2012-06-29

近代市場の成立過程(10)〜16世紀、小国から大国に大化けしたイングランド、その背景を読む。

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エリザベス女王即位60周年やロンドンオリンピックで賑わうイギリス。ヨーロッパの主要国のイメージがありますが、ほんの500年ほど前は、大国に押しやられ、国内統一もままならない辺境の小国に過ぎませんでした。
しかし、16世紀、イギリス(イングランド)は100年をかけて大国にのし上がっていきます。なぜ、この時機、イギリスがのし上がってきたのか?
中世に遡り、考察していきます。
尚、途中でウェールズやスコットランドの併合がありますが、文中の国名は「イングランド」で通します。

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●チューダー朝 前史 〜妥協に次ぐ妥協で王権を維持〜

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中世以来、イングランドの王家は隣国フランスと深いかかわりをもっていた。歴代王家は北フランスに領土を有しており、より正確には、フランスの大貴族がイングランド王位に就いていたということになる。そのような状況の中、1217年、イングランド王は封建法の成文化を行い、封建貴族の身分や財産を保護した。これが大憲章=マグナカルタであり、その意図は、国内大貴族の力を取り込むことで、フランス王を排除することであった。13世紀半ばには「国王評議会」が開かれ、「議会政治」への原点となる。
1337年から1453年にかけて、フランス領地をめぐって英仏100年戦争が続き、イングランドはフランス領土のほとんどを失う。以降、勝者フランスの目は大陸のハプスブルグ家に向き、敗者イングランドはブリテン諸国内の他国(スコットランド、アイルランド、ウェールズ)に向かうようになる
1455年、イングランド国内で王位継承権をめぐり、ランカスター家とヨーク家の争い、いわゆるバラ戦争が勃発。結果としてヨーク家最後の男系であるリチャード3世を倒したランカスター家の傍系であるヘンリ7世が、ヨーク家の娘と婚姻を結ぶことで、王位を継承。ここに、チューダー朝が開始される(1485年)

封建貴族との『妥協』の産物が「マグナカルタ」であり「議会」、
大陸撤退の代替案=『妥協』の産物として、ブリテン統合を課題化、
そして極め付きは、ランカスター家の紋章(赤バラ)とヨーク家の紋章(白バラ)を合体させた赤と白のバラを紋章としたチューダー朝、
中世から近世初期において、妥協に次ぐ妥協で辛うじて小国を維持しているというのがイングランドの実態でした。

 
●ヘンリ7世治世(在位1457年〜1509年)〜国内統治の基盤固め〜

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王家統一後も、その王位は決して安定したのではなかった。ランカスター家の「傍系」であることから、その正統性を常におびやかされたヘンリ7世は、息子とスペイン(ハプスブルグ家)王女との婚姻をとりもつことで正統化を果たそうとする。その一方、貴族の兵力保有を国王の許可制にするなど、貴族の力をそぎ、自らに直属する国王評議会の強化に努めた。
貴族の支配力低下を意図する一方、その貴族への対抗策として、高い教育を受けた新興のジェントリ階層の中から、法や財政の専門家が登用され王の脇を固めていく。これが、後々まで続く「有能だが貴族出身でない人材の発掘と重用」というチューダー朝の特徴のひとつとなる

ヘンリ7世の時代に、チューダー朝の統治機構や王権の財政基盤が整備され、地方統治の役職として治安判事(アマチュア)を重要視する政策がとられました。近世イングランド国内統治の礎はこの時代に築かれたといえます。
次に、ヘンリ8世(在位1509年〜1547年)〜エリザベス1世(在位1558年〜1603年)治世下における、人材発掘と重用、その実体を押さえておきます。
 
●人材の発掘と重用

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左からウルジ、モア、クロムウェル

・トマス・ウルジ(1475〜1530)食肉業者の息子、オックスフォード大学卒業後、聖職者の道をとり、王室付司祭に。教会に批判的な人文主義者エラスムスのイングランド滞在を支援するなど当初は柔軟に対応するも、自らが教皇を目指すようになり、1529年失脚。
・トマス・モア(1478〜1535)ロンドンの法律家の息子、オックスフォード大卒後、自らも法律家となり、官僚で最高位の大法官までのぼりつめる。「ユートピア」著。トマス・クロムウェルが主導する宗教改革に反対し、1540年処刑。
・トマス・クロムウェル(1485〜1540)職人階層出身ながら、語学堪能で、国王ヘンリー8世の側近として仕えた。実質的に行政改革、宗教改革を主導した。「修道院解散」の立役者。1540年処刑。
・ニコラス・ベーコン(1510〜1579)ジェントリー階層出身、ケンブリッジ大学卒業後法学院で学び、後エリザベス女王の側近。息子はフランシス・ベーコン。
・トマス・グレシャム(1519〜1579)シティに生まれ、ケンブリッジ大学に学んだのち、叔父のもとで徒弟として商売の実務を学んだ。そのかたわら法律の勉強もし王室金融代理人に任命され、後、王立取引所設立。
 
・ウィリアム・セシル(1520〜1598)裕福な商人の息子、ケンブリッジ大学卒業のプロテスタント。エリザベス女王の側近。

まさに、役者は揃った、というところでしょうか。さて、いよいよ、本丸です。
 
●宗教改革 〜小国を大国に大化けさせた一大政策〜

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宗教改革の直接的なきっかけはヘンリ8世の離婚問題だったとされていますが、それ以上に、政治的、経済的動機が強くうかがえます。これは、国王とはいえたかが一個人の願望だけに振り回されたとは思えないほどの劇薬で、カトリック教徒との小競り合いはあるものの、これを機にイングランドは劇的に変化していきます。
 
教皇権と分離し、国王が教会の長(政教一体)となる一方、修道院を解散させて、その財産をすべて国庫に没収する。そして、戦費に当てる、あるいは新興ジェントリー層に売り渡す—。言葉で書くと簡単ですが、これを実際にやりきるのは相当の政治的手腕が必要で、トマス・クロムウェルなればこそ、と言われています。
 
その意図は、国内のカトリック教徒 ≒大貴族たちの息の根を止め、大ブリテン島の統一を図ること、国際的には、教皇と強く結びついた強国ペインに対抗する新興勢力 ≒プロテスタントの結集を促すこと。ここまでは確実に意図していたと思われます。
 
実際、初めて聖書の英訳を行い、庶民にも信仰生活を定着させながら、大陸からプロテスタント亡命者を積極的に自国に呼び寄せ、ヨーロッパにおける「プロテスタントの避難所」とまでも言われるようになる—。エリザベス1世期には、イングランド国教会が(カトリックに対する)優位を確立します。宗教改革は国家の支援を得て、一層進展し、急速な経済発展も伴いながら、小国は大国に大化けしていきます。
 
●国際情勢〜私掠団による情報戦制覇〜
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1570年、エリザベス1世が教皇により破門され、晴れて「プロテスタント国家」となった当時、同じくプロテスタント優位のネーデルランドは、カトリックの国スペインからの独立運動を繰り広げていました。イングランドは当然ネーデルランド支援に回り、スペイン、ハプスブルグ家との直接対決は時間の問題でした。
 
このとき、スパイによる情報戦で活躍したのがヘンリ8世以来の私掠船半ば公的にスペイン商船や艦隊への私的略奪行為を認められた船)、フランシス・ドレイクに代表される「国家公認の海賊たち」でした。
 
1588年、スペイン無敵艦隊撃破。このときイングランド正規軍は143隻中20隻、残りは商船あるいは私掠船でした。国内・国外のカトリックとの丁々発止を制したのは、女王の側近、ウィリアム・セシルでした。
 
●経済発展 〜「ローマがだめならオスマンがあるさ」〜
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王立取引所

さて、14世紀から15世紀にかけてのイングランドは、かつての羊毛輸出国から脱して毛織物の輸出を活発におこなうようになっていましたが、その際に北西ヨーロッパへの毛織物輸出の独占権を握ったのが「冒険商人組合」でした。この商人の一団は、毛織物貿易の担い手としてハンザ同盟やヴェネチアの商人に対抗し、イギリス経済の向上に一役買ってきました。しかし、長引くスペイン戦争で、神聖ローマ帝国内でのイギリス商人の交易禁止措置は、「冒険商人組合」に打撃を与えました。
 
で、どうしたか?
 
「ローマがだめならオスマンがあるさ」と言ったかどうかは知りませんが、彼らはオスマン帝国に狙いを定めていきます。16世紀当時、カトリック勢力はローマ教皇のもとで、異教の大国オスマン帝国と対抗するため「対オスマン禁輸措置」を引いていましたが、プロテスタント国家イングランドはこれに従う必要がありませんでした。1580年、オスマンと国交を結び、現地にレヴァント社設立。これにより、経済の基盤も、羊毛業→羊毛織物輸出依存→東洋の産物(奢侈品)の輸入とヨーロッパ市場への再輸出へと舵をとり、貿易大国にのし上がっていきます
 
さらに、貿易会社の本店が相次いでシティに誕生するのと軌を一にするかのように、1566年に設立されたのが「為替取引所」(1571年「王立取引所」と改称)。開設に当たって尽力したのはトマス・グレシャム。元々、ヘンリ8世の代理人としてアントワープに滞在、ロンドンに有能な代理人を置くとともに、ヨーロッパ各地に情報網をつくり、常に商売、政治の情報をいち早く手に入れるよう心がけたひとで、のちのロスチャイルド家、あるいは今日の総合商社の走りのような人物です
 
王室とは一線を画して独自の生き方をしてきたシティも、エリザベス時代には、王室財政を支える場所として重要な働きをしていきます。王室もまたしばしばシティの援助を当てにすることがあり、実際エリザベス時代の後期には、王室の財政が傾くたびに、シティは巨額の融資をおこなっていました。国家と金融が深く結びついていきます
 
●絵画・演劇 〜王権の正統化と黄金期の演出〜
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チューダー朝、特にエリザベス1世期は華やかなイメージがあり、一般的に「黄金期」とさえ言われています。しかし、実体は財政は火の車。貧富の格差はますます開き、人口は100年でイングランド全体では260万人から400万人、ロンドンだけでも5万人から20万人に増大、都市問題を解決しないままでした。そんな中、王権の正統化と黄金期の演出をしかけたのは、絵画と演劇でした。
王や女王、要職者たちの豪華で端正な肖像画、勇猛な戦いの画。たとえば、無敵艦隊撃破なるものは、大勝利のイメージがありますが、実際は海上封鎖でしかなく、「華々しい勝利」という印象は、後年の絵画モチーフとして作り上げられたものです。また、シェークスピアの「リチャード3世」では、ヨーク家のリチャード3世は狡猾、残忍、豪胆な詭弁家として描かれる一方、同じシャークスピアの「ヘンリ8世」では、彼の治世時の微妙な問題(冤罪や処刑や離婚)は曖昧に表現されています。そしてうっとりするような恋愛劇の数々。
 
絵画や演劇。これらの背景には、ひとにとって視覚や感覚(官能)から受けるイメージがいかに強いかを知り尽くした能吏の人心掌握術 ≒共認形成力を感じます。
 
●まとめ
16世紀イングランドの最大の特徴はなにか?それは、ローマ教皇からの離脱、プロテスタント化、貿易の推進と大転換、為替取引所の設立、これらをすべて国家課題として取り組み、国を上げて推進したことではないでしょうか。辺境の小国の当然の帰結、とも言えますが、他の目を気にしないあけっぴろげさはさすがバイキングの末裔たち!ということかもしれません。
 
では、次回、同じプロテスタントでありながら、イングランドとは真逆の路線をとったネーデルランド=オランダについて概観していきます。

List    投稿者 urara | 2012-06-29 | Posted in 08.金融資本家の戦略No Comments » 

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