2011-06-02

シリーズ「必要か否かの判断の土俵」その3〜『必要か、必要でないか』という真っ当な判断の土俵が出来てゆく〜

今、『必要か、必要でないか』というフレーズを聞くと、多くの人が「原発」のことを思い浮かべることでしょう。原発の建設、原発推進は、真っ当な判断だったのでしょうか?
また、本来的な『必要か、否か』の判断とはどの様なものなのでしょう?また、真っ当な必要か否か?の判断の土俵とはいったいなんなのでしょうか?
今回は、原発問題を通じて改めて日本人に突きつけられたこの問いに迫って見たいと思います。
あなたは、原発は「必要だと思いますか?必要ではないと思いますか?」
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それでは、超国家・超市場論23 『必要か、必要でないか』という真っ当な判断の土俵が出来てゆく  について見ていきましょう。

考えてみれば、つい最近(前世紀)まで、お金の使い道は、物財か解脱と決まっていた。つまり、それらは当然「必要(有益)」なものに決まっていた。だから、殆どの人はそれを『買えるか、買えないか』としか考えず、それが『必要か、必要でないか』などと考えたことも無かった。
それは、云うまでもなく、私権の強制圧力の故である。私権の強制圧力は、単に主食品のような必需品に対してのみ(=本能を直撃する様な圧力としてのみ)働いていた訳ではない。むしろ、重要なのは、私権の強制圧力が作り出した人々の共認(内容)である。
私権の強制圧力下での、私権不全からの解脱収束先は、物的な快美充足(便利さ・快適さ)と類的な解脱充足(遊興・芸能)および頭の中だけの倒錯観念(古代宗教・近代思想)しかない。その内、解脱はもともと「闘争=生産過程の緊張からの弛緩・発散過程」であり、「必要ではあるが、不充分なもの」なので目的には成り難いが、物的な充足は仕事(闘争=生産過程)と直結しており、目的に成り得る。従って、「物的な豊かさ追求」が、近代を貫く誰もに普遍的な目標共認となった。
そして「豊かさ」が普遍的に共認された目標となると、恐ろしいことに、もはや誰もそれが『必要か、必要でないか』などと考えなくなる。こうして人々は、何も考えずに次々と与えられる「三種の神器」を買い求め続けてきた。しかも、それは’70年、貧困が消滅して私権の強制圧力が衰弱し始めても、変わらなかった。(注:それに対して、第三の解脱収束先であった倒錯観念は、現実否定に基づく頭の中だけの目的なので、否定すべき現実=貧困が消滅するや否や不要となり、今やインテリ統合階級以外、誰も見向きもしなくなった。)

殆どの人はそれを『買えるか、買えないか』としか考えず、それが『必要か、必要でないか』などと考えたことも無かった
「原発」に引き付けて考えてみましょう。
多くの人は(私も含めて)いままで原発が必要か否か?ということを考えたことも無かったのではないでしょうか。(正確には、耳にはしていたので気になってはいたが、すぐ考えなくなったということだと思いますが、同じことでしょうから断定的に表現させてもらいます。以下、同様)
ここで、「考える」の中身にはいくつかあるので、整理をしておきましょう。
1つ目は、原発が安全かどうかを考えたか?その上で必要かどうかを考えたか?
2つ目は、原発が社会的なエネルギー問題として必要かどうかを考えたか?
3つ目は、同様に、現在57基に達する原発はこれほど必要だったのか?
4つ目は、廃炉の問題や核燃料の処理方法はどうするつもりだったのか?
実際のところ誰もが気になってはいたが、マスコミも学者も政治家も電力会社も、「原子力は安全です。不足する電力問題の答えです。」一色だったし、それ以上の情報も無かったので考える動機も強い問題意識も湧かなかった、のではないでしょうか。あるいは、強い問題意識を持っているであろう直接的な当事者の人びと(原発建設地の自治体など)が最終的に認めるのであれば大丈夫だろう、ということもあったと思います。(ほとんどは私がそうだったということを書いています)
以上をわかりやすく言いかえると、判断は廻りに委ねており、廻りに同調していたということでしょう。
>むしろ、重要なのは、私権の強制圧力が作り出した人々の共認(内容)である。
共認とは、共に認めることを意味しており、原発に関しては社会空間の中で多くの人びとの意識を暗に(潜在的に)捉えてそれを認める状態だと思います。自覚すべきは、判断保留なのではなく、実は多くの人と同様に原発を認めていた、ということだと思います。
では、なぜ意識下では原発を認めることになったのでしょう?
それは、やはり都合の良いものだったということになります。
電力不足は困る、便利な生活はできれば維持したい、いや、もっと便利になって欲しい、電気も安くなって欲しい、日本の経済はもっと発展して欲しい、もっと豊かで楽な生活がしたい、という思いが、原発は本当に必要か?原発は本当に安全か?という問いに蓋をしてしまっています。
自戒はこの程度にして、さらに問いを続けてみましょう。
では、なぜ人びとはその様な思いに簡単に流れてしまったのか?
人びとのその様な思いを利用するが如くに、「原発は安全です。電力は不足するので原発は必要です。それが社会を豊かにします。」と宣伝してきたマスコミ、政治家、学者、電力会社の罪はやはり重いのです。知らずに宣伝していたのであればまだしも、事実を隠し、都合の悪い事は言わずに、目先の利益・己の利益を優先し、都合の良いように人びとの意識を誘導した彼らこそが、社会にとって、みんなにとって『必要か、否か?』の土俵に挙げるべき存在なのではないでしょうか。今まで「必要か否か」と考えることを怠ってきたと自覚できる方は、これから真っ当な「必要か否か」の判断をしていくことが次代に報いることになるのではないでしょうか。
では、「必要か否かの判断の土俵」とは?
マスコミも政治家も学者も大企業も(いずれも今まで社会の牽引役とされてきた人々は)、どこかで大きく道を踏み外し、既に信頼に値しないことは明らかです。
今現在、みんなに必要な事実がどこにあるかと言えば、マスコミに替わる『ネット』であり、みんなの真っ当な意識にありますし、そこにしかありません。真っ当な意識とは、『必要か否か』という判断軸であり、それはみんなを対象とした意識からしか生まれません。マスコミや学者らにとっての「必要か否か」は、彼らにとっての「必要か否か」でしか無いからです・・・

だが、’00年、私権観念(「お金第一」「自分第一」で社会のことなど関係ないという観念)が崩壊し、一気に社会不全が膨らむと、遂に「豊かさ追求」という目標共認も溶解し始める。そして、「物的な豊かさ」という目標が溶け崩れて、初めて『必要か、必要でないか』という真っ当な判断基準が潜在思念の奥から姿を現してきた。
しかも、いったん『必要かどうか』という真っ当な判断基準が芽生えるや否や、面白いことに「豊かさ(=快美充足)」だけではなく、「遊興・芸能(=解脱充足)」も同じように『必要か否か』という判断の土俵上に載せられることになる。(例えば、マスコミと政財界をあげて人為的に作られた「タイガース」フィーバーや「ワールドカップ」フィーバーに、虚しさと寒々しさを感じた人も少なくないが、この様な感覚は今後まちがいなく拡がってゆくだろう。)
つまり、『必要かどうか』という真っ当な判断の土俵が出来た以上、「物的商品」も「遊興・芸能」も、「新しい認識」も、全てが同じ土俵上で判断されることになる。この土俵こそ、人々の真っ当な共認が形成してゆく新しい場=演場の基礎構造に他ならない。
だから、『必要か、必要でないか』という認識は、決定的な一つの答えとなる。この認識が伝播するのに応じて、真っ当な判断の土俵が確立されてゆく。そして、真っ当な土俵が出来さえすれば、そこでの必要判断が物や芸能から認識へと、次第にシフトしてゆくことは、云うまでもない。
『認識形成の場』は、この土俵の上に(新しい演場の開拓者として)登場することになる。

『認識形成の場』については、次回以降に具体的に見ていきましょう。

List    投稿者 cosmos | 2011-06-02 | Posted in 07.新・世界秩序とは?3 Comments » 

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コメント3件

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