近代市場の成立過程(14)〜17世紀のイングランド、金貸しが国家に金を貸す基盤が整った!
17世紀のイングランドの紋章
フランス、イングランド、スコットランド、アイルランドの
紋章を融合し出自・関係や支配を表している
●「近代市場の成立過程」シリーズ
(1)プロローグ
(2)近代市場の誕生前夜・富豪の台頭⇒現代通貨制度の原型が形成される〜
(3)ルネサンスの先駆者ダンテが金貸したちにもたらしたものは…
(4)メディチ家はなぜ栄えたか?
(5)ルネサンス:金貸しによる恋愛観念の布教
(6)マキアヴェリの思想とその影響
(7)大航海時代を実現した金貸したち〜
(8)近代思想の原点となった宗教改革→新たな金貸し勢力の台頭
(9)中間まとめ 金貸しの台頭と教会支配の衰退〜
(10)16世紀、小国から大国に大化けしたイングランド、その背景を読む。
(11)現代金融システムの原型とデカルトの思想を生み出した商業国家オランダ〜
(12)絶対王政と重商主義にみるフランスの発展〜
(13)〜ヴァイキングと欧州商人によって形成→台頭したロシア帝国〜
近代市場の成立過程シリーズ第14回は17世紀のイギリスがテーマです。
ロンドンオリンピック開会式ではイギリスの歴史を表現したようですが、本当の歴史は戦争や騙しのオンパレードです。今回扱う17世紀は金貸し支配の確固たる基盤を築いた時代。商人たちが国王から権力を奪い取っていく過程を明らかにします。
第10回ではイングランドが辺境の弱小国からヨーロッパの主役を狙うべく急成長を遂げた16世紀を扱いました。
16世紀イングランドの最大の特徴はなにか?それは、ローマ教皇からの離脱、プロテスタント化、貿易の推進と大転換、為替取引所の設立、これらをすべて国家課題として取り組み、国を上げて推進したことではないでしょうか。
16世紀のイングランドではヘンリー8世・エリザベス1世など国王が対抗する貴族の力を抑えるためにヨーマン(独立自営農民)や、地主から商業へと収入の幅を拡げたジェントリなどの新興勢力を優遇し始めました。国王がカトリック教会から奪った土地や権利をヨーマンやジェントリに切り売りしたり、彼らを官僚に登用していました。その後、勢いの衰えない新興勢力が国王中心の国教会と対立するようになっていきます。
イングランドの17世紀は革命の世紀、と言えば聞こえは良いのですが、元農民や元地主そしてオランダなどから渡ってきた商人たちが様々な派閥を作り、国王の権力を奪い取ろうとする権力闘争の世紀です。
◆ピューリタンの登場
1603年、イギリス国教会を築いたエリザベス1世が世を去るとスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王位を継ぎジェームズ1世を名乗りスチュアート朝が始まります。
ジェームズ1世は、教会を国王=教主の支配下としたイギリス国教会の監督制度を重視していましたが、国王に縛られず自由に儲けたい商人たちは新たな派閥を作り対抗し始めました。国王の監督から離れ主要な教会(長老会)による組織作りを目指した長老派や、信徒たちの自律した教会制度を目指そうとした独立派などの分派=ピューリタンの登場です。
しかし、ジェームズ1世は彼らを認めず王権神授説を唱え、ピューリタンとカトリックの排除を宣言。1620年、反発した一部のピューリタンやカトリック教徒が「メイフラワー号」でアメリカに渡航しました。この出来事は彼らが信教の自由を求めアメリカを開拓したと美化されています。
ジェームズ1世も絶対王政を唱えながらも、実質的に支えていたのは台頭するピューリタンを快く思わない貴族や商人たちであり、彼らを保護すべく恩賜や金品を授けていました。彼らの力なしにはピューリタンを追い出すことはできなかったのです。
◆ピューリタン(清教徒)革命
1625年、ジェームズ1世の息子チャールズ1世が王位を継ぐと、彼はフランス王女でカトリックのアンリエット・マリを王妃に迎え、フランスの力を借りて絶対王政の実現を目指しました。父ジェームズ1世はスペインと和解したのに対しチャールズ1世は敵国フランスと手を結んでいます。ここにまだまだ不安定なイングランドの苦しい状況が見られます。
財政難に苦しむ中、フランス支援のため対スペイン戦争の戦費を議会に要求する王の願いも虚しく、議会は全く言うことを聞かず支援も増税案もほとんど承認しませんでした。反発する議会に業を煮やしたチャールズ1世は議会を無視し公債を強制し、徴兵や懲役などの罰則を科したので大衆の反発は強まりました。さらになぜかフランスとも戦争をはじめ戦費に窮した王が議会に増税を諮りましたが、反対する議会は議会の承認なしに公債発行や課税ができないなどの「権利の請願」を提出し王も受託しました(1628年)※詳細は後述。
しかし翌年には王は権利の請願を無視し、専制政治を始めました。その後、スコットランドの長老会制度を国王中心の国教会制度に改めることを求めたため長老会(カルヴァン派)の反発に合い内戦(主教戦争)が勃発。国軍が敗れ賠償金を支払うために11年ぶりに議会を開くと議会から不満が一気に爆発しました。国王派と議会派の真っ二つに分かれ本格的な内乱へと突入します。北西部の保守的な貴族やジェントリーを基盤とする国王派とロンドンを中心に東南部の商工業者、ヨーマン、ブルジョアなどのピューリタンが支持する議会派の戦いは2年続き、議会派が勝利し1649年にチャールズ1世は処刑されました。
王政が途絶え、議会派を率いたオリバー・クロムウェルが中心とした共和制が実現しました。これがピューリタン革命です。
ピューリタン革命が成功した背景に、チャールズ1世の時代、ヘンリー8世に比べ国王領は半減し、貴族や新興勢力に対して国王への支持を取り付けるための財力もなくなっていきました。また当時、米大陸からの銀が大量流入した結果、インフレが激しく戦費も高騰し財政は疲弊する一方でした。他方、インフレの恩恵を受ける商工業者は潤い力をつけていったのです。さらに、周辺諸国は旧教派=ハプスブルグ家と新教派の覇権闘争へと巻き込まれ、島国イングランドは他国に干渉されずに済んだことも一因です。
共和制と言えども実態はクロムウェルの独裁軍事政権で、それまでの財政難は好転していません。そうなると貴族やジェントリー等の議会は利害を巡りクロムウェルに対して再び派閥闘争を始めます。
1658年、クロムウェルが病死し、その2年後の1660年、長老派がチャールズ1世の息子チャールズ2世を亡命中のオランダから呼び寄せ国王に担ぎ上げました。王政復古です。
しかし、王権は議会によって悉く制限され議会の権力が強化されました。実質的に議会制の復古であり、それは貴族やジェントリー、商工業者たちが独占する議会によるブルジョア革命の完了と言えます。
◆名誉革命
その後、議会はトーリー党とホイッグ党(現在の保守党と自由党の起源)の新たな派閥闘争が起こりチャールズ2世の亡き後、トーリー党が支持する弟ジェームズ2世が王位を引き継ぎました。しかし、カトリックを公然の秘密として信仰するジェームズ2世はローマ教皇に近づき、反対する勢力を取り締まり始めたため、圧政を憂慮する議会がジェームズ2世の娘メアリに近づき、夫のオランダ提督オラニエ公ウィリアム3世とオランダ軍に上陸を要請しました。元々脆弱だった国王軍はオランダの大軍を前に戦う者はおらずジェームズ2世はフランスへ亡命。
1689年、ウィリアム3世が王位を継いだものの、議会は即位に先立ち「人民の権利と自由を宣言し王位継承を定める法律」いわゆる「権利の章典」を成立させました。名誉革命とは議会によるクーデターであり、その帰結は議会主権の立憲君主制を確立し金貸したちが国家を完全に牛耳ることとなったのです。
17世紀のイングランドが国王から議会(=金貸し)へと主権が移った歴史を紐解きましたが、資金力と武力だけではなく金貸し支配を可能とした宗教に替わる共認支配のための新たな観念群が登場しています。
エドワード・コーク
◆「近代法の成立」とは金貸し支配のための制度共認
名誉革命の布石となり、権利の章典のベースとなったのが1628年に議会が王に提出した「権利の請願」です。権利の請願を記した中心人物のエドワード・コークが、ジェームズ1世の頃より国王の権力よりも法の優位を主張し、「法の支配」という民主主義の憲法原理を確立した点が注目されます。
国王ジェームズ1世が王権神授説をもって国王主権を主張したのに対して、コークが「王権も法の下にある。法の技法は法律家でないとわからないので、王の判断が法律家の判断に優先することはない。」と主張したところ、気分を害したジェイムス1世が「王である余が法の下にあるとの発言は反逆罪にあたる。」と詰問したのに対し、コークは、「国王といえども神と法の下にある」というヘンリー・ブラクトンの法諺を引用して諫めたとされる。
wikipedia
この頃に司法権が国王から自立し優位であることを認めさせています。
法の支配とは近代法によって金貸し主権を強制共認させることを意味するのです。
また、金貸したちが国家を安定的な貸出先にするために法律と並び議会制度を利用しています。
債権者から見ると、皇帝や国王には寿命があり、債務の継承者も不確定である。これに対して、領邦であっても議会は恒久機関であるので、(デフォルトを行使しかねない)国王よりも信用が高い。
金貸したちが、恒久機関としての議会(≒金貸したちの共認原理)の確立が、国債の信用→低金利を実現する、(国王→国家にとって)最も効率的な資金調達法であるとともに、(金貸しにとって)最も効率よく&安定した資金増殖法であることを、経験的に認識していたからである。なお、その中で支配され続けるのは、重税を課されるだけの者たちである。
つまり、国債制度を確立するために「権利の章典」が承認され、さらに莫大に発行される国債を効率的に(独占的に)管理するために「イングランド銀行(1694年)」が創設される。
るいネット「オランダ金融資本が作り上げた近代国家イギリス(第二のオランダ)」
「リヴァイアサン」ホッブズ著の表紙
◆社会契約説「神との契約」から「国家との契約へ」
これまで武力闘争の勝者である国王は、宗教によって大衆を共認支配し、序列の安定を図っていました。しかし、商人たちはローマ教会の支配を脱するためにイギリス国教会を作り、さらに王権神授説による国王の正当性を否定するために「社会契約説」が作られました。
チャールズ2世の家庭教師であり共にフランス〜オランダに亡命していたホッブズは、宗教戦争など新旧勢力争い=私権闘争が各地で絶え間なく繰り広げられていた状況を憂い、自然状態では「万人の万人に対する闘争」とし、私権闘争の主体としての「個人」を社会の原点と措定します(根拠のない架空観念)。そして私権闘争を抑制し、秩序と自由を保障する主体として従来の「神との契約」に代わって「国家との契約」を説きます。
王権神授説を否定し、かつ個人も国家に服従する契約とみなされ国王派からも反国王派からも批判を浴びました。
そして1689年のジョン・ロックの社会契約説では、「天賦人権説」を唱え、人権は生まれながらに与えられているもの、天が与えたものとし人権の観念を絶対化しました。
「自然状態下において、人は全て公平に、生命、財産(所有)、自由の諸権利を有する。政府は諸国民のこの三権を守るために存在し、この諸国民との契約によってのみ存在する。政府が国民の意向に反して生命、財産や自由を奪うことがあれば抵抗権をもって政府を変更することができる」
これは、まるで「私有権要求に応じなければ国家を転覆することも辞さない」という恫喝である。
「日本を守るのに右も左もない」
その後のルソーは、市場社会の自由な個人が生み出す競争によって生まれ出る敗者と貧困の問題を「救済」するために人間の尊厳→人権思想の基礎を生み出しました。
中世の神学者が人間の理性の根拠に神の意志をおいたのに対して、近代思想家は単なる頭の中の理想としてアプリオリに理性的人間や「自然」状態を措呈しただけです。つまり近代思想は単に神という概念を除いた、もしくは人間を神の位置に格上げしただけの構造です。そして観念支配の主役が中世の宗教家から近代の法律家へと移っていったのです。
金貸したちが、国王に戦費を貸し王の資産を奪って衰弱させ、武力闘争や時にはオランダの支援を仰ぎながら権力を奪い取る過程と、背後に王権よりも正当化される観念として社会契約説・「人権」を絶対化し議会制度と法制度で金貸しの権力を絶対化し思いどおりに国家を牛耳ることとなったのです。現代・金貸し支配の基盤を盤石なものとしたイングランドの17世紀でした。
次回は18世紀のイングランド。産業革命など資本力を拡大しパックスブリタニカ=イギリスの金貸しが覇権を握る過程を扱う予定です。お楽しみに
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