2010-12-27

連載!『中国は誰が動かしているのか?』 9 鄧小平編

 中国の歴史、権力構造を知るために、今回は「 鄧小平」を特集します。
 その前にこれまでの連載『中国は誰が動かしているのか?』 を列記します。
連載開始!『中国は誰が動かしているのか?』 1 — プロローグ—
連載!『中国は誰が動かしているのか?』2.中国ってどんな国1
連載!『中国は誰が動かしているのか?』3.中国ってどんな国2
連載!『中国は誰が動かしているのか?』4 欧米の闇勢力による対中国シナリオは?
連載!『中国は誰が動かしているのか?』5 欧米の闇勢力と中国内部派閥の関係は?
連載!『中国は誰が動かしているのか?』 6 19C中国に進出する英金融資本、中国の闇勢力が結託して倒清へ

連載!『中国は誰が動かしているのか?』 7 中国に設立された銀行の歴史から英米金融資本家と華僑・客家及
び中国政府との関係を見る

連載!『中国は誰が動かしているのか?』 8 力を付けていった中国共産党の背後には誰がいたのか?
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左側が鄧小平、右側は周恩来
画像はここからお借りしました
 鄧小平は16歳でフランスに留学しロスチャイルド系のルノーで働いていました。1922年に中国少年共産党に入党し、その後、中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となり、3度の失脚を経験しながらも、毛沢東の死後、国家主席となり改革・開放路線を走り始めます。1978年から1992年まで、中国の最高指導者でした。鄧小平時代の中華人民共和国は、政治体制は中国共産党による一党独裁体制を堅持しつつも、市場経済導入などの経済開放政策を取り、中華人民共和国の近代化を進めました。その結果、経済の改革開放が進み、「世界の工場」と呼ばれるほど経済が急成長しました。また中国の金融改革を行い、現在の中国の金融システムの基礎を作りました。中国共産党がアメリカの支援で国民党を破って後、毛沢東の跡を継いだ鄧小平もその繋がりを生かして、中国の発展を目指していったようです。
 彼の人生を振り返ることで、中国の権力構造の解明の一部になるのではないでしょうか。
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【鄧小平の生い立ち】 

1904年、四川省広安県の裕福な客家系地主の家庭に生まれました。
 1920年、16歳のときにフランスに留学します。第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という苦学生でした。パリから遠く離れた市立中等校に入学して節約に励むも、半年で生活費を稼ぐため学校を辞めてしまいます。鉄鋼工場、レストランのボーイ、清掃など、職を転々と変えながらも、堅実に貯金して、1922年10月に再び田舎町の市立中等学校に入学して3ヶ月間学び、パリ近郊のルノーの自動車工場(ロスチャイルド系の企業)で仕上げ工員として勤務します。
 1922年、フランス留学中に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当します。「ガリ版博士」とあだ名されたそうです。
 1925年、中国共産党ヨーロッパ支部の指導者にまでなります。
 1926年、フランス政府に危険分子と見なされ、モスクワに渡ります。鄧小平がパリを出発した数時間後、フランスの警察が鄧小平のアパートを捜査に入り、10日後に国外追放令を出されていたそうです。東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学びました。ロスチャイルドが彼をモスクワに渡らせたという説があります。鄧小平は、若き日、ロスチャイルドの企業ルノーで「教育」を受けました。鄧小平は「共産主義者」と見なされ、フランス警察に逮捕されかかります。しかし、警察が鄧小平のアパートを急襲する直前に、父・鄧文明の所属する中国マフィア洪門会の在フランス支部の支援と、共産主義者レーニン、トロツキーに莫大な資金援助を行っていたロスチャイルドの密通情報により、鄧小平はソ連に逃亡しました。
 1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。
 1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となりました。しかし党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させました。
 1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰。
 1952年、毛沢東により政務院副総理に任命され、翌1953年には財政部長(大臣)を兼任。

ウィキペディアから引用修正
【鄧小平と毛沢東の対立】 

1958年の「大躍進」政策は、農業も工業も生産の目標を現実離れした高いところに設定し、農村を軍隊式組織の「人民公社」に組替えるというものでした。結果として「大躍進」は大失敗に終わり、農村では何万人もの死者が出ました。
 1957年から鄧小平は総書記として指揮を取ります。現実問題の飢餓救済を行うにあたって毛沢東とは全く逆の政策をとらなくてはいけないということに党政治部の誰もが気付いていました。ただ誰も毛沢東を諌める決心がつかなかったのです。ここで鄧小平は腹をくくって先ほどの毛沢東の意見に対して国家主席に劉少奇が適任との意見を述べます。こうなると誰も鄧小平の意見に反対するものはなく、毛沢東はろくに慰留もされず第一線を退くかたちとなりました。鄧小平は、毛沢東に遠慮する様子もなく、大躍進の事後処理をひたすら進めていきました。
 しかし1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放されることになります。鄧小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていきました。この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げてたのですが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えました。
 鄧小平は毛沢東にあてて四千字に及ぶ長文の手紙を書きました。返事はこなかったが、鄧小平はそこであきらめるわけもなく、再び毛沢東に手紙を書きました。この鄧小平の熱意が毛沢東に通じたのか、1973年3月鄧小平は再び北京に副首相として舞い戻るのです。
 1976年1月8日に周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転。第一次天安門事件です。この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚。しかし「四人組」が鄧小平を人民日報などで批判すればするほど、世論の鄧小平を支持する声は高まっていったのです。毛沢東という後ろ盾をなくした「四人組」の威力は次第に衰えていき、鄧小平のいない党中央も四人組を追い払う策を練っていきました。毛の死去から28日後、「四人組」はあえなく逮捕されました。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に三度目の復活を果たしました。国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰します。

鄧小平(Deng Xiaoping)改革開放のレールの敷設者から引用修正
【鄧小平の政策】 

1978年、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られます。第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされました。鄧小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し、事実上中国共産党の実権を掌握したとされています。
 1978年に日中平和友好条約を結びました。翌年は米中国交回復を行ないます。 
 1980年、鄧小平は当初民主化を擁護していましたが、ポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化しました。政治面では共産主義による中国共産党の指導と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経済政策を取りました。計画経済から商品経済へ、行政命令による経済の運営から経済の論理による経済の運営への転換を行いました。これらすべては、かつて極度に権限の集中した「中央集権的計画経済体制」を「商品経済、市場経済」に改めようとするものでした。
 82年の党中央大会で「中国的特色を持つ社会主義」を提唱。84年に香港返還問題について合意文書に調印。
 1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切りました。この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた鄧小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれています。

ウィキペディアから引用修正
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鄧小平来日
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【鄧小平の金融改革】 
 

1976年10月、「文化大革命」による十年の動乱が終息し、銀行システムの再建が始まります。1978年12月に開かれた十一届三中全会において、「文化大革命」およびそれ以前の「左」傾の全面的是正が開始され、改革開放の新しい時代が始まります。銀行業も鄧小平理論の下、改革開放の路線に向います。1977年から今日までの商業銀行の発展はおおよそ以下のような階梯を辿るのです。
 1978年3月には中国人民銀行総行は独立した部級単位としての地位を取りもどしたが、まだその商業銀行と中央銀行を兼ねるという職能の二重性はそのままでした。
1979年初めからは、改革開放の方針の下に、相継いで,専業銀行の恢復が行われました。
 農村金融業務は中国農業銀行の主管、外貿信貸と外国為替業務は中国人民銀行から中国銀行へ移管、長期投資と貸款業務は財政部から中国人民建設銀行へ移管しました。 1981年末には国際金融機構の貸款やその他資金を受け国内企業に転貸するための中国投資銀行を設立しました。 1983年9月17日,国務院は中国人民銀行を中央銀行と明文規定し、信貸や貯金等の商業銀行業務は、新たに設立した中国工商銀行へ移管しました。ここに中央銀行を頭とし、四大国家専業銀行をバックボーンとする銀行システムが成立しました。
 1984年10月、中共十二届三中全会は「中共中央経済体制改革に関る決定」を出した。「計画的商品経済」を発展させるため、銀行システムの速やかな拡張を行います。
 1985年、人民銀行は専業銀行の業務は互いに交錯可能であり、「銀行は企業を選好し、企業は銀行を選好する」という政策措施を出し、四つの専業銀行間での競争を奨励し、かくして銀行資金の「統收統支」的な「供給制」は打破され、四つの専業銀行はさらに農村にまでその触角を伸ばし,当時勃興しつつあった郷鎮企業に対する資金提供を行いました。
 改革開放の進展は、銀行業の改革と発展の動力となりました。1986年12月、鄧小平は「金融改革の速度を速め,銀行を銀行らしくする」ことを要求しました。1987年中国人民銀行は中央銀行の指導の下に、各類の銀行を主体とした、各種の金融機構が並存分業する社会主義的金融システムの構築を主張。1987年の中共「十三」大と1992年の中共「十四」大の精神に基づき,銀行業は改革の中で不断に拡大発展を遂げました。

改革開放30年 ー 中国の商業銀行から引用
【鄧小平と金貸しとのつながり】ロックフェラーと鄧小平が取引をしたという説があるので、紹介します。

1928年、中国の青島で生まれたリリー。その父はロックフェラーの代理人として、中国での石油採掘、販売ルート開拓のため1916年に中国に入国していた。リリーの母の旧姓はイネズ・ブッシュ。後に2代に渡り大統領を出すブッシュ一族の一員であった。リリーは青島で「従兄」のピーター・ブッシュと遊び、幼少時代を過ごした。
 ブッシュ一族もロックフェラーの部下として中国に入っていた。1910年代、約100年前の事であり、中国とブッシュ=ロックフェラー一族の親交の深さが分かる。
 成人したリリーは従兄のブッシュと共に、ピョンヤン(現在の北朝鮮)の外国人学校で教育を受ける。ここでの同窓生、親友達の多くは後に北朝鮮の政府要人となり、リリーはCIA情報官として親友達の行う北朝鮮の「共産主義革命」を強力に支援する。
 71年、中国は国連に加盟し国際社会に「復帰」する。そのためにリリーの「親友」鄧小平が国連に出席し演説する「段取り」と、中国の国連加盟のための「根回し」はCIA情報官リリーが行って来た。
 後に、大統領になる父ブッシュが米国政府の北京事務所(後の大使館)の所長の任務を終え、リリーと共に中国を離れる時、見送りに来た鄧小平は.長年の中国共産党への貢献の「お礼のプレゼント」に何が欲しいかと2人に質問した。ブッシュとリリーは、「中国の軍事施設、諜報組織のどこにでも自由に出入りする権限が欲しい」と答えた。77年9月、ブッシュとリリーが再び訪中した時、鄧小平は全ての中国の軍事施設を開放し、ブッシュ、リリーに自由に出入りさせた。リリーは中国の機密施設を「自由にスパイ」する許可を、後に国家主席になる男から得た。見返りにリリーは、ロックフェラーが南シナ海の石油開発資金を出すプランを鄧小平に提供した。この石油開発プロジェクトから生み出される多額の利益=資金が、中国共産党内部での鄧小平の出世と国家主席就任を確実にさせた。さらにその見返りとして、後に国家主席となった鄧小平は、中国経済を開放しリリー=ロックフェラーに中国市場を「提供」した。この「開放政策」が現在の経済大国中国を生む。鄧小平とリリー=ロックフェラーの一体化が、現在の中国を「生んで」いた。

世界の真実の姿を求めてから引用しました。
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鄧小平がアメリカを訪問
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【まとめ】 
鄧小平は三度の失脚をしながらも、最後は中国の最高権力者にまでなりました。生い立ちからみても、ものすごい活動家でありました。単にアメリカのバックアップがあることで延命した日本の首相とは訳が違うスケールです。
 しかし、この稀に見る活動家をうまく支援して、アメリカは中国を思うように成長させることができたということが見えてきました。
 ヨーロッパもアメリカに負けないように金融システム構築支援などで、これまで中国に対して覇権闘争をしかけてきたようです。現在、中国の最大手銀行である中国工商銀行、中国建設銀行、中国銀行は、株式上場する際、全て米国の銀行に主幹事の担当を依頼しているそうです。特に中国工商銀行は、ロスチャイルドのゴールドマンサックスから26億ドルもの出資を受け、株式上場を果たしているそうです。

List    投稿者 norio | 2010-12-27 | Posted in 07.新・世界秩序とは?2 Comments » 

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コメント2件

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