2014-03-04

【幕末維新の代理人14】倒幕への道 〜テロ長州藩と過激派公家がつながった

 これまで数々の金貸し維新の代理人(おもに個別人物代理人評価)に焦点を当ててきました。ここで視点を変えて、なぜ明治維新から金貸し支配になっていったのかを捉え直すために、人物に視点をあてるというよりも人繋がりや主義主張などを構造的に捉え直してはどうかと考えました。
 たとえば、金貸し支配を防ぐなら、倒幕という内乱などしてる場合ではなく、公武合体をより進め、攘夷を真っ先に行うべきだったはずです。しかし歴史は倒幕を優先させることになりました。これは倒幕派長州藩と薩摩藩、幕府(水戸藩)、公家たちが、内乱を起こして倒幕への流れを作り、金貸したちの計略どおりの行動を起こすことで金貸し維新の代理人となっていったのではないかと推測しました。今後、それらの経緯を数回に分けて解明していきたいと思います。
 今回はその第1回として長州藩が伝統的勤王派であったということで孝明天皇の考えにそって攘夷派だった時期からテロ行為を行って倒幕派になっていく過程を特集したいと思います。

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【長州藩は徳川幕府に騙され恨みを持つことになった】
ウィキペディア「長州藩」
長州藩祖・毛利輝元 〜長州の怨念、が積み上げられてきた背景から一部引用

 藩主の毛利氏は大江広元の4男を祖とする一族。戦国時代に安芸に土着していた分家から毛利元就が出ると一代にして国人領主から戦国大名に脱皮、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十国と北九州の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。
 元就の孫の毛利輝元は豊臣秀吉に仕え、安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐の120万5000石を安堵(石見銀山50万石相当、また以前の検地では厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)され、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島に移す。秀吉の晩年には五大老に推され、関ヶ原の合戦では西軍石田三成方の名目上の総大将として担ぎ出され大坂城西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。
 ところが戦後家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の秀就に周防・長門2国を与えることとした。周防・長門2国は慶長5年の検地によれば29万8480石で、120万5000石から一気に1/4になったのでした。家康の騙し討ちにあったようなもので、徳川幕府に対して恨みを持つことになりました。

 萩城では毎年正月になると、秘密の儀式が行われていたといいます。
「殿、今年は関東を討ちますか?」
「いや、まだその時期ではあるまい」
元旦、大広間でお雑煮の式などがおわると、藩主と譜代の家臣21人が小座敷に入り、質素な膳を共にしました。服装は平服半袴で、「割雁の式(雁の包丁)」が執り行われました。毛利家創業の苦労を忘れないために続けられたようですが、上記のような会話が本当にあったのだとしたら、「いつの日か関が原の恨みを——」という毛利家主従の怨念がいかに強かったかという表れでしょう。

【長州藩は伝統的に勤王だった】
「幕末の歴史をつくった 長州藩と水戸藩 奇跡の点と線」から紹介(一部省略)します。

水戸藩(35万石)は、二代藩主徳川光圀(水戸黄門で知られる)が「大日本史」の編纂に着手し、以後250年の歳月をかけて明治39年(1906)に全37巻を完成させました。水戸ではこの大編纂事業によって天皇家への忠誠心が培われ、尊王の思想が育まれていったのです。これに幕末の攘夷思想が加わって「水戸学」とも言われます。
一方、毛利氏の長州藩(36.9万石)ですが、この藩も幕末に突然『尊王』になったわけではありません。毛利氏の祖を鎌倉時代まで遡りますと大江広元(1148〜1225)に行き当たります。実は大江氏は武家ではなく、学問をもって京都の朝廷に仕えていました。源頼朝が政治顧問として広元を招いたとき、腐敗した貴族政治に失望していた広元は鎌倉にくだり、公文所(のちの政所)別当となり、草創期の鎌倉幕府の政治・行政面の整備に功績をあげました。
 大江氏は天穂日命の子孫とされ、姓は野見、土師、大枝と変わり、28代音人(阿呆親王の王子、平城天皇の孫とされる)のときに大枝を大江に改めました。音人から代々朝廷に学問や文芸で仕え、学者や名歌人(大江匡衝・赤染衛門夫妻など)を輩出し、「江家」と呼ばれました。広元は匡衝の曾孫にあたります。したがって、毛利氏は家系は神別、血筋は皇別と伝えています。
 そのため毛利氏は江戸時代に入ってからも、朝廷に対して年末・年始などの貢献を絶やすことはなかったのです。幕府は諸大名が朝廷と直接関係をもつことを禁じていましたが、毛利氏に対しては旧来の関係を認めて、伝奏を勧修寺家が務めることを許可しました。また、参勤の途上に京都に入って有栖川宮、鷹司、近衛などの諸卿を訪問することも黙認しました。幕府も毛利氏の血統を配慮したのでしょうか。朝廷との特殊な関係を認めざるを得なかったのでしょう。 
こうしてみてくると、長州藩の「勤王」は一朝一夕に生じたものではないことがわかります。長州藩士が水戸藩の尊王思想に惹かれたのも当然のことと思えますし、水戸藩の尊攘派が盟約の相手として長州藩に目をつけたのも納得がいくのです。また、幕府と対立した朝廷が攘夷の実行について、とりわけこの二藩に頼ったことも頷けるでしょう。

【七卿落ち 〜テロ長州とつながっていた七卿】
 1863年(文久3年)、薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変(薩摩藩・会津藩などが中心となった公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件)で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都を追放され、長州藩へと落ち延びました。なお、7名のうち、公卿の列にあるのは、三条実美と三条西季知の両名だけ(どちらも藤原一族、残りの5名は家臣)であることから、二卿五朝臣といった言い方もあります。その後、錦小路頼徳は1864年(元治元年)に病没、澤宣嘉は生野の変で挙兵したのちに脱出して四国伊予小松藩周辺に匿われた後、長州に脱出、残る五卿は第一次長州征伐の後に筑前国太宰府(現・福岡県太宰府市)に移された。1867年(慶応3年)12月、王政復古の大号令の前夜、朝議にて赦免され、官位や諱が復されると、澤宣嘉は外務卿、三条実美は太政大臣や内大臣、三条季知は参与や神宮祭主、東久世道禧は枢密院副議長や貴族院副議長となるなど、それぞれ明治政府の要職に就きました。
 明治維新前に藤原氏一族が公家として長州藩とともに日本を守ること(攘夷・公武合体)よりも、実権を握ること(倒幕)を優先させた繋がり始めが1863年の八月十八日の政変のころで、長州に逃げた、三条実美(藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつ・三条家の生まれ)と三条西季知(藤原北家閑院流嫡流転法輪三条家の分家である正親町三条家の分家)の両名(どちらも藤原一族、七卿落ちのうちの2名)がはじまりだった可能性があります。
【第一次長州征伐後:長州藩は攘夷派になる】
 禁門の変(前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件)により長州藩は朝敵となり第一次長州征伐が行われ、三家老(国司親相・益田親施・福原元?)が切腹し、藩政の実権は椋梨藤太の俗論派が握ることとなりました。俗論派は長州正義派に対して厳しく粛清を行い、周布政之助に切腹させ、井上聞多を襲撃し重傷を負わせます。さらに俗論派は功山寺に潜居していた五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)を太宰府に移送することで志士の後ろ盾を完全に廃し、志士狩りを強化しようとしました。
 当時の長州の藩論の主体は「攘夷」であり、長州の外国船の打ち払い(下関戦争:幕末に長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、1863年と1864年の二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件)はこれが実行された訳でした。この長州藩の考えていた事は、漁業を妨害する外国船を打ち払い、攘夷を唱えていた孝明天皇の信を得ようという、自衛と忠誠心(純粋な勤王だったとも言える)でした。従ってこの時点での長州は「倒幕」ではなかったのです。
【元治の内乱(功山寺挙兵):ここから長州藩は攘夷から倒幕に変わった】
 長州藩は当初は攘夷思想で、日本のために外国を討つという考え方でした。しかしそれが倒幕をして政権を握ることを第1にすると転換したのが元治の内乱(山寺挙兵)です。
 そこで活躍したのが高杉晋作と伊藤俊輔(伊藤博文)でした。そして公家である五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)が裏でつながっていました。
 功山寺挙兵(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター。回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争が元治の内乱です。
 後に大田・絵堂の戦いで俗論派の藩の正規軍と対峙し、反乱軍がこれを破ったことで、長州藩論は倒幕に統一(正規軍が一掃されテロ長州派が長州藩を掌握、二卿も復帰)されました。
【尊皇=倒幕  〜過激派テログループの自分らが日本の政権を握る野望と、幕府を倒して公家の時代を到来させたい過激公家たちが結託して掲げたスローガン】
るいネット「明治からの日本は日本では無い(3)」から紹介します。

 一方、高杉晋作ら過激派テログループの悲願は「倒幕」。つまり攘夷なんかよりも、自分らが日本の政権を握ることに野心を燃やしていた。いわば、高杉ら過激派の活動は、攘夷の邪魔にこそなれ、長州藩の思惑とはまったく関係のないところで動いていたわけである。だからこそ、長州正規軍と高杉率いる奇兵隊は相容れず仲が悪い。それは同年に起きた「教法寺事件」で、奇兵隊が長州正規軍を襲撃したことで表れている。
 これも、そういった実情を考えれば不思議なことではない。この過激派テログループの自分らが日本の政権を握る野望と、幕府を倒して公家の時代を到来させたい過激公家たちが結託して掲げたスローガンが「尊皇=倒幕」である。いつの時代でも、世情不穏になるとその黒幕になって国家転覆を企むのは公家の伝統行事みたいなものである。
 こうして過激派テログループや倒幕派公家たちの陰謀によって攘夷運動がいつの間にやら尊皇(倒幕)思想に巻き込まれていき、京都に長州や各地のテロリストたちが結集、「天誅」の名の下に攘夷テロの嵐が吹き荒れることになる。

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 金貸し支配を防ぐなら、倒幕という内乱などしてる場合ではなく、公武合体をより進め、攘夷を真っ先に行うべきだったはずが、歴史は倒幕を優先させることになりました。これは倒幕派長州藩と薩摩藩、幕府(水戸藩)、公家たちが、内乱を起こして倒幕への流れを作り、金貸したちの計略どおりの行動を起こすことで金貸し維新の代理人となっていったのではないかという推測から、今回は「テロ長州藩と過激派公家がつながった」を特集しました。今後、薩摩藩、幕府の繋がりも含めて数回に分けて解明していきます。

List    投稿者 norio | 2014-03-04 | Posted in 08.金融資本家の戦略No Comments » 

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