2011-10-12

『実現論 序』:市民運動という騙し、民主主義という騙し(下)

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前回で、民主主義の象徴である議会ですら、全ての主要な局面で、金融勢力の暴走にお墨付きを与えてきただけということを明らかにしました。

『実現論 序』:市民運動という騙し、民主主義という騙し(上)

 
今回は、

とすれば、いったい民主主義とは何だったのか?
実現論:序3.市民運動という騙し、民主主義という騙し(下)以下同じ

を追求していきたいと想います

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【民主主義と共認原理】

私はこれまでも、新理論を構築するためには、近代思想を全的に否定する必要があると考えてきた。そして、「自由」「個人」「人権」等の架空観念を、近代思想の要と見てきた。
しかし、これまで民主主義については(その怪しさを重々知りつつも)、全的には否定し切れないでいたが、近代思想の本丸は実はこの「民主主義」にあったのではなかろうか。
実際、庶民レベルでは「個人」や「人権」という言葉はあまり使われなくなったが、「民主主義」だけは根強く支持されているし、今もアメリカが他国を侵略する口実は、「民主主義(ではない国は破壊する)」である。
人々が民主主義を肯定視する理由は、その「民が主」という主張が、いかにも共認原理に立脚しているもののように感じられるからである。私が全的に否定し切れなかった理由も、そこにある。
だが、「民主主義」は、本当に共認原理に立脚しているのだろうか?
それを、人類本来の共同体の共認原理と突き合わせてみることによって、明らかにしていこう。
実現論:序3.市民運動という騙し、民主主義という騙し(下)以下同じ

アメリカは、いまだに独裁政治は悪であり、苦しむ民を解放するのだと“民主化”を口実に、民主主義でない国家と戦争を続けています。(イラン戦争、リビア鎮圧etc.)
しかし、アメリカの一番の目的は、石油などの資源だったり、武器が売れるからという理由で戦争のための戦争をしているんです><
 
 
“民主主義”が戦争の口実になってしまっていること自体、“民主主義”の怪しさを証明している感じがしますね。

共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。
従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。
従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。
それに対して「民主主義」は、そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。これでは共認原理はまともに作動しない。
例えば法律については、それが日常のあらゆる生活を規制しているものであるにもかかわらず、(専門家以外)誰も知らないし、社会がおかれている状況についても、大半の成員がほとんど知らない。
とりわけ、市民運動を中心的に担ってきたのは若者であったが、学びの途上にあり殆ど何も知らない未熟者が、いったいどうして何かを主張し、評価を下すことが出来るのか、何かおかしいと感じないだろうか?

まず、『人類本来の共同体の共認原理』を図解で整理しておきます



現在でも、会合で最初は多数決で決めてたのが、実現に向かいだすと、この共認原理が働いたという事例がありました!
「実現に向かうと民主主義は無用となる〜地元との会合から〜」

また、この共同体原理で経営している会社もでてきています!
「みんなが主体的に考え行動できる組織作りが経営者初期10年の仕事・・・『ネッツトヨタ南国さん』」

私権原理から共認原理へと移行した現在では、実現や充足に向かうと、この共同体の共認原理に近づいていくんですね

この共同体原理に反して、根本の学ぶということをないがしろにした民主主義。
51VS49という結果でも、51の方が勝ち、49の方が負ける。
半分も反対の人がいるのになぁ、、、と民主主義では当たり前の光景ですが、なんとなくモヤモヤを感じていました。
これから、その民主主義の違和感の正体に迫りたいと想います

【民主主義は、自我の暴走装置である】
 

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何も知らずとも、主張し判断できる主体は、一つしかない。それは、自我・私権の主体である。自我・私権の主体なら、ほとんど学ばず、ほとんど知らなくても、己に都合のいい理屈を並べたてることは出来る。子どもの言い訳や屁理屈と同じである。
また、民主主義は、自我・私権に立脚しているので全員合意は望めない。だから、多数決で決着をつけるしかなくなるが、この多数決もまた、民主主義が自我・私権に立脚したものであることの証拠である。
事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権(議決権)」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。

 
日本国憲法では、第11条で「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と基本的人権の尊重が宣言されています。1人1人の発言権が平等にある=個人を原点として、誰でも物が言えるようになるということは、奴隷が物言えない時代だった頃からずっと実現したかったことだったんですね。そして、これは金貸しにとっても都合のいいものだったんです!誰もが自分の主張を言い合い、対立が増えた方が金貸しは儲かる(戦争が一番いい事例><)。ユダヤの教えでも“対立する勢力を作る”というのがあるそうです><
 

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第一回普通選挙 こちらから引用

その先鋒となったのが、金貸しが生み出した共認支配の専門家たち=学者や評論家やジャーナリストである。彼らは現実と直対することから逃げて、もっぱら書物から学んで専門家となった連中である。逆に言えば、彼らは現実から何も学ばず、従って、現実を改善してゆけるような実現の論理を持ち合わせていないので、何事も批判し要求することしかできない。
だから、彼らは一様に、民主主義を根拠にして人々にも同じように批判し要求するようにそそのかしてきた。その結果が、自我ばかり肥大させ、何も実現できない(=批判と要求しかできない)無能化された人々である。
要するに、金貸し勢力は、「民主主義」を人々に吹き込むことによって、人々の自我をどんどん肥大化させると共に、どんどん無能化した上で、自分たちの好きなように染脳してきたわけである。
こうして民主主義は、『学び』をないがしろにし、「発言権・議決権」を優先(=批判と要求を優先)させることによって、とことん自我を暴走させると共に、とことん人々を無能化させてきた。
かくして、民主主義に導かれて暴走してきた近代社会は、ついに経済破綻と地球破壊のドロ沼に沈み、そこから這い上がれなくなってしまった。いまや、人類は滅亡の一歩手前にある。
それは、民主主義が自我の暴走装置であり、とりわけ金貸しの暴走を正当化する自我=悪魔の思想であることの、疑問の余地のない証であり、もはや、この期におよんで民主主義を正当化する一切の言い訳は通用しない。

金貸したちは、自分達が一番儲かるようにできている市場拡大の仕組みを徹底的に推し進めました。民主主義に導かれ、みんなも給料を上げ、いい暮らしをするには、自由化・グローバリズム・TPPが必要だと、金貸したちが作り出した仕組みに乗っかり、人よりよい生活を求め続けます。その結果、環境を破壊し続けるなど、全く周りがどうなっているかが見えない=自分のことしか考えない無能と化してしまったのです><!
 

以上で明らかなように、民主主義は、決して共認原理に立脚しているのではない。それどころか、民主主義は、共認原理を破壊する自我原理に立脚している。それが、民主主義の正体である。(※自我原理とは:リンク)
(そもそも、「民が主」というのも自我発の言葉であって、共同体の人々が「自分たちが主」などと言うわけがない)
人々の意識の変革は、民主主義の正体を見抜くことから始まる。
すなわち、制度としての民主主義は自我の暴走装置であり、思想としての民主主義は自我=悪魔の思想であることを見抜いて、民主主義を全的に否定すること。全てはそこから始まる。
そうして初めて、人々は人類本来の共認原理に立ち戻ることが出来るようになる。

民主主義は、自我原理に立脚していることが明らかになりました。
 
「民主主義」に真っ向から疑問を投げかけている方が他にもいらっしゃいます。
長谷川三千子さんです。
☆+* ☆+* ☆+* ☆+* ☆+* ☆+* ☆+* ☆+* ☆+* ☆+* ☆+* ☆+* 
民主主義とは何なのか』より引用
 
 
そして、終章にいたって、長谷川氏はついにこう述べる。
 
 
実はまさに、「思考停止」ということこそ、民主主義が自らの最上の武器、最上の従者として従えてきたものなのである。
 
 
このような「民主主義」の対極に、描いてみせたのは聖徳太子の「17条憲法」の世界であった。
第17条は、こうである。
 
 
「夫事不可獨斷 必與衆宜論
 少事是輕 不可必衆
 唯逮論大事 若疑有失
 故與衆相辨 辭則得理」
 (物事を決めるときには、独断によらず、必ず皆と相談しよう。小事は決断の価値も軽く、これは相談しなくてもよい。しかし大事を決めるときには、あやまりがないかどうか、常に己を疑ってかからねばならぬ。だから、そのときには皆と相談し、お互いの言い分を理解し、誠心誠意考えていけば、おのずともっともよい解決が見えてくるものだ—single4超訳)
 
 一方で我々のもっている理性と、民主主義の有様はどうであるか。
 本書に言う。
「反対者を説得するためにのみ、自らの理性を使い、言葉を使う。それが「議論」というものなのだ、と民主主義者は思っている。
けれども、このような「討論と説得」などというものは、議論のもっとも堕落した形のひとつにすぎないのである」

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本当に事実のみを追求していけば、同じように民主主義の違和感も言葉化していけるんですね。
 

ここで改めて、マルクスを含む近代の思想家たちに、その限界と突破口を提示しておこう。
社会を変えるためには、まず、現実世界を動かしている力の構造を解明し、さらにその構造をもっと根底から突き破ってゆけるような、実現基盤を発掘しなければならない。そうして初めて、現実を動かす変革方針を提示することができる。
近代の思想家および学者や評論家やジャーナリストに欠落しているのは、そのような実現の論理である。
すでに提示したように、実現の論理は、彼らとは全く逆の実現基盤と実現方針を発掘した。改めて、それを掲げておこう。
時代はすでに、私権原理から共認原理に転換した。
重要なのは抽象的な「社会変革」ではなく、現実の生産体の変革である。
つまり、もっとも身近な現実の場である職場を共同体に改革してゆくこと、本当の変革はそこから始まる。

では、最後に全体を整理しておきます

次回は、統合階級の暴走について追求していきたいと想います☆

このブログの『実現論 序』のシリーズ
近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機(上)
近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機(下)
私権時代から共認時代への大転換(上)
私権時代から共認時代への大転換(下)
市民運動という騙し、民主主義という騙し(上)
市民運動という騙し、民主主義という騙し(下)

List    投稿者 mihori | 2011-10-12 | Posted in 07.新・世界秩序とは?3 Comments » 

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コメント3件

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