BRICs徹底分析〜ロシア編その2 プーチンが引継いだ自由化路線の「負の遺産」
先回はロシア編その1として、小麦禁輸措置からロシアの農業生産、農業政策を紹介しました。
今回は、1991年のソ連崩壊から、2000年のプーチン大統領誕生までの10年間に起こった、ロシア自由化路線の「負の遺産」をレポートします。
ソ連の崩壊
計画経済
政府は需給関係ではなく、政治的配慮からものの値段を決めていきました。例えばパンや電灯光熱費は実際にそれらを生産するコストより低く価格が設定されました。この為、穀物よりも最終製品であるパンの方が安いので農家が家畜に飼料ではなくパンを与えるということも平気でおこなわれていたそうです。そういう非効率に加えて労働者のモチベーションを維持するのが困難であったこと、さらに価値の分配に際していちいち監督・監視しなければいけないので経済の「間接部門」が肥大化したことなどが徐々にソ連の計画経済を活力の無いものにしてしまったわけです。
ソ連は1917年ロシア革命に始まり、1991年に幕を閉じました。
当時、党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンは1991年のソ連8月クーデターの鎮圧に活躍し、同年12月にソ連が崩壊し、初代のロシア連邦共和国大統領となりました。
1989年ベルリンの壁崩壊の後、2年後の出来事です。
1991年、ソ連8月クーデターの際にロシア最高会議ビルの前で戦車の上に立ち演説を行うエリツィン
しかし、ソ連崩壊後、ロシアは一気に市場経済を導入しようとしたものの、ショック療法による体制移行は、ハイパーインフレーション発生と経済成長率のマイナス転落という結果を招き、苦境に陥りました。
1998年までにはロシアの経済規模は10年前の約半分程度迄縮小し、この過程でロシア国民が味わった辛苦は1929年のNY市場の大暴落に端を発する大恐慌の時以上だったと言われます。
図は、UFJ総合研究所のロシア経済は回復を持続できるかからお借りしました。
計画経済の破綻から市場経済に転じたロシアは、どのような経緯で苦境に立つことになったのでしょうか?
また、ロシアの大衆は市場経済主義をどのように認識していたのでしょうか?
1.ロシア経済の経緯
2.市場経済へと意識転換できない、膨大な下層(貧困)階級
3.主要産業を独占したロンドンに在住するオルガルヒ
4.外貨準備不足〜IMFの干渉、欧州金融資本の影響
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1.ロシア経済の経緯
まずは、ロシア市場経済の経緯を見てみましょう。
1992年 ガイダ—ルの「ショック療法」
「ショック療法」の施行第一弾として1992年1月から電灯光熱費や一部の食材を除く殆どの品目に関して価格統制が取り払われました。当然の結果としてその直後、ロシアはハイパー・インフレに見舞われます。価格の値上がりを容認する狙いは退蔵されている商品を市場に引き出し、物資の不足を解消すること、また、儲ける機会を提供することで生産を刺激することにありました。しかし、長年の共産主義のリズムに慣れたロシア経済が、瞬時に新しいスピードについていけるはずはありません。経済の混乱はすぐに解決するどころか混迷はますます深まり、政府の内部でも経済改革を押し進める決意は揺らぎました。
広瀬隆雄氏「ロシアの経済史(その1)
1991年にエリツインによって副首相に任命されたガイダールは、ゴスプラン(国家計画委員会)の総責任者となり、いきなり市場経済へ移行します。結局、うまく行かずに、打開策としてエースのアナトリー・テュバイスを登場させます。
1994年チュバイスの「バクチャー民営化」
チュバイスはロシアの市場経済移行初期にあって最も傑出した行政手腕ならびに交渉力を持っていた人物です。また、世界銀行やIMFに対する心証もすこぶる良く、このロシアの混乱期に一連の改革が成就できたのはチュバイスの働きによるところが大きいと思います。チュバイスの最初の大きな仕事は国営企業を民間に払い下げる仕事でした。この払い下げにあたり、バウチャー、つまり将来株式を購入する権利が記された引換券が国民に配布されました。これが所謂、バウチャー・プライベタイゼーションと呼ばれる方法です。
広瀬隆雄氏「ロシアの経済史(その2)
こうして、まがりなりにもロシア政府は1994年までに国営企業の過半数の株式を払い下げることに成功しました。ところが、当時ソ連のエリートにとって自分の地位がおびやかされる危険を察知して反動勢力となります。そこでチュバイスらは反動勢力を懐柔し迅速に民営化を推進するために工場の管理・監督者達に沢山の引換券を割り当てるという譲歩を余儀なくされます。これが後に「赤い重役達(レッド・ディレクターズ)」と呼ばれる旧勢力が市場経済移行後のロシアでも一定の影響力を維持する原因となります。
寡占の起源
1992年8月に発表されたバウチャー・プライベタイゼーション計画では1992年9月以前に生まれた全てのロシア人にひとりあたり額面1万ルーブルの引換券が発行されました。この引換券を手にした国民は個々の企業が払い下げられるのを待ったわけですが、大多数の国民は株式市場というものは見たこともないし、それが将来、どういう富を生む可能性があるかを理解するのは土台無理な事でした。多くの国民が街頭に登場した引換券売買の闇業者に安値で引換券を売り渡してしまったのは無理もありません。こうして業者によって買い集められた引換券はだんだん一部の富豪に買い集められました。これがのちにオルガルヒ(豪商)と呼ばれる資本家がロシアの産業界を牛耳るきっかけとなったわけです。
広瀬隆雄氏「ロシアの経済史(その2)
市場経済へと意識転換できないロシア市民の実態がここに見られます。また、その隙間を利用して、後に新興財閥として成り上がってゆくオルガルヒの原点を見る事ができます。
しかし、折角、民営化が進められたにもかかわらずロシアの経済は依然混迷の極みの様相を呈しており、エリツィン大統領の人気も落ち目でした。エリツィンは大統領選挙にむけて挽回策を練る必要がありました。しかし、国庫は払底しているし、共産主義の復活を願う勢力は日増しに隠然たる影響力を強めています。後に禍根を残すこととなった局面打開の為の方便が登場した背景にはこのような陰鬱な経済的閉塞感が少なからず影響していたことは見逃せない点だと思います。
1995年 ローン・フォア・シェアーズ
ウラジミール・ポターニンです。彼はインテロスという持ち株会社を支配していたのですが、資金繰りに困っている国営会社に融資(ローン)をつける代わりに、経営にも口出しさせて呉れ、という取引を提案します。そうすれば大統領選挙でもエリツィンを支持するという暗黙の了解がここで交わされたわけです。
ローン・フォア・シェアーズ方式による融資要請は内閣で検討され、1995年に大統領令として発布されます。これを受けてウラジミール・ポターニンは元ソ連の鉱山公社であったノリリルスク・ニッケルを、そしてミハイル・ハダルコフスキーは大手石油会社のユコスを乗っ取ります。ここで問題となるのは折角、政府が温存していた民営化後の持ち株が融資(ローン)という名目で、二束三文でこれらの狡猾なビジネスマンに掠め取られてしまった点でしょう。
広瀬隆雄氏「ロシアの経済史(その2)
2.市場経済へと意識転換できない、膨大な下層(貧困)階級
ロシア人の印象はウォッカ大好き、ノー天気、気難しい反面、人懐っこい人柄を想像してしまいます。そう、まさにエリツィン!
「ロシアの歴史は本当に苦難に満ちていて、個人の所有権とか権利とかを二の次にするところがあるので、現代の世界で他の国に伍していくにはむかないところがある。」と述べておられる河東哲夫氏のロシアはどんな国、ロシア人はどんな人たちなのか?から引用させていただきます。
農村共同体(「ミール」)と農奴制が残したもの
ロシアでは、所有権に対する社会的通念が欧米と長期にわたって異なってきた。
英国の場合、①16世紀から農地の囲い込み、②カトリック教会資産の民間への売却(これによりジェントリー階級を創出した。彼らは後の産業化に出資する)、③17世紀清教徒革命で絶対主義的諸利権・規制を自由化したこと等、村落共同体による「集団所有」から「個人所有」の原則を社会の主流とすることによって、民間投資活動を活発化させたのである。もしかすれば、個人の私的所有権を重視するローマ法の伝統が西欧社会には一貫して残っていたのかもしれない。
これに比してロシアでは、土地を所有している貴族は寄生的な存在にとどまり、土地は農民が集団的に差配していたようだ。人口の大半を占める農民は、農奴として土地に縛り付けられ、全ての市民権を奪われていたが、村の耕地は農民達が村会で話し合って割りふっていたようである。
成長より分配
市場経済においては、成長(緊縮財政)と分配(拡大財政)の時期が繰り返される傾向がある。緊縮財政への転換はどの国においても厳しいものがあるが、それは政権交代によって可能となっている。ところがソ連においては、前出の「プロレタリア独裁」が共産党独裁の形で続いたために、数十年にわたって分配に傾いた政策が取られていた。機械設備は戦後ドイツから持ち帰ったものを数十年にわたって用い、その更新テンポは遅々たるものだった。食品価格・交通価格には手厚い補助金がつけられ、住宅は順番さえ来れば無料で配分されるという、手厚い福祉社会が維持されていたのである。その代わり自由とモノはなかった。工場では軍需生産が優先され、企業長として成績の上げにくい耐久消費財生産は工場の片隅に追いやられていることも多かったのである。
私的所有権よりも集団所有に重きを置き、自由とモノに恵まれていなくとも、如何に上のもの(指導層)が汚職や利権に塗れていようが、上等なキャビアが食えなくてもウォッカとパンさえあればそれを良しとする大衆意識が垣間見えます。そのような意識の元で、市場経済主義を導入しようとしても失敗に終わってしまうことは前に紹介したとおりです。
膨大な下層階級にとって、額面1万ルーブルの引換券(バウチャ)などは、その日に飲むウォッカのために、あっという間に消えてなくなるのは、当たり前のことなのでしょう。
3.主要産業を独占したロンドンに在住するオルガルヒ
田中宇氏のロシア・ユダヤ人実業家の興亡より引用させていただきます。
1990年代後半のロシアには、7人の大資本家がいた。ボリス・ベレゾフスキー、ウラジミル・グシンスキー、ミハイル・ホドルコフスキー、ウラジミル・ポタニン、ミハイル・フリードマン、ウラジミル・ビノグラドフ、アレクサンダー・スモレンスキーの7人で、彼らは「オリガルヒ」と呼ばれてきた。
1987年にソ連で銀行の設立が自由化された際に相次いで金融業に進出し、1991年にソ連が崩壊した後、為替市場で通貨ルーブルの下落を利用した取引で儲け、経済システムが変わって財政難に陥った中央や地方の役所にその金を融資することで権力の中枢に食い込み、儲けを急拡大させた。
何人かのオリガルヒはテレビや新聞などのマスコミ企業を買収し、自分たちを敵視する政治家を攻撃するキャンペーンを展開できるようにした。オリガルヒは「7人合わせるとロシア経済の半分を支配している」とベレゾフスキーが豪語するまでになった。
オリガルヒ7人のうち5人がユダヤ人
アメリカのユダヤ人が発行しているオンライン雑誌「フォワード」の記事などによると、7人のオリガルヒのうち、ベレゾフスキー、グシンスキー、ホドルコフスキー、フリードマン、スモレンスキーの5人がユダヤ人である。
ロシアのユダヤ人人口は、公式な統計では全人口の0・15%で、混血者を含めても人口の約3%である。こんなに少ないのに、ロシアを支配する7人の大富豪のうち5人がユダヤ人であるという]のは、どういう理由によるものなのだろうか。すぐに思いつくのは「欧米の大資本家の中にはユダヤ人が多い。彼らがロシアを支配する目的で同胞に金を出したのではないか」という見方である。
田中宇氏のロシアの石油利権をめぐる戦いより引用させていただきます。
アメリカの中枢に食い込んだホドルコフスキー
また2001年末にはイメージアップ戦略として、ロシアの国有企業を乗っ取ってためた巨額の資金を使い「開かれたロシア」という教育関係の財団をロンドンに設立した。そしてこの基金の理事に、イギリスの銀行家で貴族のジェイコブ・ロスチャイルド卿を迎え入れることに成功した。
ロスチャイルド卿は、近代の初めから現在まで世界の金融を支配しているとされ、イスラエルの建国にも多大な貢献をした「ロスチャイルド家」の当主を1980年までつとめ、今も一族の系列の金融機関をいくつか経営している人物である。そんな超大物がホドルコフスキーと関わり合いを持ってくれたのは、ホドルコフスキーが世界第4位の石油会社の支配権を持っていたからだろう。
ロスチャイルドが理事になってくれたおかげで、アメリカの外交政策に大きな影響力を与えてきたキッシンジャー元国務長官までがオープン・ロシア財団の理事に就任した。ホドルコフスキーは、ロスチャイルド、キッシンジャー、カーライル、AEI、カーネギーといった「世界を支配している」と目されている勢力の人脈の中に入った。
金貸しのロスチャイルドまで登場します。オルガルヒに資金を投入しロシアを支配する構図が見えてきます。
4.外貨準備不足〜IMFの干渉、欧州金融資本の影響
1998年 ロシア外貨危機、IMFの融資、ドル流出
1998年7月20日、IMFは国際融資団の総額226億ドルの緊急融資パッケージのうちのIMF分として、112億ドルの融資を発表します。このうち初回送金分の48億ドルがすぐに用立てられたのですが、この資金はルーブル相場維持の為に投入され、あっという間に費消してしまいます。なぜなら資本逃避を試みるロシアの金持ち達が「政府がルーブル相場を支えている間に逃げ出せ!」とばかりどんどんルーブルをドルに換金し、スイスの銀行などに送金してしまったからです。結局、ロシア政府は利払い停止とルーブルの切り下げを発表せざるを得ませんでした。1999年1月までにはルーブル相場は98年夏の水準から75%も下落しました。
広瀬隆雄氏「ロシアの経済史(その3)
IMFは、金貸し(欧州金融資本)の資本逃避のためロシアに融資をおこなったのですね。ルーブル下落によるロシア経済の信用失墜など実は想定内の出来事でしかなかった。
かくして
市場経済移行の代償
これまで見てきたようにロシアの計画経済から市場経済への移行の第一ラウンドは経済の混乱、過半数のロシア国民の困窮化など、悪いことばかりだったと言えます。1989年の段階では貧困層はロシア国民の2%に過ぎませんでしたが、1998年にはこれが約24%にまで急増しました。ロシアの「虎の子」である資源産業はごく少数のオリガルヒ(豪商)の手に渡ってしまいましたし、彼らは急いでその富を国外逃避させてしまいました。のちにユコス事件でオリガルヒに対してプーチン政権が厳しい追及を始めた背景にはこのような社会的不公平に対するロシア国民の憤りがあったことは見逃せないと思います。
広瀬隆雄氏「ロシアの経済史(その3)
ロシアの市場経済は以上のような経過を踏み21世紀を迎えました。次回は「負の遺産」を引き継いだプーチン大統領による「プーチンの逆襲」を紹介します。
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コメント3件
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gbc | 2011.06.16 9:50
決して疑るつもりはないが、この証言の信憑性ってどんなもんなんだろう、民間人なので身分も明かせないだろうし、隔靴掻痒の感があります。