2010-10-10

ゴールドの真相に迫る−7 ゴールドの歴史(3)〜大航海時代の金の大移動〜

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前回記事では、リュディアで生まれた貨幣のビザンティン、ローマ、アラブへの広がりから、十字軍遠征によってイスラム世界との力関係で再びヨーロッパが逆転したエピソードまでを、ピーター・バーンスタイン著『ゴールド—金と人間の文明史』4〜7章より紹介しました 😀
今回は、同書8〜11章の紹介です。
さらなる金を求めて新たな地を求めて大航海時代へと突入するところからスタートです
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大航海時代の世界

●ヨーロッパでの金の大量消費から、金を求めて大航海時代へ(8章)【1400年代〜1500年代】
14世紀のヨーロッパは、全土に渡って大流行した黒死病、大地震、度重なる戦争等から、暗黒の時代と言われている。そんな中でも金の影響力は衰える事無く、むしろ明日の分からない混乱した世の中で人々は貯蓄する意欲も失せ、消費欲求が益々強くなっていき、金を求めるようになる。

こうした死にみちた混乱は、控えめな言い方だが、経済に不思議な影響をおよぼした。とりわけ黒死病による大量死の影響は大きかった。人間の身体が消滅しても、その人の所有するものや財産は残る。14世紀の恐ろしい悲劇によって、多くのヨーロッパ人はそれ以前よりもずっと豊かになったのである。一言で言えば、貧乏人が減り、それだけその他の人間が金持になったのである。彼らはすぐさま金持らしく振舞うようになった。

国家は、戦争の身代金に金が必要な事等から、金を贅沢に使用する事を禁止するも効果は無く、金は一気に目減りしていく。経済史家のジョン・デイによると、ヨーロッパ中の金の総準備高は1340年〜1460年の間で50%も縮小したと考えられている。

15世紀のヨーロッパの金の産出高は、需要をはるかに下回った。ある専門家の推計によると、1400年のヨーロッパの金の産出量はわずか4トンにすぎないという。・・中略・・15世紀にはヴェネツィアだけで年に金1トンをドゥカートの形でヨーロッパの外に輸出し、これによって金の供給量が大幅に減ったとされている。経済史を専門とするチャーチルズ・キンドルバーガーが引用している推計では、摩滅や退蔵、船の難破、装飾を目的とするメッキに使われたりして、年に5%もの硬貨がなくなっている。

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ドゥカート金貨

しかし、15世紀に入るとようやく商業、工業共に復興、大航海時代へと突入し、キリスト教布教の名の下に、各国がこぞって金を探す旅に出る事となった。証左として、コロンブスはこのような手紙をしたためている。

したがって、陛下は彼らをキリスト教徒にさせることを決意なさるべきです・・・そうしてこそ、多くの人々をわれらの聖なる信仰に目覚めさせると同時に、広大な領地と富とその住民とをスペインの物に出来るからです。この地には間違いなくゆたかな金があります。

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コロンブス

●ポルトガルとスペインによるアフリカ・新大陸からの金の獲得(9章)【1400年代〜1500年代】
貿易競争において、陸路と比べて格段に海路が有利である。
一人当たり運べる荷物の量が5〜20倍も違うからである。造船技術と航路開拓が貿易競争の重要な技術となった。
航路を発見し、世界の発見に先鞭をつけたのは、ポルトガル人であった。
ポルトガルのエンリケ航海王子は、貧しい国に活路を見出すため、海を利用してポルトガルの力と影響を広げることにひたむきな熱意を注いだ。

1470年代の初めまでに、ポルトガル人はアフリカ西部の南向きの沿岸に大規模な貿易拠点を築き、サン・ジョルジェ・ダ・ミナと名づけていた。彼らは、サン・ジョルジェに立派な首都をつくって北部や西部の現地人と活発に取引したが、アフリカの金鉱を所有したり操業に参入したりしようとはしなかった。サンジョルジェ・ダ・ミナを経由してポルトガルに流入する金は物々交換で手に入れたもので、引き換えにした品物は塩やケープ付の長衣、赤や青の布、帆布、銅、真鍮、鍋、珊瑚、貝、白ブドウ酒などである。取引はうまくいった。1500年台の初めには、1年におよそ700キロの金がアフリカからポルトガルに入ってくるようになったが、ヨーロッパ全体で金の産出量が約4トンにすぎず、ポルトガルはゼロに等しかったことを考えると、この量はかなりのものと言えよう。

つづいて、コロンブスが西回りでインドを目指そうとして、アメリカ大陸を発見した。彼の目的も、インドやアジアの金を手に入れることだった。
しかし、エンリケ王子の甥でジョアン一世の孫にあたるジョアン二世は、その提案をにべもなく退けた。アフリカ沿岸への航海が着実な成果をあげ、喜望峰経由でインドへの道が開かれようとしているときに、わざわざ新たな危険をおかす必要はなかったからだ。1492年4月、コロンブスはスペインのフェルナンド五世とイザベル女王に上記の条件を承認させた。イザベル女王としては、コロンブスがより短い航路を発見すれば、スペインはインド一帯を掌握してポルトガルに大きく水をあけることができるし、彼の約束した金によって王朝の財政を支えることもできる、と考えたのである。
コロンブスはアメリカ大陸を発見し、スペインは現地に入植した。

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アメリカ大陸に初上陸したコロンブス一行

インカの皇帝を捉えることに成功した、スペイン軍のピサロは、釈放と交換条件でインカ中の金を集めさせた。

集められた財宝はすべて装飾品から貨幣に変えられ、次々と坩堝に放り込まれて同じ大きさの延べ棒にされた。(中略)この仕事にはまる一ヶ月かかったが、総額で132万6539ペソになり、プレスコットの計算では彼が本を書いた1840年代の価値に換算して1500万ドルに相当していた。現代の価値で2億7000万ドルになる。

要するに、約33tで現在価格で14億2000万ドル(1160億円)がインカ帝国でスペインが集めた金の総量である。
スペイン軍は、インカの皇帝アタワルパを保護し続ける意味はないと考え、最終的には形だけの裁判によって殺された。

スペイン人が金と金製品を奪うだけ奪ってしまうと、もう略奪するものがなくなった。その後はまともな事業として採鉱がはじまった。(中略)この重労働はインカ帝国のもとでは厳しく管理されて行われ、掘りつくさないように調整され、また労働者の生命も守られた。ところが、新世界に金を求めて乗り込んできたヨーロッパ人はみなそうだったが、スペイン人はインディオを激しく労働にかりだして酷使した。

●大航海時代:ヨーロッパへの金の大量流入と私的通貨の誕生(10章)【1500年代〜1600年代】
一五〇〇年代には、新世界からスペインにかつてないほどの金と銀が大量に運ばれた。十六世紀末までにヨーロッパに蓄えられた金銀の総量は一四九二年当時の五倍近くにのぼる。しかし、この莫大な富を生産的資産に変えず、戦争などをはじめ外国のものを消費し続けた結果、外国への借金がかさんでいった。スペインは何度も財政危機を繰り返した。
十六世紀、外国のものを買える場として見本市が発達した。見本市では、商人が品物を購入するには、物々交換ではなく、その国の通貨を調達することが必要になった。そこで通貨を取引する両替商が次第に増えていくことになる。これが国際金融業の始まりとなる。

機能の集約した見本市にはますます多くの金融取引が集中した。商売はどんどん多角化し、その延長として、この時代に成長した同族経営の大財閥が出現した。神聖ローマ帝国のフッガー家、フィレンツェのメディチ家、そしてのちのロスチャイルド家やベアリング兄弟もこの系譜に連なる。

貨幣とか紙幣のかわりに商人や銀行家が発行する手形などの信用手段が発展していった。これが外国為替のはじまりである。

君主の定める伝統的な公的通貨、すなわち政府公認の発行物として刻印が押される硬貨のほかに、私的通貨、すなわち商人や銀行家のあいだの取引で支払いに使える信用手段が、ともに貨幣として流通していたのである。現代の世界でも同じだ。紙幣で支払うかわりにもっぱら小切手を切ることで商売が成り立っているということは、つまり私的通貨が機能しているのである。このやり方が最初に発達したのが、十五世紀から十六世紀だった。為替手形の使用が普及して、見本市の場での取引業務が処理されるようになり、外国為替の取引がその主要な活動になっていった時代である。

こうして、金の価値自体は変わらないが、金貨の流通は減り、金塊はきわめて大規模な取引を処理するときか、ヨーロッパの輸入超過による極東との貿易差額を埋めるときにしか使われなくなっていった。
●金はヨーロッパからアジアに流れ、貯めこまれた(11章)【1600年代〜1700年代】
新世界からヨーロッパに運ばれた金銀は、わずかな期間しかヨーロッパに留まらず、東方のアジアへ移動し続けた。その流通量は1600年〜1703年にかけてアメリカ大陸からヨーロッパに輸入された総量を超えていた。香辛料を運ぶ対価として、1600年東インド会社が創立されてからの25年間に、東洋に運ばれた全貨物の75%は金塊であった。

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東インド会社

なぜこんなにもアジアへ金が流出したかというと、ヨーロッパ人は長年にわたってアジアの産物(香辛料、蚕、織物、茶、陶磁器)を求めた。それが贅沢品としてのステータス・シンボルであったからである。
ヒュームの理論「ある地域から他の地域へ貨幣が移動しても本質的にそれを維持することはできず、必ず逆流がこる。液体と同じく適量を超えて貨幣を蓄積するのは不可能である」に反して、中国・インド・日本では貴金属が蓄積された。
アジア人は金を所有することに喜びを見出していた。たとえば、マルコ・ポーロによればモンゴル帝国のフビライハンの宮廷、首府ボーチャンの男の歯、日本の国王の宮殿などは驚くほど贅沢に金で装飾されていた。中国・インド・日本では金は支払いの手段として手放すよりも、手元に取っておく方がよい(蓄財の手段)と考えられていたのだ。
ヨーロッパでは金を貨幣として扱い大衆の間にも金貨が広まったが、アジア(の支配者)では金を非常に重視した為に、下賤の者の間に流通させることをしなかった。地位ある者の権力が弱まってしまうから、がその理由であった。
16〜17世紀では1人当りの平均財産はヨーロッパとアジアはほぼ等しかったが、アジアでは貧富の差がはるかに激しかった。特権階級の数はごく少なく絶大な権力を振るっていた。
ちなみに、アジアにはもう1つ特筆すべき歴史がある。秦から約1000年後、唐の憲宗(在位806〜821年)の治下で銅が著しく不足して銅銭の替わりに紙の貨幣を使うことにした。「役に立たないものでよいなら・・・」という偶然の選択による。世界で初めて紙幣を発明したのが中国である。
次回は、1700年代〜1800年代の貨幣大改鋳・イングランド銀行の設立・金本位制の確立といったイギリスにおける近代の貨幣制度が確立される様子を見ていきます。

List    投稿者 mihori | 2010-10-10 | Posted in 06.現物市場の舞台裏, 08.金融資本家の戦略1 Comment » 

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コメント1件

 wholesale bags | 2014.02.10 14:44

金貸しは、国家を相手に金を貸す | 金融資本主義の崩壊、その実相追求 1.中小国家のデフォルトと日本の資金供出

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