貨幣はどこから生まれてきたのか? 西洋編 第1回:4000年も前からシュメールで価値の尺度として使われていた”銀”
これまで数年に亘って上昇基調にあった金(ゴールド)が、4月15日のニューヨーク市場で突然に大暴落しました。下げ幅は2日間で200ドル超で、これは1980年以来の記録的下げ幅です。
金が一オンス1334ドルまで売られ、引けは1352ドルとなっていましたが、トレーダーの中には「失踪」したものが出たとも言われる位、大混乱に陥っています。
銀も12%を超える暴落となっており、もはや売りが売りを呼ぶ状態になっており、市場はパニックに陥ってきています。
今までのETFバブルが崩壊してきたもので、今後、何度も指摘していますが、金は一オンス900ドル台にまで下落し、そこで一旦は「休憩」するでしょうが、その後は600ドル台にまで下落し、ETFバブルが終わります。
即ち、高値から3分の一になって、相場が落ち着くことになります。
また今の円安が終わり円高に向かうことになり、一ドル85円台に向けて円は急速に買われるかも知れませんが、不確定要素があまりにも多く、いつ何時、破壊が起こるかわからない状態になっています。
この破壊は金・銀・原油・穀物相場の崩壊で、新興国・オーストラリア・NZ経済の打撃からこれら通貨の急落を招きます。
「暴落(金:1334ドルまで)金と銀が暴落の危機。」より
金の暴落が問題視されるのは、金が貴金属の中でも特別な位置にあり貨幣と同等の価値を持っているからで、’01年以降の金価格の異常な高騰も含めて、この間の金価格の動きは貨幣価値自体の信認が揺らいでいることを示しています。
さて、”金が貨幣と同等の価値を持っている”というのには歴史的な背景があり、’71年のニクソンショックが起きる前までは、紙幣は”金兌換紙幣”と呼ばれ、紙幣を銀行に持っていけば金と交換することができました。
(1963年に発行された20ドル紙幣ですが、丸囲の部分に「要求に応じて持参人に支払います」と兌換紙幣であることが記載されています)
金と紙幣が交換できるのはなぜなのか、紙幣が登場した経緯をみてみると、その理由が明らかになります。
続きの前に いつもありがとうございます
実は”紙幣”の出自は”金の預り証”だったのです。
〔兌換紙幣〕
さて、中世の後期、最も価値の高いお金の単位は金のコインでした。その金の純度をチェックするのは金細工師の役割です。金細工師の家には、大きな金庫があり、当時のお金持ちは金貨を強盗や空き巣から守るために、その金庫に預けていました。金細工師は金貨と引き換えに受領書を渡し、保管のための手数料をもらっていました。
お金を預けていたお金持ちのAさんは、何かを購入するときに金細工師に受領書を渡し、引き出した金貨で支払いをします。その代金を受け取ったBさんは、金貨を持っていると強盗や空き巣に入られると困るので、やはり金細工師の家の金庫に預け、受領書を受け取ります。それならば、わざわざAさんは金貨を引き出さなくてもBさんに受領書を渡せば、それで済むことです。次第に人々は金貨を使って取引するより、直接、受領書を使って支払する方が便利で安全であることに気づき、その受領書が紙幣の役割をすることになります。
「お金の歴史」② 兌換紙幣〜金本位制の崩壊より
このようにして、金貨などを保管する預かり所として、15世紀〜16世紀にかけて、イタリア、イギリスなどで銀行が誕生しました。
現在は”紙幣”が価値の中心のように認識していますが、元々は”金のコイン”に価値があり、紙幣はその替わりに過ぎなかったのです。
では、金のコインはいつ登場したのでしょうか?
さらに歴史をさかのぼっていきます。
西洋で初めてのコイン
現在発見されている硬貨の中で一番古いのは、紀元前670年頃のリディア王国という国(現在のトルコ西部)で作られた「エレクトラム」と呼ばれる硬貨です。
エレクトラム硬貨は金と銀の合金で作られたもので、重さ(=価値)の異なる硬貨が何種類かつくられていました。ちなみにお金の単位は重さを表す「スタテル」で、1スタテル硬貨、6分の1スタテル硬貨、24分の1スタテル硬貨……というふうに分数単位で作られてあり、硬貨の表面にはリディア王の紋章であるライオンの絵柄とその硬貨の重さが刻印されていました。
リディアの硬貨の大きな特徴は、あらかじめ金属の重さをはかって価値を系統だてて作られていたことです。つまり、取引する度にいちいち天秤で重さをはかる必要がなく、それまでの硬貨に比べてはるかに便利なものだったわけです。
日本と世界のお金の歴史 雑学コラムより
当時のコインは、円形の金属片に動物の絵などの刻印を打ったもので、リディア王国の中心地サルディスを流れるパクトロス川から採れた金と銀の自然の合金(金73%、銀27%)で出来ていました。
色が琥珀色をしており、ギリシャ語のElektron(琥珀)から、エレクトラムと呼ばれました。
いわゆる貨幣(コイン)の登場はこのエレクトラムなのですが、西洋の場合はコインが登場するはるか前から、そのままの金や銀が使われていました。
ヨーロッパでは主に銀が価値の基準として使われており、紀元前1750年頃(エレクトロンよりも1000年以上も前!)のものとされる「ハンムラビ法典」にその記載があります。
ハンムラビ法典
メソポタミアにバビロン第一王朝を創建したハンムラビ王(在位前1792-50)が制定したハンムラビ法典の中に利息についての取り決めが記載されており、銀が現在の貨幣と同様に扱われていたことが伺われます。
「もし商人が穀物を貸借契約に供したときには穀物1クールにつき60クーの利息を徴収する。もし銀を貸借契約に供したときには、銀1シケルにつき6分の1シケルと6シェの利息を徴収する」
「もし商人が違反して1クールに対し60クーの利息あるいは銀1シケルに対して6分の1シケルと6シェの利息を超過して徴収したときには、商人は与えたものを失うだろう」
穀物の貸借の場合は1クール=180クーなので、33.3%の金利である。銀の場合には1シケル=180シェなので20%の金利となる。こうして金利の上限についての規則があるということは、同時にメソポタミアには高利貸が存在し、問題になっていたこともうかがわせるのである。
メソポタミアにも高利貸より
このような商業取引があるということは、物々交換ではなく銀に貨幣に近い役割があったことが見て取れます。
貨幣(コイン)が登場する1000年以上前から、銀が重量に応じて価値の決まる秤量(しょうりょう)貨幣として使用されていたというのは、おどろきですね
次回は、なぜメソポタミア(シュメール)では銀が価値の基準となっていたのか、”銀による貨幣システム”の登場を調べて見ます
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