金貸しによる洗脳教育史④〜数万人に1人の天才を発掘するエリート教育の起こり
前々回記事、前回記事では、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立から、聖書解釈(=神学)あるいはローマ法解釈(=法学)を通じて、各々の権力を正当化する「詭弁能力」を磨くために大学(ボローニャ大・パリ大)が成立した事、そして、大学人とは初めから、最高権力者によって手厚く保護された特権階級だった事を明らかにした。
その後、パリ大の流れを汲むオックスフォード大(1167英)、ケンブリッジ大(1209英)、ボローニャ大の流れを汲むモンペリエ大(1289仏)などが誕生。これらを含め、13世紀までに欧州につくられた9大学は「ストゥディウム・ゲネラーレ」と呼ばれ、神聖ローマ帝国の優秀な学者を集めた学究組織として、初期のボローニャ大・パリ大を上回る特権を与えられた。
さらに、14世紀にはイタリアを中心に14の大学が、15世紀までには現在の欧州の主要大学がほぼ設置され、聖職者や高級官僚への登竜門としての地位を確立した。
今回は、15世紀の英国で創設され、オックスフォード、ケンブリッジを超えるエリート校となった「イートン・カレッジ」を中心に見ていく。
●現代のグローバル・エリート校
現在、13歳〜18歳の少年を教育する英国の私立学校の中で、トップ10%を構成する10数校は「パブリックスクール」と呼ばれるが、その中でもエリート中のエリートが通うのがイートン校。卒業後は大半がオックスフォード、ケンブリッジへ進学する。
卒業生には、英王室のウィリアム王子、ヘンリー王子、デヴィッド・キャメロン(英首相)、ボリス・ジョンソン(ロンドン市長)、ジョージ・オズボーン(財務相)、ジャスティン・ウェルビー(英国国教会最高位)らが名を連ねる。歴代英国首相の26%=19人を輩出し、王族・政治家以外にも、ジョージ・オーウェル(小説家)、ケインズ(経済学者)、そして、ロスチャイルド家の現当主ジェイコブ、次期当主が噂されるナサニエル(ナット)もイートン校出身である。
そして、イートン校〜ケンブリッジ大には、米イエール大の「スカル&ボーンズ」に相当する「ブリンドン・クラブ」というサークルが存在する。上記メンバーの多くはブリンドン・クラブ出身である。
Bullingdon Clubのメンバーは、どんなに社会に迷惑をかけるような行いをして警察に連行されるような事態になったとしても、彼らの「超エリートの家系出身」というバックグラウンドが印籠となって全てが穏便に片付けられてしまう、といわれています。 誰一人として社会的な責任などとらされずに済んでしまうのです。
歴代のBullingdon Clubの面子を見れば分かるように、国政、法曹、金融、外交、etc といったあらゆる分野の要所要職に「特別な仲間」がポジションを構えているので、外部の人間はその独特な輪の中になかなか入って行くことが難しく、閉鎖的な環境が出来あがってしまっている、と批判されることもしばしばあります。
(【グローバル・エリートへの登竜門?? 悪名高きBullindon Club】より)
大まかに言えば、イギリスのエリートはオックスフォードやケンブリッジ出身だからエリートなのではない。パブリックスクール出身だからこそエリートなのだ
(「大学前」で決まる超・学歴社会より)
現代、完全にグローバル・エリートの「インナー・サークル」の一つとなったイートン・カレッジは、どのような時代背景のもとに誕生したのだろうか。
●英国王が創設した奨学制度
イートン校の誕生は1440年。当時英国は、1337年から続いてきた英仏百年戦争、さらに1347年から30年に亘り大流行し、欧州の人口を半減させたペストによって聖職者不足に悩まされていた。中世は聖職者が要職の大勢を占め、王に使える官吏も、その多くは聖職者だった。
聖書はラテン語で書かれており、聖職者はラテン語が使えなければならない。そこで英国は、ラテン語を教える「グラマー(=文法)・スクール」を増設した。15世紀の英国には、約300のグラマー・スクールがあったが、その中で、英国全土から広く生徒を集める全寮制の「パブリック・スクール」が登場した。
イートン校は、英国で2番目のパブリック・スクールである(1番目は1382年設立のウィンチェスター校)。創設者は当時の国王ヘンリー6世。
イートン校の創設目的は、英国全土から下級階層の秀才70人を集め、英才教育を施すことであり、彼らの学費は王により全額免除された。さらにイートン校設立の翌年、ヘンリー6世は卒業生たちの進学先として、ケンブリッジ大にも学費免除のカレッジ(King’s college)をつくった。
つまり、国王による優秀生奨学生制度である。
この奨学生制度は現在のイートン校にも受け継がれており、選ばれた70名(1学年14名)の生徒は「王の学徒(King’s scholar)」と呼ばれる。彼らは、カレッジの中心にある特別寮に住み、王の学徒の証として黒のガウンを着用し、毎日、教授らとともに三ッ星レストラン並の食事をとると言われる。
英国全土から、しかもたった70人の奨学生をどのように選抜していたのだろうか。
当時の選抜方式についての記録は残っていないが、現在、「王の学徒」になるための選抜試験では、次のような問題が出題されている。
“(問1) 軍の出動により反乱者25名が死亡した。貴方は首相である。凶暴な反乱者を鎮圧する為になぜ軍が必要だったのか、遂行した選択がいかに倫理的な判断であり、唯一の手段であったのか説明せよ。”
(こちらより)
いわば、11〜12歳の男子に対する「帝王学の試験」である。おそらく創設当時も、国王の優秀な官吏になりうる能力を持つ天才たちが英国全土から選び抜かれ、イートン校に集められていたのだろうと推測される。
●「数万人に1人の天才」を発掘・養成する手法の起こり
貧しい少年のための英才教育校としてスタートしたイートン校は、その後、時代が下るにつれて現在のような支配階級の人間が大半を占める学校に変貌してゆく。
パブリック・スクールとは本来は地元の貧しい英才を無償で教育するのが目的でしたが、全国各地から高い授業料を支払ってやってくる金持ちの子弟の数が増え、やがて比率が逆転すると、地元優先枠はともかく、給費生からも実費くらいは取るべきだということになったようです。19世紀の後半になると、給費生への差別待遇はどんどん進んで、やがては別の学校を作ってそちらに移ってもらい、奨学金も経済状態中心から成績本位に変わり、支配者階級のエリート養成機関となっていきます。
(「英国の学校の歴史」より
この結果、突出した才能を持つ一握りの人間だけが下流・中流階層から抜擢され、その他多くを占める支配階級のサークルに組み込まれる構造が出来上がったのである。これは、「数万人に1人の天才を発掘・養成・懐柔する」という、現代の「フルブライト留学制度」や「ローズ奨学金」にも見られる金貸し支配の仕組みの原型とも言えるものだ。
英国から地中海へ目を転じれば、イートン校創設から数十年後の16世紀イタリアで、形を変えてこの方法論が登場している。即ち、メディチ家をはじめとする新興の支配階級が、ボッティチェリやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロといった天才を発掘、そのパトロンとなってイタリア・ルネサンスを牽引し、卓越した芸術作品の訴求力によって彼らの権力を磐石にするとともに、恋愛観念をはじめとして、その後の宗教改革〜市場拡大の基盤となる思想を欧州に浸透させていった。
(当ブログ記事参照)
イートン校とルネサンス。この2つにはおそらく直接の因果関係はない。しかし、ほぼ同じ時代に、全く異なる場所で「数万人に一人の才能を発掘・養成する」共通の方法論が登場したことには、何らかの必然性があったと考えられる。
ローマ帝国滅亡以降の中世ヨーロッパでは、様々な国家が盛衰を繰り返しながらも、全体をカトリックという支配観念が覆っていた。しかし、次第に商人たちが活動の場を広げ欧州域内市場が拡大してゆく中で、この支配観念が「枷」になってきた。支配観念を崩すには、それを超える観念共認が必要になる。その力となったのが、知識あるいは弁舌といった観念能力・詭弁能力であり、大衆的には視覚に訴える絵画や彫刻だったのではないか。前々回記事で見たローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立による大学の誕生とは、カトリックという旧支配観念に綻びが生じ始めたことを意味する。
そして、こうした能力は、高い身分や豊かな財力を持つ身に宿るとは限らない。この事に顕在的あるいは潜在的に気づいた新興勢力が始めたのが、身分や財力など自らが既に持つ力を駆使して稀有な能力を持つ才人を発掘し、自分たちの勢力に取り込むという方法論だったと考えられる。
即ち、「観念支配⇒観念闘争の必要性」が初めて支配階級の間で顕在化したのがこの時代であり、これを突出した能力者の獲得という点で先鋭化させたのが、イートン校の奨学制度やルネサンスのパトロネージだったのではないだろうか。
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ルネサンスにより加速された思想・価値観の転換と市場拡大の流れは、15世紀半ばからの大航海時代と16世紀の宗教改革を導き、中世カトリック世界を弱体化させていった。
英国に及んだ宗教改革は、教会においても教皇ではなく国王を最高位とする英国国教会を生み出し、さらに過激な反カトリック運動を展開した清教徒たちは、自由な新天地を求めて米国へ渡った。後にWASP(White Angro-Saxon Protestant=東部エスタブリッシュメント)と呼ばれる彼らが最初に行ったことも、この新天地に大学をつくることだった。
次回は、現代の金貸しの巣窟とも言えるイエール、ハーバードをはじめ、米国独立前後のアイビー・リーグ創立の過程を取り上げる。
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