2012-04-18

脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち(13)イスラム経済(ムハンマド・バーキルッ=サドル)その2

現代は市場原理に基づく経済システムが実体経済から遊離(バブル化)して、経済は崩壊の危機に陥っています。この経済システムに、過去〜現在に至るまで異議を唱えてきた経済理論家たちがいます。このシリーズではそれらの理論家の思想や学説を改めて見つめなおし、次代の経済システムのヒントを見つけていきたいと思います。
前回はイスラム経済を捉えるために不可欠なイスラーム(≒イスラム教)の基本構造を、ムハンマド・バーキルッ=サドル氏の『イスラーム経済論』からの引用を中心に取り上げました。
脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち(12)イスラム経済(ムハンマド・バーキルッ=サドル)
今回はイスラームの経済システムについて以下の5つの特徴に着目し、サドル氏の『イスラーム経済論』を引用しながら学んでいきたいと思います。
①神の代理人としての所有
②労働=信仰の奨励〜働かざるもの祈るべからず〜
③浪費の禁止
④リバー(利子付貸付行為)の禁止と現物取引の原則
⑤財の社会的還流

(イスラム圏のキャラバン)
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①神の代理人としての所有
まず経済システムを捉える重要な視点として、イスラームは財の所有(私的所有)をどのように考えているのでしょうか?

富とはアッラーの富であり、アッラーこそは真の所有者である。人間は地上における彼の代理人であり、大地とそこにある富、資源の管理者にすぎない。至高のアッラーは述べている。
アッラーこそ人間を代理とした方であり、望むならば、それを人間から取り上げもされる。「望みとあれば、汝を取り除き、代わりに意中の者を代理とされる。」(クルアーン第6章134節)
代理はその本性からして人間に、彼を代理とした者から託された資源に関して、その指示に従うよう義務づける。アッラーは述べている。「アッラーとその使徒を信じ、汝らがその代理人とされたものから施しを与えよ。汝らのうちで信仰篤く、よく施すものには、大きな報償が与えられる」(クルアーン第57章7節)
さらにこの代理の結果、ひとは自分を代理人とした者に対して責任を持ち、あらゆる言動、労働に関して委任者の監視下に入るのである。
本来代理が社会のものであるならば、私的所有は社会がこの代理の目的、使命を遂行するための一つの手段であるということになる。したがって個人が財を所有しているだけで、社会との関係が断たれることはなく、また社会のそれに対する責任が消滅する訳でもない。むしろ社会は、所有者が正しい取扱いをしない場合、彼の無能力から財を保護する必要があるのである。
私的所有の存在とそれを代理の概念によって、本来の場に戻すこのような試みにより、イスラームの所有権は目的ではなく、手段に変わるのである。その知的、精神的本質をイスラームと融合させたムスリムは、所有権を、一般的な代理の目的を果し、多様な人間の必要を満足させる手段とみなすのである。それは充足をしらない、貪欲な富の蓄積、蓄財を目的としてはいない。

イスラームでは富・資源(財)とは全てアッラー(神)のものであり、人間は活用を委託された神の代理人として財を所有します。つまり人間は財の使用権を持っているだけに過ぎず、活用しない場合には使用権を失います。例えば土地が活用されずに退廃した場合や所有者が死亡した場合には死地とみなされ、国家が土地を没収したり、他人がその土地を利用することが認められています。
またイスラム経済では、財の所有に関して諸形態(国有、公有、私有)があります。土地の私有は基本的に認められていますが、泉(水)や鉱脈(鉱物資源)については私有を認めずに採取のみに限定するなど、社会全体で財を活用する仕組みが考えられています。
②労働=信仰の奨励〜働かざるもの祈るべからず〜
イスラームでは労働(生産)が奨励され、神への信仰そのものとされています。

イスラームは思想的に労働と生産を奨励し、それらに高い価値を認め、それらを人間的名誉、信仰の質、はては知性の高さとまでも結びつけている。これによりイスラームは、生産促進と富の開発にとって好ましい人間環境を創り上げ、それ以前には知られていなかった労働と怠惰に関する道徳的尺度と、特定の評価を生み出した。そして自らの糧を求めて働く労働者は、働きのない信者よりも神のもとでは上位に立ち、怠惰に身をまかせ、労働を侮る者は、人間性を欠く者と見なされ軽視の対象となった。
これについては次のようなハディースがある。「彼は家でお祈りばかりしていますが、生活は不如意で兄弟が彼の生計を立てています。」するとイマーム(※指導者 ここではムハンマドのこと)は言った。「彼を養っている兄弟の方が、彼よりもはるかに信心深い。」
数多くのハディースの中で、労働は信仰の一部として見なされている。例えば、「健全な財産づくりは信仰の一部である」といわれ、また預言者の他のハディースにはこうある。「ムスリムが耕し、植えつけ、それを人間や家畜が食すならば、それは彼のサダカ(喜捨)として書き留められる。」
イスラームは怠惰をよしとする考えに反対し、労働を勧めたように、自然の富の放置、財産の凍結、その利用、活用の停止に反対している。そして生産のために自然の力と富を最大限に活用し、人間をその利用、活用に奉仕させた。またイスラームは、自然の財や富を放置、軽視することを一種の責任の回避、神が下僕たちに授けられた恵みに対する忘恩と見なしている。


(ハディース)
※ハディースはクルアーンに次ぐ、第二聖典とされています。ハディースの内容は預言者ムハンマドの日常生活や信仰に関わる様々なことが述べられ、イスラム信徒の広範な規範・遵守すべき慣行を示しています。


イスラームでは労働は神に賞(め)でられた行為、不労(怠惰や退蔵)は呪われた行為と言われています。労働によって財が活用され、人間は財の所有を委託された神の代理人としての役目を果たすことになります。つまり、労働とは神への信仰そのものであるといえます。これは引用内の「ハディース(預言者ムハンマドの言行録)」にもあるように、労働しない人間は信仰が薄い者であり、「働かざるもの祈るべからず」と言われる所以でもあります。
③浪費の禁止
また労働(生産)の観点から、消費(浪費)にも独自の考え方が反映されています。>

生産の観点からイスラームは、ギャンブル、魔術、奇術といったある種の非生産的活動を禁じている。そしてこの種の活動を通じて利益を上げること、それを行って金を稼ぐことを認めていない。クルアーンには、「虚偽によって汝らの財産を貪り食ってはならない」とある。このような活動は、人間のもつ健全な生産的エネルギーを損なうものであり、それを行う者たちに支払われる偽りの賃金は、本来開発や生産のために向けられる可能性のあった財を無にするものである。
歴史や具体的な現実を概観してみれば、この種の活動やそれによる利得を通じてなされる浪費がいかに大きなものか、またこのエネルギー、努力、資本の浪費のために生産やその他のあらゆる健全な目的がこうむる損失がいかばかりであるかが、すぐに明らかとなるであろう。
またイスラームは、社会的生産が浪費をもたらさぬよう義務づけている。生産活動の過程を通じて、それが個人的な行為であれ、社会の公的行為であれ、浪費はイスラーム法において禁じられているからである。(例えば)個人が家内の清掃に香料を用いることは浪費として禁じられる。しかし同時に社会、また別の表現でいえば香料の生産者が、社会の必要や消費、商業的能力を超える量の香料を生産するといった過剰な生産は、一種の浪費として禁じられる。財産の浪費がこれに当たることはいうまでもない。

イスラームでは消費のみならず生産についても社会が必要としないモノの過剰生産は浪費であると指摘しています。これは本来向かうべき可能性(生産)が浪費に潰されるのを防ぐためであり、イスラームでは浪費(消費)を個人ではなく、社会全体を見据えて捉えています。
④リバー(利子付貸付行為)の禁止と現物取引の原則
イスラム経済では不労所得は認められておらず、リバー(利子付貸付行為)が禁止されています。

貸付金におけるリバーはイスラームでは禁止されている。リバーとは、他の者に財を一定期間、利子を課して貸付け、債務者にその利子を、合意した返済日に元本と共に支払わせるものである。したがって貸付は、利子なしでしか許されない。債権者の権利は元金を返済せしめることだけで、いかに小額であっても増加分は認められない。この規定は、イスラーム的にきわめて明確であるため、イスラーム法における絶対的規定の一つに数えられている。
その根拠を提示するとすれば、次のクルアーンの章句で十分であろう。
「利息を貪る者は(復活の日に)悪魔にとりつかれて倒れたものがするような起き方しか出来ないであろう。それは彼らが『商売も利息をとるようなものだ』と言って(利息を取って)いるからである。しかし、アッラーは商売を許し、利息を禁じ給うた。主から訓戒が下った後にこれを止める者には、過ぎ去ったことは許されよう。彼のことはアッラーにまかされる。だがその非を繰り返す者は、業火の住人で、彼らは永遠にその中に住むのである」(雌牛章275節)
「信仰する者よ、汝らが真の信者であるならば、アッラーを畏れ、利息の残額は帳消しにせよ。もし汝らがそうしないのであれば、アッラーとその使徒から、戦いが宣告されよう。だが汝らが悔い改めるならば、元金は汝らに残される。(人々を)不当に扱うことがなければ、汝らも不当に扱われることはない」(雌牛章278・279節)
上述の最後のクルアーンの一節は、債権者が貸しつけた賃金の権利を保証し、改悔した場合には元金の回収だけを許しているが、これは利子を課した貸付、およびいかに少額であれさまざまな種類の利子の禁止の明白な根拠となっている。なぜならばいかなる場合でも、利子は債権者から債務者に対する、クルアーン的意味における不正と見なされるからである。

また同様に現物取引が原則となっています。

流通に関するイスラームの概念を反映する規定や法制に関しては、以下にあげる多くの法典根拠や法学上の見解の中にそれらを見出すことができる。商人は、例えば小麦を買いつけてもそれを実際に手に入れていなければ、より多額の値をつけて売却するという仕方で利益を得ることは許されない。イスラーム法学においては、(権利)移転の法的行為は契約そのものによって完了し、その後になされるいかなる具体的行為にも依存することはないが、商品を実際に手に入れた後に、初めて売却が可能となるのである。
すなわち商人は、小麦を手に入れなくとも契約に基づきそれを所有することになるが、それにも拘らず財を実際に手に入れないかぎり、それをもとに商取引したり、利益をあげることは許されない。それは商業利益を労働と結びつけ、商業が法的行為のみから利益を生み出すような状況を回避するためである。


(天使から啓示を受けるムハンマド(マホメット))
イスラム経済では、投機などの不労所得は認められず、現物取引(≒流通労働)が原則です。また利子は駄目ですが利潤は良いとされ、事業に出資しその利益を受け取ることは認められています。
この事業投資は現代の無利子銀行(イスラーム金融)が収入を得る基本的な仕組みともなっており、イスラームの預言者ムハンマド(マホメット)の時代(7世紀)に起源があります。
当時のアラビア半島では、遠距離へラクダで物資を運搬する事業=キャラバン通商が盛んで、ムハンマド自身も神の啓示を述べるようになる以前はキャラバンの頭でした。そして彼の最初の妻ハディージャは、女商人としてキャラバンに資金を提供しています。
資金を持っている者たちは、このキャラバンに資金を託し利潤を得ていましたが、途中で野盗に襲われるなど失敗するリスクも大きかったようです。キャラバンが成功した場合には、出資者は元本と儲けをキャラバンとの間で例えば折半し、失敗して損失が出た場合には、出資者は配分が無いばかりか元本も保証されませんでした。このような資金提供及び利潤配分による事業投資は「ムダーラバ」(Mudaraba)と呼ばれています。
現在のイスラーム金融の原形は、この7世紀当時のアラビア半島の商習慣をムハンマドがイスラームとして定式化したものと考えられます。
⑤財の社会的還流
イスラム経済では、ここまで見てきた生産と消費を社会的に循環させる仕組みとして、ザカート(喜捨)があります。
ザカートとは、財産に余裕のあるムスリムの義務であり、その人の財産から一定比率の金銭や現物を支払います。年末にそれぞれの人の収入や貯蓄(農産物、金銀および金銀装飾品、現金、商品、鉱業、牛・水牛、羊・山羊、ラクダなど)の双方に課せられ、貧しいものに直接支払うか、あるいは国家に納めることで、財の社会への還元と分配が行われます。(参考:ザカート・喜捨
さらにこの財の社会的還流の補強が、国家の役割=取組みとなっています。

イスラーム国家は、イスラーム社会における個人の生活を完全に保証するよう義務づけている。
国家は通常、この責務を二つの段階に応じて遂行する。第一の段階において国家は、個人が自分の労働と努力を基礎に、生活しうるよう、労働の手段と、生産的な経済活動に意義ある参加を可能にする機会を準備する。ただし個人が労働に従事したり、自分で完全に生計を立てることができない場合、あるいは国家が個人に労働の機会を提供しえないような例外的な状況にあるさいには、第二の段階が到来する。そのさい国家は、個人の必要を満たし、一定の生活水準を維持させるために充分な財を用意して、補償の原則を実際に適用するのである。

国家が行う財の社会的還流の事例として、遺産相続の規定が挙げられます。イスラームでは、所有する財は生前のみ有効で個人が死後の財の帰属を決定する権利を持っておらず、相続法などの法規定によって決められます。
法規定では、相続の恣意的な(自分のための)決定を禁じ、遺贈は財の1/3までに制限されています。この遺贈も長子相続のような財の集中を意図するものではなく、贈与者の血縁関係を通じて、四方に拡散されて社会へと配分される仕組みです。また遺産の残りは、貧しい者へのザカート(喜捨)として処分されます。このような遺産相続の仕組みは、自分の好きなように死後の遺産相続を決定できる資本主義とは大きく異なるところです。
■まとめ
前回はイスラームの経済問題の捉えかたと共にイスラームの基本構造を学びました。



(ムハンマド・バーキルッ=サドル氏(左)とその著書「イスラーム経済論」(右))
・経済問題とは、自然資源の不足や労働の配分関係ではなく、人間の不正と忘恩に依るものである。
・イスラームを実現するための世界観(統合)=タウヒード、生活の指針=シャーリア、集団=ウンマが一貫していることがイスラームの基本構造です。
・サドル氏がイスラム経済を部分ではなく、イスラーム総体として捉える必要があると忠告したのは、この他部分と根幹で密接に連関したイスラームの基本構造を認識しているためであり、経済問題を人間自身の問題と捉えていたのは、正しき人間(イスラム信徒)がイスラームを実現することによって、現在の全ゆる問題(経済などの諸問題)が解決するという認識に立っていたと考えられます。

今回はイスラームの経済システムについて見てきましたが、神の代理人としての所有権、労働の奨励と促進(浪費や不労所得の禁止)、財の社会的還流など、神の教えによって自分発の考えを諭し、とことん集団発の思考で経済システムを構築していることが分かります。
これは集団をどのように統合していくのか?また集団が拡大し、対面を超えた社会全体をどのような観念で統合していくのか?といった集団統合の現実課題に直面し、その中で生み出された社会規範が、イスラームの経済システムに反映されているためと考えられます。またイスラームの経済システムは、とことん集団発で人類の本源性を残しており、どことなく日本に近い感覚があります。これはイスラム圏も日本と同じく共同体(体質)を多く残している証ではないでしょうか。
サドル氏を通したイスラム経済からは、次代の経済の可能性として「経済どうするか?といった部分的な思考ではなく社会全体を踏まえて経済を考えていくこと」、「個人を原点とするのではなく徹底して集団発で現実を捉えて経済システムを構築していくこと」を学ぶことが出来ました。
次回は日本の江戸時代における経済学者を紹介します。
最後まで読んで頂いてありがとうございます☆

List    投稿者 staff | 2012-04-18 | Posted in 07.新・世界秩序とは?No Comments » 

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