ゴールドの真相に迫る−9 ゴールドの歴史(5)〜ゴールドラッシュ時代からヨーロッパ・アメリカの金本位制度確立まで〜
前回記事では、イギリスにおける経済の行き詰まりを背景に、1700年代〜1800年代の貨幣大改鋳・イングランド銀行の設立・金本位制の確立といったイギリスにおける近代の貨幣制度が確立される様子を、ピーター・バーンスタイン著『ゴールド—金と人間の文明史』12〜13章より紹介した。
今回は、1800〜1900年代のゴールドラッシュからアメリカでの金本位制の確立までを同書14〜16章より紹介していく。
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●十九世紀のゴールドラッシュ(第14章) (1800年代〜1900年代)
スペイン人による新世界での金の発見により、1700年までに、世界の貴金属の総貯蔵量は、1492年における5倍になっていた。さらにポルトガル人によるブラジルでの金の発見により、生産高は18世紀に再び2倍になった。
十九世紀に、各地でゴールドラッシュが起こり、金の生産高が今まで以上に急激に伸びた。
カリフォルニア、オーストラリア、シベリアで採掘が順調に進んだため、世界の金だけの総産出量は、一八五九年までに年間で二七五トンになった。十八世紀の年間平均産出量の一〇倍以上である。そうなると、一〇年間で産出される金の総量は、コロンブスによる「新大陸発見」から一八四八年までの三五六年間に、あらゆる供給源から産出された金の量に匹敵していた。世紀の変わり目に、クロンダイク、コロラド、南アフリカで金の採掘が本格化するのはそのあとのことだった。一九〇八年までに、世界の金の産出量は、一八四八年の一〇〇倍以上、つい二〇年前の四・五倍の水準に達していた。
ゴールドラッシュ (この写真はこちらからお借りしました)
この新たな金の供給により、金本位制が採用されていく。
この一八〇〇年代に新たな金が大量に供給されたことによって、世界の貨幣制度で金が銀にたいしてついに支配的な地位を占めるようになった。一九〇〇年までには、ほぼあらゆる地域で金本位制が採用されていた。多くの国ぐにで、小銭での取引を除いて、銀は本位貨幣の資格を失った(貨幣として受け入れられなかった)のである。
●「ヨーロッパの金本位制への移行」(15章) (1800年代〜1900年代)
ゴールドラッシュによる金の供給量の増加を経て、一旦金の価値は減少する、しかし、それを超える巨大な銀の鉱脈がネヴァダ州で発見された事も相まって、金の価値は上昇。世界中が金を求めるようになる。そんな中でも、外国貿易において経済的な主導権を握っていたイギリスは既に金本位制に移行していた為、他の国々も本格的に金本位制への移行を検討し始めた。
金本位制を採用した国家のグループは、一種の協同組合へと発展したーーそれは羨望に値する排他的な集団で、その成員は世界から押し付けられる危険や不安定的要因を排除するため、国境を越えて互いに助け合った。
そして、金があらゆる貨幣価格を依拠する物差しとなる事によって、金地金は、国内通貨の価値と外国為替レートの両方を実際に調整する役割を果たすようになる。こうして各国の中央銀行は互いに助け合うようになり、時には民間の大きな金融機関とも助け合って、投機、過剰投資、過当競争などの危険を回避する事が出来るようになり、金本位制から脱却する事すら出来なくなっていく。
こうした援助はすべて、ひとつの前提にもとづいていた。固定比率による金との交換を維持することが経済政策の基本原則であるという前提である。それは、他のあらゆる事柄に優先されなければならなかった。その前提が無ければ、金本位制をとる国々が互いに提供しあう貸付金はずっとすくなかったはずだ。また、そのときにずっと多くの煩わしい条件が付けられた事だろう
こうして国内経済の安定と高い雇用率を達成する為に、金と自国通貨との固定比率を維持しないといけない金本位制度の元、金融情勢が周期的に混乱したにも関わらず、南北戦争が終わってから第一次世界大戦が勃発するまでのあいだ、アメリカでもヨーロッパでも目覚しい経済成長と工業化が実現した。
●アメリカ合衆国の金本位制への移行(第16章) (1800〜1900年代)
19世紀のアメリカは今日の「金融大国」とはかけ離れたものであった。アメリカが金本位制に移行するのは1900年、中央銀行を設立して世界の仲間入りを果たすのは1913年になってからである。
それまでは複本位制をとっており、金と銀は同じ地位にあった。西部の州では銀鉱業が最も重要な経済活動であった。銀は金とともに本位貨幣の役割を担う実用的な候補にとどまらず、既存権力に対する普通の人の戦いの重要なシンボルだったのである。
南北戦争 (写真はこちらからお借りしました)
1861年に南北戦争が勃発して金の保有高が減った為に、連邦議会はドルの金との兌換を停止した。政府は戦費を補う為に紙幣(グリーンバック)を発行した。(※グリーンバックは法定貨幣であったが何とも兌換できなかった)戦争により、流通している金貨は1860年に2億ドル以上、1865年に1億5000万ドル、1875年に6500万ドルまで減り続けた。
1873年「貨幣鋳造法案」が可決される。しかしこの法令には1ドル銀貨には触れられておらず、銀については補助的な役割を果たす小額面の銀貨のみであった。つまり、アメリカにおける複本位制の法律上の地位が崩れてしまった。そして貨幣供給量が、急速に増大する生産量に追い付かず、卸売物価は1878年までに30%下落し、株価もそれにひきずられた。
上院議員のウィリアム・シュチュアートは、銀の本位貨幣としての資格を失わせたことを「19世紀の犯罪」と評した。彼の政敵の1人である上院議員のジョン・リーガンはこの論点をさらに推し進めた。これらの事件の裏には「合衆国とヨーロッパの国民の幸福に対する立法府による最大の犯罪と途方もない陰謀が潜んでいた。この時代、あるいは他のいかなる時代もその目撃者である」と断言したのだ
1875年、連邦議会は1879年1月1日までに貨幣の金への兌換を完全に回復させる法律を可決した。(正貨兌換復帰法)その後、ペンシルベニア州での新しい油井の発見やヨーロッパでの農作物の不作など、アメリカにとってプラス側の要素もあったが、ロンドンでのベアリング危機、シャーマン銀購入法の成立(1890年)などが響いて貨幣流出量が増大し、赤字へ転落していく。
1893年には相次ぐ企業や銀行の倒産で失業者数が一気に増大し、数千人の失業者の暴動、ストライキが起こる。財政面でも歳出超過が続き、金準備は急速に減少していった。
労働者の暴動 (写真はこちらからお借りしました)
1894年2月に財務省長官のジョン・カーライルは金による買取を要件とする高利率の新債権を発行するが効果は薄く、1894年10月分の赤字は1300万ドルに膨れ上がり、金準備は5200万ドルまで落ち込んだ。さらに、1895年1月、2600万ドル相当の金がアメリカから輸出され、4500万ドル相当の金が法定貨幣の兌換の為に財務省から引き出された。財務省の金準備は4000万ドルに近づきつつあり、1日に200万ドルの割合で減少していた。
このような危機的状況の中で、クリーヴランド大統領はヨーロッパの資本家に助けを求めた。ニューヨークのモルガン銀行のヨーロッパ支店であるJ・S・モルガン商会、ニューヨークにおけるロスチャイルド家の代理人であるオーガスト・ベルモント・ジュニア、J・ピアモント・モルガンがアメリカ政府によるヨーロッパでの債権発行事業に協力した。
J・ピアモント・モルガン 写真はこちらからお借りしました
アメリカ政府の金庫室には900万ドル分の金貨しか残っていなかったが、J・ピアモント・モルガンは6500万ドルのアメリカ財務省長期債権をヨーロッパの引き受け団(モルガンとロスチャイルドで構成)に買い取らせる。支払いは約350万オンス(約100トン)の金貨でなされた。
まもなく月に500万ドル分の金がヨーロッパからアメリカ財務省に届くようになり、金準備高は1億800万ドルまで回復した。1890年代末までに物価は10%あまり上昇し、1896年2月に財務省が1億ドルの国債を一般市場で売り出すと総額で5億6800万ドルという大きな値がついた。
ニューヨーク商工会議所は次のように決議した。
この国債の成功によって、合衆国政府の財政状態に関するあらゆる疑念が払拭された。政府にはすべての負債を世界最高の貨幣で返済する能力と意思がある。
1896年、アメリカ歴史上で唯一の「貨幣制度」が争点となった大統領選挙が行われる。結果は、金単本位制を擁護する共和党マッキンリーが複本位制を擁護する民主党ブライアンを大差で破った。こうして1900年には金本位制へ移行していく。
次回は、第一次世界大戦による金本位制の崩壊、世界大恐慌、第二次世界大戦を経てブレトン・ウッズ体制が確立するまでの本書17、18章を紹介する。
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