脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち (6)サティシュ・クマールその1
現代は市場原理に基づく経済システムが実体経済から遊離(バブル化)して、経済は崩壊の危機に陥っています。この経済システムに、過去〜現在に至るまで異議を唱えてきた経済理論家たちがいます。このシリーズではそれらの理論家の思想や学説を改めて見つめなおし、次代の経済システムのヒントを見つけていきたいと思います。
前回は、エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーの仏教経済学を扱いました。
脱金貸し支配・脱市場原理の経済理論家たち(5)エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー
今回は、シューマッハー・カレッジを設立し、西欧近代思想である『自我』と『二元論』を批判するインドの思想家サティシュ・クマール氏を取り上げます。
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クマール氏の最新書籍は、『君あり、故に我あり〜依存の宣言』という題をつけていることからも分るように、デカルトの「我思う、故に我あり」を批判しています。
クマール氏は、インドの思想に根ざし、西欧近代思想である自我と二元論の思考フレーム、自己・個人と他者・集団・社会を対置する二元論、或いは人間と自然を対置する二元論が、戦争、地球破壊、少数の富める者と多数の貧困者、現代人全てにみられる精神不安の根本原因だとみてとります。
それでは、サティシュ・クマール氏を見ていきましょう。
今回は、人物紹介とインド独立の父マハトマ・ガンジーの思想を継承発展させるクマール氏を紹介します。
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【人物紹介】
サティシュ・クマール氏は1936年にインド西部ラージャスターン州の町シュリー・ドゥンガルガルで生まれました。現在は、76歳になります。
家族は、熱心なジャイナ教徒であり、インド農村の伝統的な生活様式(農園で食物を育て、家では糸つむぎと布織を行う)のなかで子供時代を過ごしました。子供時代に大きな影響を及ぼしたのが、母親の生活と考え方です。
(ジャイナ教については、ウイキペディアのジャイナ教を参照)
「自然は、最も偉大な教師なのよ」と家から我が家の農場に歩いているとき、私の母はいった。「ブッダ(仏陀)よりも偉大よ」と母は続けた。「だって、ブッダさえ自然から学んだのよ。木の下に座って、思いやりがあり寛大な恵み深い木々について思いを巡らしているときに、ブッダは悟りを開いたの。ブッダは自分がその下に座っていた菩提樹を見上げながら、樹の充実感や自己実現は、ただ樹そのものであることで、決して一本の樹以外のものになろうとはしないことにある、と悟ったのよ。菩提樹は自分のところに来るものをいつも迎え入れるわ。鳥は巣を作れるし、動物は涼しい木陰で休めるし、みんなが木の実の恵みを受け入れることができるのよ」
母の話を聞く私はまだ八歳だったが、これは私にも理解できる内容だった。母は無学の女性で、読むことも書くこともできなかった。しかし、母は信仰が厚く、直観的な哲学者でもあった。
「結婚して三、四年もすると、何かを失くしたような気がしたのよ」と母は話した。「土地もなく、木々もなく、動物がいなかったから、自分がどうすればいいのか分らなかったの。だから、土地を買うようにお父さんを説得したのよ。」
これは大変珍しいことだった。一般的にジャイナ教徒は農業を営まない。ジャイナ教徒は農業がジャイナ教の中心原理である非暴力の実践に反すると考えている。
しかし、母はこの問題について独自の見方をもっていた。自分たちが食物を食べる限り、誰かがそれを育てなければならない。それならば、自分自身で注意深く育てた方は良いというのである。母は、あらゆる物質的なものを尊重した。物質は霊を運ぶ媒体と見なし、全てのものを畏敬の念をもってとり扱った。
『君あり、故に我あり〜依存の宣言』(講談社学術文庫、尾崎修・尾崎沢人訳、2005年翻訳発行)の「第1章 自然から学ぶ」より
我が家の庭には、野生のプラムの木があった。大きな木で、私はその木に登るのが大好きだった。
「私がこの家に来たとき、庭にはなんにもなかったわ。だから、プラムの木を植えたのよ。私が土に蒔いた小さな種から、こんなに素晴らしい木が育ったなんて凄いじゃない?」再び、母は話す気分なっていた。
母は、変化や生と死、連続性と非永続性についての自分の哲学を説明する比喩として種や木を用いた。「種が木になることができるように、すべての人間も自分の本来持っている力を発揮することができるのよ。種が木になるためには、種は地面の下の、暗くてほとんど忘れられてしまう土の中に、植えられなければならないでしょう。大地と結びつくことで、種は、分離した状態、個性、個別性、自我といったものを捨てるのだわ。実際に、種が大地と一体化することで、その隠れたエネルギーがぱっと解き放たれて、奇跡のように緑の芽がでてくるのよ」
母はこんな調子で話すのを私は覚えている。
同上
9歳のときに、ラドヌンの町でジャイナ教の僧院に入り、宗教指導者トゥルシーのもとで修業を行います。しかし、18歳の時、ガンジーの本を読み、ジャイナ教の僧侶となり自己の内面修行をするだけでは十分でない、自己の内面と共に、社会そのものも変革する必要があるとのガンジーの考え方に共鳴し、ジャイナ教の僧侶をやめる決心をしました。
そして、21歳の時、クマール氏は、ガンジーおよび彼の非暴力と農地改革の考えを実践していたヴィノーバー・バーヴェの弟子になるために南インドのケララ州に向かいました。
1962年、26歳の時、バートランド・ラッセルの原子爆弾に対する市民的反抗によって触発され、クマールおよび彼の友達EPメノンは、インドから核世界の4つの首都へ平和行進を試みることを決心します。モスクワ、パリ、ロンドンおよびワシントンへの行進です。彼らは、全工程を徒歩、無一文で旅する行進、食糧と宿は、人々のお布施に依拠する旅行でした。お布施が得られない時は、食事なしで野宿する旅でした。工程の大半は、しかし、クマール達の考えに共感する多くの人々に支えられ、2年半の旅が行われました。
1973年には、シューマッハーの勧めにより、英国に定住します。そして、ガンジーとシューマッハーの思想を受け継ぐ、スモール・スクール(初等学校)とシューマッハー・カレッジを創設します。
また、エコロジー&スピリチュアル雑誌「リサージェンス(再生)」の編集長を務めています。
【ガンジーとの出会い、ガンジー思想の継承発展】
クマール氏は、ガンジーの思想を受け継ぎ、それを発展させていきます。ガンジーおよび彼の非暴力と農地改革の考えを実践していたヴィノーバー・バーヴェの教え、シューマッハーとの交流などからみていきます。クマール氏の最新書籍『君あり、故に我あり』から紹介しましょう。
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自然の恵み(資源)への敬虔的態度
ガンジーのエピソードから、貪欲・浪費に対置し、自然の恵みへの敬虔的態度を説きます。
あるときマハトマ・ガンジーは、後にインドの初代首相となるネール氏と共にアラハーバードの街に滞在していた。(略)ネールが水差しの水を注いでいる間、彼らはインドの政情について議論していた。真剣な議論に熱中していたため、水差しの水はガンジーが洗顔を終える前になくなってしまった。ネールはいった。「ちょっと待ってください。水をもう一杯汲んできます。」
ガンジーは驚き、いった。「何だって?私は顔も洗い終わらないうちに、その水差し一杯あった水を使ってしまったというのか?なんという無駄をしてしまったのだろう!朝の洗顔のために水差し一杯以上の水を使うことなどなかったのに!」(略)ネールはガンジーの目に涙が滲んでいるのをみて、ますます驚いてしまった。
「なぜ泣いているのですか」とネールは尋ねた。
「私は軽率な浪費家だ。自分が恥ずかしい!」
「このアラハーバードの街は、ガンジス川とヤムナー川という大きな川が二つ流れています。ここでは水は不足していません。あなたの州グジュラートのように乾燥した砂漠地帯ではないのです」
「そのとおりだ。この街には水がたっぷりある。二つの偉大な川が街中を流れてるとは恵まれたことだ。だが、洗顔のための私の取り分は一日水差し一杯だけで、それ以上ではないのだ」
ヴィノーバーにとって、これは自然に対する模範的な姿勢だった。ガンジーは一滴たりとも水を無駄にしたくなかったのだ。浪費は現代社会の大きな欠点の一つである。浪費は暴力であり、自然に対する罪である。
ニューヨークやニューデリーのような近代都市には、山のようなゴミがある。大量生産は大量の浪費を引き起こす。人がその製品を必要としようがしまいが、工場の生産システムを稼動させ、労働者の雇用を確保するためだけに生産を続ける。ソイル(土)のことを心に留めて仕事がなされるなら、浪費はあり得ないだろう。自然界に無駄はない。「すべての人の必要を満たすに足るものが世界には存在するが、誰もの貪欲を満たすに足るものは存在しない」とガンジーはいった。貪欲と浪費が欠乏につながる。配慮と節度が豊かさにつながる。
『君あり、故に我あり』の「第11章 ソイル、ソウル、ソサイエティ(土、心、社会)」より
「未発展」「貧乏」という西欧合理主義の洗脳、陰謀
未開、未開発、貧困という分類を持ち込むのは、西欧合理主義の洗脳であり、陰謀だと指摘します。
マハトマ・ガンジーは法定弁護士のスーツを捨て、腰布を身にまとった。イギリス国王と会うためガンジーがロンドンを訪れたとき、彼は記者団に「国王との謁見に相応しい格好をしないのですか?」と質問された。これに対しガンジーは「心配無用です。国王は私たち両方のために十分すぎるほどの服を着ていますから」と答えた。チャーチルはガンジーを侮蔑して「半裸の托鉢層」と呼んだ。しかし、ガンジーは何百万人という人々から崇められたのである。
西欧の合理主義者たちは、なにごとも分類するという確固たる習慣を持っている。彼らは世界を、発展と未発展、富者と貧者、文明と未開、教育をうけたものと無学なものなどに分類してきた。もし分類が理解のためだけのものであれば、それには一理あるが、分類はある階級を他の階級の上に位置づけるために使われる。つまり、富めることは貧しいことよりも良いことで、発展することは未発展であることよりも良いことなのだ。
何千年もの間、自分たちのことを「貧乏だ」とか「未発展だ」とか「未開だ」とか考えもせず、素晴らしい素朴な生活を営んできた人々が世界中に存在する。ラージャスターンの私の家族も、裕福で先進的とされるものに付随する虚飾や雑事とは無縁の生活をしていたが、自分たちを「貧乏だ」と思ったことはなかった。私たちは私たち自身であり、「人間」であって「所有者」ではなかった。
多くの部族文化や農民社会は、戦争、腐敗、公害、核兵器、人口爆発、搾取、麻薬汚染などとは無縁の生活をしてきたし、今でもしている。にもかかわらず、私たちは、彼らを貧困で未開の人々と呼び、「発展」の必要性がある、という。物質主義的な西欧思想は彼らに、自分たちは貧乏だと考えることを教え、豊かになるために闘うことを教える。富めるものは広告を介して、人々に劣等感と不十分で人並みの生活をしていないと感じさせるようなイメージを示す。それはまるで、素朴で農村的な伝統的地域文化と地域経済を切り崩す暗黙の陰謀のようだ。
『君あり、故に我あり』の「第17章 貧しさと進歩(シューマッハーからの考察)」より
インド独立には、伝統的な生産への回帰が必要
ガンジーの独立運動は、伝統的な生産への回帰を目指したものであり、その象徴が「紡ぎ車」だと論じます。
かってインド経済は、地域経済のパラダイム(理論的枠組み)の中に根づいていた。農業、園芸、陶芸、家具製作、金属細工、宝石細工、革細工、その他の多くの経済活動は常に地域的なものだった。最も顕著なことは、織物の手仕事が村の暮しの中心にあったことだ。それぞれの村落には地付きの紡ぎ職人や梳き職人、染め職人がおり、彼らは地域経済の心臓部だった。しかし、機械生産で大量生産されたイギリス製の布地がインドに流入し溢れたとき、在来の織物生産は急速に廃業に追い込まれていった。それ故に、ガンジーは、地域で手作りされる織物の職人仕事を再生することが不可欠だと考えたのである。ガンジーは個人の自立と民族独立の象徴として、紡ぎ車を選んだ。
多くの人々は、インドの独立が紡ぎ車を通じて獲得されると考えるのはあまりにも認識が甘いと議論した。なぜなら、彼らの独立の概念は、権力をイギリスの手からインドの手に渡すということに限定されていたからだ。しかし、これはガンジーの考えとはまったく違っていた。ガンジーにとって、経済的また政治制度の変化なしにただ権力を移譲することは変化でもなんでもなかった。ガンジーは強者や権力者による搾取から人々を自立させることを望んだ。
ガンジーの紡ぎ車は躍進した。さまざまな生い立ちの何十万人もの人々が、イギリスから輸入されたりインドの工場で機械生産された衣類を火にくべた。彼らは自分たちで糸を紡ぎ、布を織ることを学んだ。自家製の布を織りそれを着ることは、インドの解放のために尽力する人々の象徴となった。
『君あり、故に我あり』の「第19章 コントラストの国」より
糸紡ぎを自ら行うガンジー。写真はリンクから
手仕事によるスワデーシ(地域経済)こそが必要
伝統的な手仕事とスワデーシ(地域経済)の価値を説きます。
手仕事の伝統をインド経済の基礎に置き、スワデーシ(地域経済)を復活させるのがガンジーの夢だった。
インドの精神と魂は、常にインドの村落共同体と共にあった。「本当のインドは、数少ない都市にではなく七十万の農村にこそ見出される。もし、村々が滅びるならば、インドも滅びるだろう」とガンジーはいった。村落共同体や小さな町に住み、自分たちの農場や手仕事からの生産物によって公正な生活を営む、自治的で自立し、自己組織された自営の人々の連邦、というのがガンジーのビジョンだった。
経済がその地域の自然資源と人的資源の上に成り立っているなら、すべての共同体はそれ自身の大工、靴屋、陶工、棟梁、手仕事職人、修理屋、農民、織り手、教師、金貸し、商人、楽師、絵描きなどを擁するようになる。言い換えれば、それぞれの村落共同体は社会全体の縮図となるのである。ガンジーにとって、このような地域共同体である村落は非常に重要であり、それは「村落共和国」という地位を与えられるべきだ、とすら考えていた。
地域経済(スワデーシ)は仕事の尊厳を復活させる。手仕事には本質的に価値が内在する。そのような仕事に関わるとき、私たちは自らの存在の美的、精神的、創造的側面を表現することができるのだ。
ガンジーはこう書いている。「数百万という人々が彼らの手を手として使うことを止めてしまったのは、最大の悲劇である。自然は我々に、手という偉大な贈り物を授けた。機械生産の狂気が続くなら、いつの日か我々はあまりに無力で弱くなり、神から与えられた生命の機械の使い方を忘れてしまった自分たちを呪うようにさえなるだろう。競技や運動によって数百万の人々の健康を保つことはできないし、なぜ有用で生産的なしっかりした仕事の代わりに、無意味で非生産的で高価なスポーツや競技をしなければならないだろうか?大量生産は生産物のことしか考えていないのに対し、大衆による生産は生産物と生産者、生産過程を考慮に入れている」
インドにおける地域に根ざした経済は、共同体精神やその人間関係、共同体の福利を強固なものにする。このような経済は相互の助け合いを促進する。現在とそして未来の世代の利益のために、村落共同体の成員たちは自分たち自身の面倒を見、彼らの家族や隣人、家畜や土地や森林、その他すべての自然資源の世話をする。
大量生産により、人々は自分たちの村落や土地、手仕事や農場を離れて、都市に移り住んで工場で働く羽目に陥った。ベルトコンベアに向かって立つとき、彼らは機械の歯車となる。大量生産のシステムがスラムや貧民街を生んだのだ。
貨幣経済の根底には、ますます高速で動く効率的な機械がある。結果的に、多くの男女が失業というスクラップの山に積み上げられてしまう。このような社会は、国家に依存して、或いは通りで物乞いをして生きる、拠り所もなく仕事もない何百万もの人々を生み出す。
地域経済(スワデーシ)においては、機械は労働者に従属するものでなくてはならない。機械が主人公となり、人間の活動の速度を決定すべきではないのだ。同じように、市場は共同体に仕えるべきで、人々を市場に適用するように強制すべきではない。
『君あり、故に我あり』の「第19章 コントラストの国」より
知足(足るを知る)の経済、平和の経済
現代の経済学者や実業家は「足るを知らない」人々であると断罪し、知足の経済、平和の経済を説きます。
グローバリゼーションは地域経済の対極にある。グローバリゼーションでは、各国は国際収支を自国に好ましいようにするために、より多くを輸出し、より少なく輸入しようとする。これが、恒常的な経済危機と慢性的な失業を引き起こし、結果として不平不満が生まれる。人々の不満に対処するため、持続的な経済成長と消費者をより快適にするという約束が提示される。しかし、充実感や満足、充足感は幻想のままなのだ。
ガンジーはこういっている。「ある程度の身体的快適さは必要だ。しかし、ある一定水準を超えると、それは助けではなく障害となる。故に、無制限な欲求を創造し、それを満足させるという理想は妄想であり、罠であるように思える。人の身体的必要の充足は、それが身体的退化へと陥る前に、ある一定の水準で終わらせなければならない。ヨーロッパの人々は、彼らがその奴隷となりつつある快適さの重圧の下で朽ち果てないために、自らの態度を改めなくてはならないだろう」
経済成長と原料の供給元、そしてその製品のための市場を守るために、国々は戦争をする。軍事的紛争の根は経済的紛争の中にある。故に、もし平和な世界を創造しようと望むなら、私たちは平和な経済を創造する必要がある。「大邸宅に住むことを望むより、人々は村落共同体に暮し、素朴な家に住まなければならない」とガンジーはいった。何百万という人々が常により高い生活水準のために争っているならば、彼らはお互いに平和のうちに暮らすことは決してできないだろう。もし私たちがお互いの国を原料の供給元か、もしくは完成した工業製品のための市場として見ているなら、真の世界平和は不可能だ。戦争の種子は経済拡大によって蒔かれる。なぜなら、経済学者と実業家たちはもう十分だというときを知ることができないからである。各国が非常に高い生活水準に達してもなお、彼らは経済成長という観念を追い求める。足るということを知らない者たちにとっては、どれだけ多くの物を持っていても十分ではないのだ。しかし、一方で、足るということを知った者たちは、自分がすでに十分な物を持っていることを悟ることができる。
地域経済は平和の経済である。第一に、個人に平和をもたらす。心に平和を持っていれば、人は常により多くを追求することから解放される、第二に、人々の間に平和を育む。狂ったような競走や乗っ取りはなくなり、管理し支配しようとする欲望もなくなる。第三に、自然との平和的関係を促進する。もはや大規模な森林破壊や大気汚染、水質汚染はなくなる。故に、地域経済は平和のための緊急課題なのだ。
『君あり、故に我あり』の「第19章 コントラストの国」より
次回は、『君あり、故に我あり』の第4部で展開されている、クマール氏のデカルト批判、西欧近代思想に対置する「関係をみる哲学」を紹介します。
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