BRICs徹底分析〜インド編 その3.インドの指導者(知性)は、決して欧米に屈服はしない
前回は、独立後の経済政策の動きをみてみました。
インド経済が市場主義を強めて行く1990年代以降、その経済政策決定に深く係わってきたのが、現在のインド首相である、マンモハン・シン博士です。
(BRICs首脳会議。右からシン首相、胡錦濤・中国国家主席、メドベージェフ・ロシア大統領、ルラ・ブラジル大統領)
シン首相は、1932年生まれの77歳、ケンブリッジ大学を卒業し、オクスフォード大学で博士(Ph.D.)を取得している経済学者の顔をもっています。
シン首相は、欧州基準では、オックスブリッジのPh.D.という超エリート層です。そして、1970年代からの世界経済と欧米の対途上国政策を見続けてきた長老でもあります。
今回は、脱欧米という「新・世界秩序」への動きの中で、インドの可能性を探る意味で、シン首相に代表されるインド指導者(インドの知性)を紹介してみます。以下の3人です。
1.欧米の手の内を熟知しているマンモハン・シン首相(77歳)
2.ノーベル経済学賞もつインドの知性アマルティア・セン博士(77歳)
3.食糧グローバリズムを鋭く批判するヴァンダナ・シヴァ科学哲学博士・女史(58歳)
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1.欧米の手の内を熟知しているマンモハン・シン首相(77歳)
経済指導者としての長い経験
1932年、パンジャーブ地方西部のガー村にシク教徒の子として生まれる。<1932年当時は英国植民地>シンは貧しい環境で育ったため、貧困克服の手段を学ぶことで故郷への貢献を果たそうと経済学者を志す。
パンジャーブ大学で経済学を学び、1952年に学士、1954年に修士の学位をそれぞれ取得する。
1955年にはイギリスのケンブリッジ大学セント・ジョーンズ・カレッジに留学。ここで彼は優秀な成績を収めた学生に送られる「アダム・スミス賞」と「ライト賞」を授与されている。さらにオックスフォード大学ナフィールド・カレッジでも学び、1962年に博士課程を修了してPh.D.を取得する。<オックスブリッジでの修養は30歳>
インドに帰国後、パンジャーブ大学とデリー大学で経済学の教鞭を取る。同時に国際連合貿易開発会議(UNCTAD)にも勤務。
その後中央政府の官僚となり、インド外国貿易省とインド大蔵省の経済顧問。1976年から1980年までの期間にインド大蔵省の事務次官を務めた。<80年大蔵事務次官は48歳>
1982年から1985年までインド準備銀行(中央銀行)総裁、1985年から1987年まで経済計画委員会副委員長、1990年から1991年まで首相経済諮問委員会委員長を務める。
1991年6月、国民会議派のナラシンハ・ラーオ政権で大蔵大臣に就任した。当時インドは経済危機に直面していたが、シンは首相のラーオとともに経済危機克服に乗り出し、今までインド政府が行ってきた社会主義的な計画経済の代わりに市場主義経済を導入した。<91年大蔵大臣は59歳>
この略歴をみると、シン博士は、インドの貧困解決には欧米風の市場経済が必要だと考えていたのです。
71歳にして請われて首相就任
2004年のインド総選挙で国民会議派が第一党となり、国民会議総裁ソニア・ガンディーがシンを首相に指名。シンは、インド独立以来ヒンドゥー教徒以外で初めての首相に就任。
2009年のインド総選挙において国民会議派中心の政党連合・統一進歩同盟が勝利。シンは同選挙後も首相を続投。任期満了後の下院選挙を経て続投する首相は初代のジャワハルラール・ネルー以来の2人目となる。
シン政権は、ラーオ政権のときに自らが大蔵大臣として進めた経済改革路線を継続し、経済の自由化を推進している。その一方で貧困対策にも力を注ぎ、地方の日雇い労働者に対する賃金補償や、農民に対する債務免除などの政策を実行した。
中国とは戦略的パートナー関係の構築を目指し、首脳同士の交流も盛んに行う。2005年に温家宝総理、2007年には胡錦濤国家主席がインドを訪問。2008年にはシン首相が中国を訪問。
米国とは関係強化を図っており、2007年7月に米印原子力協力を妥結している。
日本とも関係強化を目指しており、2006年12月に日本を訪問、国会で演説を行う。
シン首相の日本へのメッセージ
国会演説では、日本敗戦後の東京裁判で、唯一無罪を主張したパル判事に触れている。パル判事の無罪主張は、欧米諸国が日本に代表されるアジアの隆盛を押さえ込む戦争だったとの理解です。
日本とインドは文明的にも近い国であります。我々の最も古い絆を形成するのが、共通する遺産でもある仏教です。二つの文化は歴史を通して交流し、豊かさを増してきました。1000年余り前、インドの僧侶ボディセナ(菩提僊那)は、東大寺の大仏開眼供養に参列するため奈良を訪れました。近代においては、タゴールと岡倉天心が、アジアの偉大なる両国の間に理解の新しい架け橋を築きました。
科学技術の発展に基づく明治維新以降の日本の近代化と、戦後に日本再建の基となった活力と気概は、インドの初代首相であるジャワハルラル・ネールに深い影響を与えました。ネール首相は、インドが日本と緊密な絆を結び、その経験から学ぶことを望みました。
1952年、インドは日本との間で二国間の平和条約を調印し、日本に対するすべての戦争賠償要求を放棄しました。戦後、ラダ・ビノード・パル判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています。
首相の国会演説
シン首相は、パル判事へ言及することで、欧米から距離を保つことを日本に要請したのです。
また、インドはマネー資本主義の暴走に対して警戒していて、金融工学が生み出した怪しげな金融商品に対する投資を禁止していました。だから、リーマンショックのダメージが少なくて済んでいます。
現在77歳のシン首相は、英国植民地時代のインドに生まれ、オックスブリッジに留学することで西欧思想を学びながらも、半世紀に渡って、欧米の対アジア政策を冷静に見極めてきたことが伺えます。
シン首相の経験と知性には、欧米からの洗脳工作が通用しないと見ることができます。
次に登場するセン博士(左)の書籍『The Argumentative Indian(邦訳議論好きなインド人)』を賞賛するシン首相
(出典:インドの新聞 THE HINDU Pluralism is India’s message: Manmohan)
2.ノーベル経済学賞もつインドの知性アマルティア・セン博士(77歳)
インド数千年の伝統意識をもった上で、シン首相と同じく経済学をめざし、1998年にノーベル経済学賞を受賞したのが、アマルティア・セン博士です。
インド古典に囲まれて成長し、欧米での長い経歴
1933年にベンガルで生まれる。
センはインドの東ベンガル州(現在のバングラデシュ)の名門を輩出する一族の出身で、センの母方の祖父は、ヒンドゥー哲学と中世インド文学の名高い権威のある学者クシティモハン・センだった。祖父は、ノーベル文学賞受賞者ラビンドラナート・タゴールの親しい同僚。センの父親アシュトシュ・センは、ダッカ大学(現在、バングラデシュ)で化学を教えていた。
アマルティアとは「永遠に生きる人=不滅の人」という意味。名付けたのはインドの詩聖と言われアジア人初のノーベル賞に輝いたラビンドラナート・タゴール。
セン博士の幼少期は、インドの古典を身近にして育っている。
9歳の時に、200万人を超える餓死者を出した1943年のベンガル大飢饉に出会う。センの通う小学校に飢餓で狂った人が入り込み衝撃を受ける。またこの頃、ヒンズー教徒とイスラム教徒の激しい抗争で多数の死者も出た。
これらの記憶や、インドはなぜ貧しいのかという疑問から経済学者となる決心をした。
カルカッタ大学経済学部を卒業。1959年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで博士号取得。本人曰くアダム・スミスとカール・マルクスに影響を受けたと。<Ph.D.取得は26歳>
その後コルカタ大、デリー大、マサチューセッツ工科大学、オックスフォード、ハーバード、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなどの大学で教鞭を執る。ハーバートの経済・哲学教授は、1988年〜1998年まで。
1997年から2004年まではケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの学寮長を勤め、2004年1月ハーバード大学に戻っている。
貧困と飢餓を分析する『厚生経済学』
セン博士の代表的な著作は、1981年の『Poverty and Famine(貧困と飢餓)』である。ベンガル飢餓の分析を下敷きにし、飢餓は食糧不足が原因ではなく、市場システムが原因であると論じている。
ベンガルの飢餓。価格が上昇し、イギリス軍による通貨の強制獲得、パニック購入、貯蔵、およびぼったくりの要因のため、食料が急速に無くなった。
食料総量は、田舎の肉体労働者と都市のサービス提供者を含む人々の適切な食物供給量が有ったことをデータに提示した。例えば、ベンガルでは飢饉の前よりも食糧生産量があった。
多くの社会的経済の要素として減退する賃金や、失業や、上昇する食品価格や、不十分な食品流通などのこれらの問題はあるグループ社会で飢餓につながった。
1998年のノーベル経済学賞受賞に関するセン博士の記事。
セン教授は現在、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの教授だが、福祉に関する研究でノーベル賞を受けたことをとくに喜んでいる。「単に利潤をどう増やすか、成功した事業をどう管理するかといったこととは別の研究が、賞の対象に選ばれたことがよかった。福祉経済学では、富の分配や普通の人間の生き方を掘り下げて考察する。これは重要なテーマで、これまでこのテーマを専門に研究する者がいなかったことのほうが驚きだ」という。
「彼は普通のエコノミストとは違う。むしろ哲学者なのだ」と国連大学世界開発経済研究所のコルニア所長は指摘する。同所長はいま、研究所恒例の年頭講演をセン教授に依頼するつもりだ。セン教授にとっては、経済モデルなどよりも、社会問題、福祉、貧困、所得配分、飢饉などのほうが、ずっと心に訴える問題なのだ。
国連大学世界開発経済研究所のセン博士にノーベル賞
セン博士の文明論とインド論
セン博士のエコノミストではなく、哲学者として記したのが『議論好きなインド人』です。
第Ⅰ部 声と異端(以下は編)
議論好きなインド人。 不平等、安全の欠如、そして声。
大きなインド・小さなインド。 ディアスポラと世界。
第Ⅱ部 文化とコミュニケーション
タゴールとかれのインド。 私たちの文化、かれらの文化。
インドの諸伝統と西洋の想像力。 中国とインド。
第Ⅲ部 政治と異議申し立て
運命との約束。 インドにおける階級。
女と男。 インドと核爆弾。
第Ⅳ部 理性とアイデンティティ
理性の射程。 政教分離主義その批判。
暦から見るインド。 インド人のアイデンティティ。
『議論好きなインド人』から、セン博士が述べている一端を紹介します。まずは、古代インドとギリシャとの比較。
古代サンスクリット語叙事詩『ラーマヤナ』、『マハーバーラタ』は、しばしば、『イリヤッド』や『オデユッセイア』と比較されるが、その長さは謙虚なホメロスがものにした作品をとてつもなく凌駕する。実に「マハーラナヤ』だけでも、『イリヤッド』と『オデユッセイア』を足した分のおよそ七倍長い。『ラーマヤナ』と『マハーバーラタ』は偉大な叙事詩である。
私は、知的な刺激と純粋な娯楽を求める、せわしない青年としてこれらの作品に初めて出会ったとき、自分の人生がどれほど豊かなものになったか、大いなる悦びとともに思い出す。
次は、インドの思想的多様性と相互の寛容さについて。
インドの永い伝承のなかでうけいれられてきた異端説を理解することは、きわめて重要である。仏教徒、ジャイナ教徒、不可知論者、無神論者らは、紀元前第一千年紀にかれら自身のあいだで、あるいはヒンドゥー教とのあいだで、お互いを競い合った。
紀元前三世紀に討論と論争の実施における、おそらくは世界最古の規則を定式化したのは、仏教徒であったインドの帝王アショーカである。かれは寛容の必要と異端説の豊かさを指摘しただけでなく、敵に対しては、「いかなる場合でも、あらゆる形で、正しく敬意をはらう」べきだとした。
この政治原則は、その後のインドにおいて、繰りかえし議論の対象となってきたが、寛容とさまざまな宗教から国家が等距離を保つ必要性とを最も強力に擁護したのは、インドのムスリム皇帝、アクバルであった。
これは古代インドよりはるか後の時代、1590年代にうちだされたのであったが、それでも、この時期のヨーロッパでは異端審問が全盛を極めていたことからすれば、依然として充分早い試みであった。
セン博士から感じるのは、古代インドの「観念・概念」を背景にして、ギリシャ・ローマ及びユダヤ教を基点とする西欧の「観念・概念」を凌駕する視点です。
論じる時間軸が、千年紀単位というのが凄いです。
3.食糧グローバリズムを鋭く批判するヴァンダナ・シヴァ科学哲学博士・女史(58歳)
ブログ記事が長くなりましたので、ヴァンダナ・シヴァ女史は、次回に扱うことにします。下に写真だけ載せておきます。
次回は、ヴァンダナ・シヴァ女史に加えて、植民地時代の民族実業家を扱ってみます。
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