2011-07-21

シリーズ「必要か否かの判断の土俵」その10 〜実現の論理〜

シリーズ最後になりますね。
いつものように応援よろしくお願いします。
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ありがとうございます。
今日は「実現の論理」→→→興味を引くタイトルですね
何が・どのように実現されてゆくのでしょうか?
超国家・超市場論30 実現の論理を引用しながら解明してゆきましょう。

考えてみれば、本能生物の世界では環境(=外圧)が変わる時、その新たな環境に適応すべく生み出された最先端機能の下に旧機能が収束して、全体が再統合される。
同様に、共認動物の世界でも、生存圧力から同類圧力へと外圧(or状況)が変わる時、新しい状況に適応すべく生み出された最先端の意識(主に欠乏)の下に古い意識(主に欠乏)が収束して、全体が再統合される。
夫々の意識(主に欠乏)が作り出す闘争についても同様で、新しい闘争の下に古い闘争が先端収束して、全体が再統合される。
従って、人々の意識(欠乏)と闘争が作り出す『現実』も同様であって、最先端の新しい現実の下に古い現実が収束して、全体が再統合される。

本能生物の場合は理解しやすいですね。自然外圧が変わると長い期間にわたってDNAを組み替えて新たな外圧に適応してゆくわけです。
共認動物(猿と人類ですね)の場合も同じなようです。特に人類の場合は生存圧力(自然外圧)を克服した後は、同類圧力(人と人の間に生じる期待・応望の圧力)が主になってきます。そうなると、この同類圧力にどう適応してゆくかが課題になりますね。
この構造は闘争にも言え、生存や縄張りをめぐって武力闘争していた過去に対して、同類からの評価(いかに役に立てるか)をめぐって認識闘争しようとしているのが現在、ということになります。
これらの適応形態の変化はガラッと全面的に入れ替わるのではなく、新しいものの下に古いものが収束する(塗り重ねられる)かたちで代わってゆくようですよ。
確かに、生物進化の系統樹を見るとそれが実感できますね。途中でイキナリ出現してきた生物など、いやしませんもんね。
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“共認動物の進化”も同じなのでしょうか?

その際、最先端の機能or意識or闘争は、常に古い機能or意識or闘争によって構成された古い現実世界の真っ只中に登場する。それが、真に最先端の適応機能(or意識)ならば、当然、古い機能(or意識)を自らの下に収束させてゆく。むしろ、最先端の適応機能(or意識)は、古い現実世界の真っ只中で古い機能群(or意識群)を収束させてゆくことによってのみ、それが最先端機能であることを証明してゆくのである。

いわゆる革命(フランス革命・明治維新など)は、あたかもそれを境に全く新しい社会に切り替わった印象を抱かせますが、実はそうではないようです
その当時の最先端の意識は「豊かになること」でした。そのような意識を持っていたのは大衆や下級武士でありましたが、主導していたのは彼らではなく、市場を拡大し私腹を肥やしたがっていた金貸し連中でした。
彼らは大衆や下級武士をうまく使い、彼らが主体的に革命を起こしたと見せかけて自分達の望む社会にしていったに過ぎません。市場社会の実現ですね
これらの“革命”によっても、社会の構造は基本的にはかわらず、最先端の部分が武力支配から金貸し支配に取って代わっただけだったということです。

生存圧力から同類圧力への大転換期である現在も、同様である。古い物的欠乏や解脱欠乏とそれらが作り出した私権闘争の全ては、新しい外向収束に基づく最先端の認識欠乏とそれが作り出す認識闘争の下に収束して、全体が統合される筈である。その際、新しい認識欠乏⇒認識闘争(=評価競争)は、当然、古い私権欠乏⇒私権闘争(=お金の獲得競争)の世界の真っ只中に姿を現す。そして、その古い現実世界の真っ只中で古い私権欠乏⇒私権闘争を自らの下に収束させてゆくことによってのみ、自らが最先端の意識(主に欠乏)であり闘争であることを証明してゆく。

生存圧力から同類圧力へと代わりつつある現代においては、さすがに社会の根底から代わってゆくのだと思っていましたが、こちらもそうではないようです。

ここから少し実感ベースで話をさせていただきます。
いわゆる統合階級の方々と一緒に仕事をさせていただく機会がありますが、そのような場合、彼らの古い体質や序列関係がイヤでも目に入ってきます。
一方で同類闘争・共認原理に転換して行っている現在の状況からすると、彼らの立ち位置には可能性は見出せません。
しかし、それを全否定してしまっても、また埒があかず、それどころか仕事はトラブルに陥るんですね 🙁
そんな場合にどうするかですが、有能な先達の進め方を見ていくと、まずはトコトン彼らの状況・体制・歴史を学び、同化しています。
そして、依頼主以上に課題を充分認識したうえで、最先端の認識を過去の歴史に塗り重ねるように提示しています。
そうすることで可能性を共有でき、見通しが開けるようです。

つまり、上記引用の

新しい認識欠乏⇒認識闘争(=評価競争)は、当然、古い私権欠乏⇒私権闘争(=お金の獲得競争)の世界の真っ只中に姿を現す。そして、その古い現実世界の真っ只中で古い私権欠乏⇒私権闘争を自らの下に収束させてゆくことによってのみ、自らが最先端の意識(主に欠乏)であり闘争であることを証明してゆく

とはこういうことではないかと感じているわけであります。

即ち、人々の最先端の認識欠乏に応える『認識形成の場』(それは社会的な共認闘争の主体となる)は、古い私権闘争の場=市場(と国家)の真っ只中に姿を現す。おそらく初めは、そんな物(=認識形成サイト)が商品にもなるとは、誰も思わないだろう。だが、我々の現実認識(構造認識や状況認識)が正しければ、人々の認識欠乏が顕在化するのは時間の問題である。それは、はじめの答え(に近い認識)と認識形成の場さえ与えられれば、一気に顕在化する。
そしていったん認識欠乏が顕在化するや否や、それは最先端の欠乏となり、それに応える『認識形成の場』は最先端の活力を生み出す溶鉱炉となる。そして、人々の基底的な『判断の土俵』や『人数』や『投稿資格』などの評価指標を媒介として、お金をはじめとする私権闘争の一切をその場の下に収束させ、全てを統合してゆく。
これが、実現の論理である。

そしてこれは先にあげた仕事の場だけではなく、「社会」に対しても同様なのではないかと思います。
社会のことを考える場合には、今現在の状況はどうなっているのか、その経緯・歴史・事実関係はどうだったのか、などを謙虚に学ぶことががまず必要になってきます。
それなくして「見通し」を語ったところで、それは単なる批判や要求にすぎず、薄っぺらい子供の論理にとどまってしまい、誰も納得しないので、“実現”など夢また夢です。
実は「民主主義」の正体がコレであり、そして「民主主義」を絶対的に正しいものとして、我々は学ぶこと・考えることを放棄し、子供のように要求や批判だけを繰り返してきた可能性が高いと感じています。
その結果、統合階級のなすがままとなり何も変わらないばかりか、世界中で閉塞を大量生産してしまうという現状を作り出してしまったのです。
この間の「反原発運動」にも、「薄っぺらい要求と批判」が目に付きませんか?
⇒詳しくは 民主主義は、自我の暴走装置である 共認社会を実現する新たな共認勢力とは、何か?を参照してみてください。
では、我々はどうすればよいのか?
まずは、民主主義を総括し、全否定するところからはじめましょう。(あ、総括というのは民主主義の成立構造をしっかり学んで、どこがどう間違ったのかを把握することですね。念のため。)
そして、人類の歴史、国家の歴史、自然の摂理などを多面的に謙虚に学び、構造化し、それらを下敷きにして現実の可能性を見出してゆくことになるでしょう。
ん??大変そう?一人では無理そう??
そうですね。なのでおそらく、一緒に学ぶための仕組み・ネットワークみたいなものが必要になってくるんじゃないかと思います。
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具体的にどうしてゆくかは、おそらく別のシリーズで引き続き考えてゆくことになると思います。お楽しみに 😉

List    投稿者 ohmori | 2011-07-21 | Posted in 07.新・世界秩序とは?2 Comments » 

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コメント2件

 saki | 2012.09.20 21:47

100ドル以上の裕福層って・・
ちゃちゃ入れる気はないですが、大事なポイントなんで。

 shop hermes | 2014.02.01 22:42

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