2010-10-20

【シリーズ:新しい認識だけが、現実を変えていく】(3)〜社会運動の総括1 現実否定の自己欺瞞〜

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「不全発の「変革の必要」では、否定意識に閉ざされた思想派しか集まらず、全く可能性が感じられない、しかも、否定意識や不可能視に囚われているので、『新しい認識』が与えられても半信半疑のままで終始し、必要な行動に至らない。」
【シリーズ:新しい認識だけが、現実を変えていく】(2)
より

不全発の変革意識に対する疑問が浮上した所で、改めて歴史を振り返って、過去の社会運動を総括してみます。
考えてみれば、いわゆる「社会運動」は一度も実現されたことがありません。つまり、史上の「社会運動」は全て偽物、ということです。とすれば、「社会運動」の奥には大きな欺瞞が隠されている筈です。

今回は、原始時代と古代思想を比較することによって、古代の思想運動の自己欺瞞性を明らかにします。


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るいネット「社会運動の自己欺瞞」より

1.原始時代は、祈るだけしか出来なかったが、それは近代の「否定するだけ・要求するだけ」とは全く異なる。原始人は、集団が一丸となり、潜在思念の全てをかけて自然を対象化しているのに対して、近代人は自我に基づいて社会を否定しているだけである。
同類闘争という観点から見ても(そこでは当然、敵に対する否定意識が存在するが)、それは直ちに闘いに直結しており、近代の様に要求するだけという状態は有り得ない。

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  (現在に見られる自然崇拝の名残)

木から落ちたカタワの猿である人類は、極限的な自然外圧下で、対象(自然や動物など)の中に自分たちの期待に応えてくれる“何か”(=可能性)を懸命に探索するだけではなく、同時に、対象が自分たちに期待している“何か”(=これも可能性)を、やはり全身全霊をかけて発見しようしました。

「万物はまず、存在を認めて(or肯定視して)欲しいと思っている、そして、何かの(誰かの)役に立ちたいという思いを持っている」と始原人類は捉えていたのではないか・・・、例えば“火の使用”であれば、自分たちの期待に応えてくれるものとして「暖かさを与えてくれる」ということを発見しただけではなく、「火は自分(たち)に何を期待しているのか? 役に立つように使えないということは彼らの期待に背くことなんだ、だから何としても彼らの期待に応え切れるまで探索・追求を続けよう・・・」
『精霊』とは『期待意識』でなく『応合意識』


このように、原始時代の「祈り」とは対象を注視することであり、その後の人類が、自然界のあらゆるものを道具や材料として役立て、全方位的に科学技術を発展させてきたのもこの流れなのです。

2.古代の思想運動(孔子、釈迦、キリストetc)
原始人は、絶対的な自然圧力を前にして、とことん自然を対象化した。しかし、古代人は自然圧力ではなく(自然圧力に比べれば変革が容易な筈の)敵対的な現実の共認圧力を絶対的な壁として不動視し、その現実を否定的に捨象した。
換言すれば、古代人は現実の共認圧力を捨象して全く対象化しようとはしなかった。そして専ら、頭の中の本源回路を代償充足させる為の、感応観念(価値観念や規範観念)に収束した。

原始時代の自然外圧に加え、その後の人口増大に伴い同類闘争(戦争)圧力が高まりました。そして、遊牧民族のユーラシア規模の民族大移動によって、以下の地域に遊牧民の農地支配による都市国家が形成されました。

  中国における殷・周の形成
  ギリシャにおけるドーリア人の侵入
  メソポタミアへのイラン人侵入
  インドへのアーリア人の侵入
  パレスチナへのイスラエル人の侵入

土地を巡っての縄張り闘争=同類闘争(戦争)の結果、本源充足の基盤であった共同体が解体され、大衆は支配され奴隷になり、被支配民族は日常的な苦しみからの脱出=救いを求めるようになります。
その後、ほぼ同時期(今から2600年前)に仏教、儒教、ユダヤ教という古代宗教が登場します。

古代宗教の観念「あの世」「神」「神の愛」「神の前での自由・平等」などは、現実の苦しみを頭の中だけで代償充足するための感応観念であり、大衆の救い欠乏に応えることによって古代宗教が広がっていきました。

彼らは、何故、現実の共認圧力を対象化できなかったのか?
それは、共認圧力というものが、単なる対象物ではなく、自分自身(の生み出したもの)に他ならないからである。
つまり、彼らが否定する現実とは、彼ら自身の私婚・私権の共認や、力の追共認に基づいて作られた現実である。従って、現実を否定する以上、自分自身の存在(自我や私権や力を求める下部意識)の否定に向かわざるを得ない。
実際、彼らは頭の中だけで自らの存在(下半身)を否定して、感応観念に収束した。観念の倒錯である。しかし、現実の存在(自らの下半身)を頭の中で否定することはできても、現実に否定することは出来ない。そうである以上、頭の中だけで現実=自らの存在を否定するのは自己欺瞞であり、その自己欺瞞の故に意識と存在(思想と現実)は必然的に断絶し、分裂することになる。

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  (現世の苦しみから脱却するために、人々は宗教にすがるが・・・)

例えばユダヤ教やキリスト教では、厳格な一対婚(一夫一婦)が要求されていることからも明らかなように、私有婚・私権が共認されています。
私有婚・私権が共認されている以上、性闘争・私権闘争の発現は必然であり、実際、現実は武力闘争の時代でした。

にもかかわらず、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」「神のもとではみな平等である」などといった欺瞞観念で私権闘争を否定しようとするから、思想と現実が断絶してしまうのです。
このような現実から乖離した思想が現実を変えられる訳もなく、宗教が掲げる理想社会は「あの世」に持ち越されることになります。

これが、古代の社会運動である「宗教」が偽物=現実を変えることができない理由です。


近代になると、宗教活動家に替わって近代思想家が社会運動の担い手となりますが、これも結局は現実を変えることなく、大衆から見捨てられてしまいます。
次回は、近代社会運動の総括です。お楽しみに

List    投稿者 watami | 2010-10-20 | Posted in 07.新・世界秩序とは?No Comments » 

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