2012-05-13

近代市場の成立過程(5)〜ルネサンス:金貸しによる恋愛観念の布教

(2)近代市場の誕生前夜・富豪の台頭
(3)ルネサンスの先駆者ダンテが金貸したちにもたらしたものは…
(4)メディチ家はなぜ栄えたか?
 
15世紀にフィレンツエで最盛期を迎えたメディチ家は、現代も名の残る多くの芸術家のパトロンとなり、イタリア・ルネサンスの芸術文化を大きく開花させてゆきます。ルネサンスはやがて、フランスやイギリスへと広がってゆきます。
 
なぜ、この時代に、フィレンツェを皮切りにルネサンス文化が起こったのか、その必然性とはなんだったのでしょうか。そして、これらの動きは、近代市場が形成されていく上で、どのような意識変化をヨーロッパの人々にもたらしたのでしょうか。
 
今回は、私たちにも馴染みのあるルネサンス芸術と近代市場の関係について考えます。

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●なぜ商人は芸術家たちのパトロンとなったか
前回紹介したメディチ家をはじめ、ルネサンス芸術の勃興は、フィレンツェで名を成した富豪たちや、アルテと呼ばれる商人組合のパトロネージによるものでした。
 
イタリア・ルネサンスの主要なパトロン(画像はこちら他より)左から
ロレンツォ・イル・マニーフィコ(ロレンツォ・デ・メディチ 1449 – 1492)、
ローマ教皇ユリウス2世(本名ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ 1443-1513)、
ローマ教皇レオ10世(本名ジョヴァンニ・デ・メディチ 1472-1521)

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この3人(うち2人はメディチ家)だけで、ルネサンス3大天才と呼ばれるダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの面倒を見ています(上の絵のうち右2つはラファエロが書いた肖像画)。なぜ彼らは、芸術家を保護し活躍の場を与えたのでしょう。
 
 
一つは、富の誇示です。

これは個人に関してというよりは、同業者組合同士にみられる傾向です。事実、聖堂の壁面に飾る聖人の像の高さを数センチ単位で競ったりしていました。こちらより

もう一つは、政治的な目的です。前回記事にあったように、フィレンツェでは共和制が敷かれていたため、政治権力を獲得する上で市民の支持をそれなりに集める必要がありました。そのための公的な建築物や壁画、広場などに資金を提供して、フィレンツェの街をつくっていったのです。フィレンツェは商人と金貸しの街なので、ここでいう「市民」とは、主に金貸しや商人、その組合ということになります。

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ミケランジェロの設計したローマ・カンピドリオ広場

「フィレンツェ的コムーネの「自由」の中身は「独立」と「共和」であったが、いずれも市民の参政化を要請していた。この場合、「市民」とは今日のそれではない。フィレンツェのコムーネ的共和主義の思想は、「資格ある市民」に支えられる共和政治の実現であり、封建領主、聖職者、下請け労働者とは区分される「主人持ちでない自主独立の、いわば起業家」市民によって担われる政府を理想としていた。なんとならば、「資格ある市民」こそが都市の意思決定に責任を負える立場にあるとされていたから。
 この住民の自治をモットーにした「コムーネ」の思想が、フランス革命の時代に移植され、「コミューン」となる。
れんだいこの人生学院より

 
●パトロン=発注者であり、ルネサンス作品はパトロンのもの
この時代のパトロンは、現代の感覚とは少し違っています。芸術家たちの作品が彼らの自由な創作物で、好事家のパトロンがこれを購入する形で支援するのではなく、パトロン=クライアント(発注者)でした。彼らの発注与件に従って絵画や彫刻、建築を製作するのが、多くのルネサンス芸術家でした。世界的に有名なダ・ヴィンチの「最後の晩餐」にしても、大きさやテーマも含め、ミラノの名家からの注文で書かれたものです。

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ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」
 
作品の発注には、絵画に描かれる人数、使われる材料や技術に対して細かく値段が決められ、契約が結ばれていたそうです。つまり、ルネサンス芸術のテーマや表現は、芸術家自身のものではなく、主要にはパトロンの意識や欠乏を反映したものだと言えます。
 
ルネサンスの芸術家たちは、芸術家というより、パトロンたちの意識や思想を忠実かつ最高のレベルで表現する天才的職人だった、という方が近いでしょう。
 
では、当時のパトロン=金貸したちの意識・思想とはなんだったのでしょう。
 
●ルネサンスの思想〜人文主義と恋愛観念
イタリア・ルネサンスの一つの動きとして、コジモ・メディチが設立した「プラトン・アカデミー」という私的なサークルが知られています。

プラトン・アカデミーはフィチーノを中心に、ランディーノ、ポリツィアーノ、ピコら多くの人文主義者が集い、メディチ家のロレンツォも加わって、プラトンの対話篇さながらに愛や美を巡る知的な討論を行った。異教的な思想が育まれ、ボッティチェッリの「春」「ヴィーナスの誕生」もこれらの知的風土の中に生まれた作品である。
ウィキペディアより

「人文主義者」とは、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した知識人のこと。彼らもまた、ダ・ヴィンチやラファエロと同様、メディチ家にパトロネージを受けた人間たちです。従って、おそらく彼ら人文主義者たちも、彼ら自身が自由に思索・理論追求をするというよりも、パトロンの思念を知的に言語化・体系化する役割を担っていたのでしょう。ラファエロらがパトロンに仕える造形・美術の天才的職人であるのに対して、人文主義者はパトロンに仕える観念・言論の天才的職人だったということです。
 
 
【ボッティチェリ『春』の解釈】
プラトン・アカデミーでのパトロンと知識人の討論から生まれたとされるボッティチェリの「春」は、現代では次のような含意があると考えられています。 
 


ここには、中央のヴィーナスのほか、愛欲的な女神や禁欲的な女神が描かれていますが、いくら禁欲的な女神が拒否しても、西風(右)に吹かれたりキューピッドに射られて春が訪れてしまう、という表現しています、ということ。詳しくは、るいネットを参照。
 
【シモネッタ・ヴェスプッチ】
もう一つ、イタリア・ルネサンスの恋愛観念を象徴する存在が、フィレンツェ一の美女と言われたシモネッタ・ヴェスプッチという女性です。人妻でありながら、ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリーノの愛人であり、ロレンツォ自身も彼女に惹かれていたということ。そして、ボッティチェリ、ピエロ・ディ・コジモ、そして女嫌いと言われていたダ・ヴィンチまで含め、ルネサンスの名だたる芸術家たちがシモネッタをモデルに、あるいはその肖像画を描き、後世に残しています。
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ボッティチェリ(左)・ダ・ヴィンチ(中)による肖像画(右)「ヴィーナスの誕生」のモデルでもある

 
シモネッタは23歳で肺結核にかかり夭折しますが、ロレンツォ・デ・メディチは、彼女の葬儀の様子をこのように語っています。

「フィレンツェ市民は驚愕に包まれていた。
何故なら、彼女の死顔の美しさは、生前のそれを超越していたからだ。
彼女を前にすれば、死もまた美しい・・・」


ルネサンスとは、莫大な富を蓄えた商人・金貸しが、その資金によって何万人に一人の天才を集め、恋愛観念とそれを正当化する思想を欧州全域に広めた時代だと言えます。
 
これは、まず、芸術家・知識人・建築家といった知的エリート(茶坊主)という存在にお墨付きを与えました。そして、彼らにつくらせたルネサンス作品を通じて、快美欠乏が欧州の人間たちの間に広がり、性市場→商品市場をさらに拡大する原動力となってゆきました。これが、羅針盤や印刷技術といった技術開発(※技術そのものは既に中国etcにあり、実用化したのがルネサンス)とあいまって、大航海時代に繋がったと考えられます。
 
さらに、ルネサンス芸術は教会美術を扱うなどいまだ力を持っていた教会勢力と共存を図りながらも、人文主義者らが構築した正当化の論理とセットになった異教的な作品や思想を世に送り出すことで、少しずつ教会の思想的権威を弱体化させていったのです。こちらは、数十年後に訪れる宗教改革の種を育んでゆきました。そしてこれらは全て、パトロン=商人・金貸し勢力の力をさらに強めることに貢献したのです。
 
次回は、ダヴィンチとも親交を持ち、フィレンツェの王を目指したロレンツォ・デ・メディチに捧げた「君主論」の作者マキャベリと、その思想の影響を扱います。

List    投稿者 s.tanaka | 2012-05-13 | Posted in 08.金融資本家の戦略No Comments » 

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