新しい潮流2 私権統合の崩壊と社会収束の潮流(’90・’00年代)
前回「新しい潮流1」では、貧困が消滅した’70年以降、本源収束の潮流が芽生えたところまでを扱いました。
経済界では、「’90年のバブル崩壊によって、社会が大きく変化した」とのとらえ方が主流ですが、キーワードとなる「本源収束」は、実は’70年からの潮流であり、’90年代はその流れを推し進めただけに過ぎません。
今回は、’90年のバブル崩壊以降をみていきます。
いつもありがとうございます 😀
新しい潮流2 私権統合の崩壊と社会収束の潮流(’90・’00年代)より引用します
’90年代、バブルの崩壊で私権の衰弱が顕在化する。私権観念の土台がグラグラになって社会捨象・観念捨象の防波堤が崩れ出し、急速に潜在的な社会不全→外向欠乏が強まっていく(ニュース番組や事実収集やサークル活動etcの増大=潜在的な社会探索の潮流)。
ただ、私権観念は無効化しつつも、社会や課題や観念を捨象するというマイナス(捨象)面では機能しており、それが社会捨象・課題捨象の充足基調を維持させ続ける(’70・’80年代と同じ)。
しかし、私権に前向きに収束させるというプラス面ではもはや失格で機能せず、その結果、私権の衰弱に応じた潜在思念の本源収束が急速に進んだ(この点が’70・’80年代と異なる所である)。但し、私権制度が残存しているので本源収束し切れずに表層化し、「明るく」「前向きに」「皆仲良く」etc本源風の規範観念に収束した。
注:この時代は私権不全よりも、活力⇒収束先を見失った統合不全(≒自分不全)が中心となり、多くの者が個室収束や自分探しに向かった。
注:統合不全とは本能不全や共認不全を超えた観念不全であり、従来の解脱(発散)では解消されない答え欠乏=認識欠乏が増大してゆく時代でもある。
そして’00年頃、私権統合の崩壊が決定的となり、閉塞感が強まって、遂に私権観念が瓦解した。私権観念の防波堤が破れたことによって、一気に社会不全が大きくなり、私権の衰弱も相まって潜在思念の源泉部が私権不全から社会不全へと大転換した。
社会不全が大きくなれば、外向欠乏が強くなる。しかし、答えがないので課題捨象の充足基調⇒本源収束が続いている。
注:現在(’02年)は、充足基調を維持すべく、潜在思念に増大してゆく社会不全を、「等身大の幸せ」「分り易い言葉」「身近な運動」etcの誤魔化しの言葉に縋ることよって、頭で必死に課題捨象している段階だとも云える。
’90年バブル崩壊、’95年山一証券倒産、’98金融危機と、段階的に私権統合の崩壊現象が表出し、’00年には誰もが社会不全を感じるようになりました。しかし、社会不全を解決できる「答え」がない以上、本源風な言葉で不全をごまかすことしかできませんでした。
次回は、社会不全の答えを求めて、認識欠乏が高まっていく過程を見ていきます。
お楽しみに
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