2012-10-14

日本史から探る、脱市場の経済原理〜プロローグ〜

本ブログ「近代市場の成立過程」シリーズでは、近代の市場システムが確立するまでの歴史をヨーロッパ中心に見てきました。12世紀の十字軍の時代から20世紀初頭の共産主義革命まで、金貸したちは、通貨発行権を力の源泉に、戦争・革命・洗脳によって国家から収奪する、資力支配の仕組みをつくり上げました。
 
翻って現在、全ての先進国は到底返済不可能な巨額の債務を抱え込み、破綻回避のために中央銀行は紙幣を刷り続け、通貨価値と金利は下落し続けています。市場は、創造者である金貸し自身を自滅に追い込みながら、終焉を迎えつつあります。
 

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市場に代わる、新しい経済原理がいま、求められています。
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◆近世以前の日本に新しい経済原理のヒントがある?
 
明治維新で本格的な近代市場の洗礼を受けた日本も、主に米国を拠点とする金貸しの支配下で20世紀を送り、現在、市場の急収縮が始まろうとしています。
 
一方で、欧米の衰退が急速に進む中、日本の持つ可能性も顕在化してきています。’90年のバブル崩壊以降、「失われた20年」を経た現在も、相対的に通貨と秩序は安定し、未だに高い生産力を保っていること。先の大戦では完膚なき敗北を喫しながら、戦後は宗主国アメリカの脅威になるほどの経済成長を遂げたこと。明治維新以前に遡れば、江戸は、鎖国政策によって西欧の侵略を巧みに退けながら、1800年前後には世界有数の人口を誇る循環型都市を実現したこと。
 
これはおそらく、縄文の昔から日本に根付く本源性が、資力支配の市場とは異なる原理を経済に与え、何らかの仕組みとして実現していたためではないかと考えられます。

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室町時代の商店

 
◆日本経済史追求の視点
 
そこで、今回から始まるシリーズでは、古代〜近世までの日本に焦点を当ててみます。日本人は、明治の開国までどのような経済システム(生産・流通・財政・金融etc)の中で生きていたのか。そこに通底する原理とはなんなのか。以下のような視点で経済史を追求する中から、新しい経済原理のヒントを見つけ出したいと思います。
 
●どんな統合体制のもと、税制・財政がどのように運営されていたのか?
●外圧としての中国や朝鮮、欧州との関係をどう取り結んでいたのか?
●モノの生産・流通・貿易はどのような仕組みで行われていた?
●どのような通貨システムをもち、金貸しはいつ登場したのか?
●庶民や職人階級と統合階級を繋いでいたものは?
●当時の経済政策・慣行に影響を与えた思想・観念とは?
 
 
◆日本の総人口と都市人口の推移
 
追求に先立って、当時の社会をイメージするため、日本の総人口と主要な都市人口がどの程度だったのかを大まかに押えてみます。日本の総人口の推移は以下のグラフです。(図はこちらより)

 
上記研究によれば、日本の人口は弥生時代の約60万人から奈良・平安時代は約500万人、鎌倉時代に約700万人、江戸時代に1200万人〜3000万人という増加を見せていたことが分かります。
 
各時代の主要都市の推定人口は、飛鳥京5〜6万人、奈良時代の平城京が約10万人、平安京15〜20万人、鎌倉17〜20万人、1600年頃の平安京と大阪がそれぞれ約30万人。江戸は、1600年頃の約6万人から50年後には40万人、150年後には約120万人まで増加したとされています。
近代以前の日本の都市人口推計
 
現在の20分の1の人間が暮らしていた飛鳥〜平安の時代、人々はどのように経済活動を営んでいたのでしょうか。次回はまず、古代の政治・統合体制および税制・財政の状況から紐解いてゆきます。

List    投稿者 s.tanaka | 2012-10-14 | Posted in 07.新・世界秩序とは?No Comments » 

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