1314年モルガルデンの戦いで広まった“強いスイス軍”の評判を追い風に、傭兵産業を確立させます。これは前回記事でも取り上げましたが、周辺国と武力協力することで、負け組でありながら、生きながらえる戦略でもありました。それでいて外貨を稼ぐ立派な産業だったのです。

 もちろんそれまでに“傭兵”は存在していましたが、おそらく“あぶれもの”が中心だったでしょう。したがって、“腕っぷし”と国家産業としての“信用力”を兼ね備えた兵ですから、他国にとっては有難い供給源だったと思われます。

 

 日本で“傭兵”というと雇われ兵士で、小規模なイメージですが、さすがヨーロッパはスケールが違います。スイスのお膝元であるイタリアが傭兵の活躍の場でしたが、軍隊のほとんどが傭兵という例もあるそうです。そしてその暴れっぷりの様子が、ブログ「傭兵たちの略奪」の記事に記載されていましたので、紹介します。

 

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それでは記事を紹介します。

 

1.傭兵たちが活躍する時代

  ヨーロッパ史上、戦争の主体に傭兵が使われた時代があった。具体的には12世紀、十字軍によって騎士の没落が始まったころから、17世紀フランスに絶対王制が確立するまでである。最も早く傭兵主体となったのはイタリアで、各都市国家相互の戦争の際に傭兵が活躍した。傭兵隊長の支配を受けるまでになった国もあった。

 傭兵の発達は、武器・鎧の発達と同時に進行した。傭兵はクロスボウやパイクを使用し、騎兵を無力化した。騎兵がいかに馬の突進力を利用できるとはいっても、遠距離から飛んでくるクロスボウの矢や歩兵が方陣をくんで構えるパイク(長槍)には太刀打ちできなかった。

 特に、クロスボウの登場は戦争そのものに変革をもたらした。クロスボウは機械仕掛けの弓で、大した訓練もなく誰でも使えるという特徴を持っている。民衆をかき集め、クロスボウを与えたらそれだけで立派な戦闘部隊となるのである。これは、それまでの、戦争=金がかかる、よって軍事階級=富裕という数式を覆すこととなった。

 史上、クロスボウ部隊が騎士たちを敗走させた例としては、1477年のナンシーの戦いが名高い。この戦いにおいて、ブルゴーニュ公シャルル(勇猛公)はスイスの農民軍のために敗死した。戦争における騎士の意義を覆す大事件であった。

 だが、傭兵の戦争としてもっとも名高いのは、やはりドイツ三十年戦争であろう。

ドイツ三十年戦争は、1618年から1648年までドイツを舞台として行われた一連の戦争である。この戦争でドイツ全土とくに北ドイツは傭兵たちの掠奪に晒され、人口は大幅に減少した。

 

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 それまでの戦争は、『 やあ、やあ、我こそは、・・・。 』と、自己紹介から始まり、敵を“騎士”として敬う騎士道に貫かれていました。毛並みの良い馬に跨り、美しいデザインの施された甲冑を纏い、これまた装飾された剣を持つ騎士は、貴族の象徴でもあり憧れの的でした。戦争というより決闘に近く、様式化されたものでした。

 しかしクロスボウの登場で、戦争はまさに殺し合いとなり、国家成立以前の無秩序の掠奪闘争時代に逆戻りしてしまったのです。では続きをどうぞ

 

2.傭兵主体の軍隊の様相

この時代の軍隊は、明らかに現在と様相を異にしていた。

 三十年戦争における傭兵の悪名は高い。その通ったあとには草一本残らないと言われるほどのものである。だが、それは単に傭兵たちのせいだけではなかった。

 傭兵たちのあとには、その妻、子供、召使い、御者、売春婦などからなる巨大な「輜重隊(しちょうたい:軍需品を調達する部隊)」が付き従ったのである。その数はおよそ傭兵の2〜3倍に及び、さらに彼らを養うための本職の「掠奪屋」たちがつきまとっていた。

「4万人の軍はとてつもない量の武器、食料、最も重要な各部隊の象徴である中隊旗などの装具を必要とした。更に、兵士たちは糧食を支給されなければならなかった……1日ごとに約1キロのパン、1ポンドの肉、3リットルのビール、を。これらの基準量から推定すると、当然しばしば少なくてすんだのだが、4万人のために毎日800ツェントナー(4万kg)のパンを焼き、400ツェントナー(2万kg)の肉を家畜からばらし、120キロリットルのビールを飲ませなければならなかった。そのために、日に少なくとも100頭の雄牛と2400個の50リットル樽入りビールが必要だった。しかし、馬もまた、近々肉を提供することになる雄牛と同様、食べることを欲した。25000頭の家畜が軍とともに行進することは通例であり必然的だった。」

 これらの傭兵を核とする「集団」(軍隊と呼ぶには躊躇せざるを得ない)を目当てに、たくさんの商人も集まってきた。彼らは酒保商人(Marketender、独)と呼ばれ、食料はもちろん武器すら自分で都合しなければならない傭兵たちにそれらを提供する役を果たした。

 酒保商人たちは君主によって保護されていた。理由は簡単で、もし酒保商人がいなくなれば軍は飢え、役に立たないどころか反乱を起こされるかも知れなかったからである。

 さて、ここで重要なことに注意を向けよう。

 略奪品は食物とは限らない。家畜などのこともあるが、そのまま食べることが出来る量は非常に限られている。

 給与(いつ払われるかさえ怪しかったものだが。君主は最初から掠奪を見込んで少な目に給与を設定したとも言われている。)は貨幣で支払われる。

 一方、兵士は自前で装備を買わねばならず、妻や子供を引き連れている。

 ここから導き出される結論は、「傭兵は、略奪品を売らねばならなかった」である。もちろん、買い手は酒保商人である。

 そこに現出したのは、酒保商人による買い手市場である。傭兵にとっては、まず略奪品を買って貰わねば困るのだ。彼らは君主の保護もあって、相当安く買いたたいた。

 酒保商人の手に渡ったそれらの略奪品は、街などで売り払われた。傭兵が行ったことは、ある人の持っていたものを他に譲渡したといってもよいような行為だったのである。(後略)

 

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 傭兵の実態とは、掠奪集団と呼ぶにはあまりに巨大で、バラバラな寄せ集めだったのです。もちろん傭兵による戦争が、最初からこのような状況だったわけではなく、いわば末期状態と思われます。ですが、大きくはスイスが確立した傭兵という兵隊輸出産業の拡大発達によって、ヨーロッパにおける勢力分布図の変化に大きな影響を与えました。

 この時代では自国の武力に自信のない国は、例え借金でも金さえあれば傭兵をかき集めることができ、時間を置かず武力を上昇させることができたのです。そしてそのため、各国における武力の差は小さくなり、必然的に戦争は長期化していきます。結果として戦争で勝っても、負けても田畑や街は荒れ、国家としては疲弊するばかりで、戦争(略奪)が私権獲得の手法としては、ほとんど機能しなくなったと考えられます。

 

 あくまでヨーロッパに限定されますが、

スイスの確立した傭兵産業がもたらした各国の武力均等化の流れは、武力が他国を制覇する力になり得なくなってきたこと

を意味します。

 

 この不全状況を突破する打開していく大航海時代を次の記事で扱っていきます。

List    投稿者 goqu | 2014-01-03 | Posted in 08.金融資本家の戦略No Comments » 

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