2010-06-02

BRICs徹底分析〜中国編その3.経済挫折は政変(指導交代)により起こる?

前回は、中国経済の弱点、3つの格差問題を分析しました。 
 
現在の胡錦濤・温家宝政権の内陸部重視政策、或いは農村重視政策により、地域格差と都市/農村格差は、一定の改善が図られつつあります。しかし、所得格差は、中国の社会体制(共産党主導体制)と密接に絡んでいる為に、いまだ、改善見通しがついていないのです。 
 
今回は、中国の社会体制・共産党指導のあり方が、いかに、経済挫折とつながっているのか、みてみます。中国共産党が、中華人民共和国を建国して以来の経済状況と政変(指導者交代)の推移を歴史的にみていきます。 
 
1.過去5回の経済挫折は、政変が原因で起こった
2.90年代末の成長率鈍化は、どうして起こったのか?
3.2008年の世界金融恐慌に対処する財政出動の陰にある路線対立 
 
そして、次回には今後の政治体制の安定度、しいては、経済の挫折が起こるのかどうか、中国バブルの崩壊はあるのかを分析します。 
 
ところで、5月31日〜6月1日の3日間、温家宝首相が日本訪問を行いました。 
 
この温家宝氏は、今回登場する3代の共産党指導者(総書記)、胡耀邦、趙紫陽、江沢民の秘書長(共産党中央弁公庁主任)を務め、政治的混乱が如何に経済成長を挫折させるかを身をもって知っている人物です。 
 
  china301.bmp 
  代々木公園で太極拳の練習を行う温家宝首相
  (写真は、人民網日本語版の配信、温家宝総理が東京で市民と一緒に太極拳リンクから) 
 
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1.過去5回の経済挫折は、政変が原因で起こった 
 
沈才彬教授の基本分析 
 
多摩大学の沈才彬教授は、中国経済の挫折は、政変(指導者交代)により起こっていると分析しています。

過去5回の経済挫折はすべて政変の年に起きた 
 
1回目は、1967年に起き、その年の経済成長率は▲7.2%でした。皆様ご存じのとおり「文化大革命」の翌年です。すなわち、1966年に中国では文化大革命が起き、大混乱に陥ったのです。 
 
2回目の挫折は、1976年です。この年、鄧小平さんは3回目の失脚を経験したのです。そしてその年、毛沢東さんが亡くなられました。その1ヵ月後に、中国ではクーデターが起き、毛沢東さんの側近である文化大革命の推進者でもある「四人組」が逮捕されたのです。1976年の経済成長率は▲2.7%でした。 
 
3回目の挫折が、1981年です。この年には、中国の共産党のトップであった華国鋒さんが、鄧小平さんとの権力闘争に負けて失脚したのです。その年も中国の経済成長率は、大幅に下落したのです。 
 
4回目の挫折が、1986年でした。この年には、中国共産党の総書記であった胡耀邦さんが、民主化運動で失脚したのです。その年も中国の経済成長率も大幅に下落したのです。 
 
5回目の挫折は、私が来日した1989年です。天安門事件が起き、そして中国共産党総書記であった趙紫陽さんが失脚したのです。その年の経済成長率は一気に7ポイントも下落したのです。 
 
ですから過去40年間において、中国経済の挫折は、すべて政変の年に起きたということです。これは中国の経済の特質的構造にやはり原因があると私は思います。 
 
中国経済の現状と見通し(下)から抜粋引用

GDP成長率の長期推移、経済挫折と成長加速を確認 
 
では、中国の経済成長率の長期推移を確認してみましょう。1973年からです。そして、共産党指導者の交代を合わせてみてみます。(下図。ポップアップです。) 
 
 
 
確かに、沈氏が言っているように、5回の経済挫折は政変(指導者交代)の時期に起こっています。 
 
逆に、経済成長の加速の動きを簡単にみてみます。1978年以後の成長加速と1992年以降の加速です。 
 
1978年、鄧小平氏の改革・開放政策の発動 
 
中国の改革・開放政策(計画経済から市場経済への転換)は、1978年からです。この年、鄧小平氏が日本を訪問し、新幹線に乗り、自動車工場・家電工場を見学し、資本主義の優れた点に学べと号令を発し、今までの人民公社と国営企業という「計画経済」体制の中に、市場原理を導入しようとしたのです。 
 
この脱計画経済を具体化したのが、後に総書記になる趙紫陽氏です。人民公社生産から農家請負生産への転換を行い、郷鎮企業(零細な自営の工業・商業企業)を導入していったのが、四川省の趙紫陽書記だったのです。
また、広東省の書記である習仲勲氏(現在の習近平国家副主席の父親)が、経済特区の導入を行っています。習仲勲氏はこの功績により、中央に呼び寄せられています。 
 
趙紫陽氏は、華国鋒氏が失脚する前年の1980年に、鄧小平氏により、首相に抜擢され、中央で改革・開放政策を推進して行きます。これが、1983年〜1985年の2桁成長につながります。 
 
胡耀邦・趙紫陽の失脚(86年と89年)により、経済成長は5%を切ってしまいます。この二人は、経済の改革・開放政策と共に、政治的な改革を志向しました。具体的には、共産党末端での党責任者選挙の導入と地方政府(村や中小都市)での責任者公選制度です。 
 
この政治的改革は、共産党の指導体制を崩壊させる危険を伴っていたので、二人とも、相次いで失脚してしまいました。 
 
1991年、鄧小平氏による南巡講話による加速 
 
趙紫陽氏失脚の後、共産党指導部は、経済の改革・開放政策にブレーキをかけます。例えば、陳雲氏です。鳥を市場に例え、「市場は計画の枠内に閉じ込める」とした鳥篭理論を打ち出し、保守派重鎮として、改革開放論者の鄧小平と対峙しています。 
 
この経済停滞に危機感をもった鄧小平氏は、1991年に、武漢、深圳、上海などを巡察し、保守派のいる北京中央に対して、「南巡講話」を発し、改革開放政策の加速を指令したのです。
時の江沢民総書記も、鄧小平氏に従う事となり、有名な「社会主義市場経済」の原則が1992年に固定されています。これが、92年〜96年まで続く、2桁成長です。 
 
現在の中国経済の基礎は、現実主義者鄧小平氏の改革・開放政策によって出来上がっているのです。 
 
 
2.90年代末の成長率鈍化は、どうして起こったのか? 
 
経済成長の長期推移の図では、1998年〜2001年にかけて、成長率が7〜8%と停滞する時期があります。 
沈教授の分析を援用すると、背後に政変(政治的混乱)があるのではないかとなります。そして、指導者交代では、1998年に首相が、李鵬氏から朱鎔基氏に代わっています。これを政変と呼べるのでしょうか。 
 
台湾関係(対米関係)の緊張 
 
1996年からの政治的な動きをみてみましょう。 
 
1996年に、台湾において、総統の直接国民選挙が行われ、李登輝氏が当選しています。この選挙に際して、中華人民共和国は台湾の独立を推進するものと反発し、総統選挙に合わせて「海峡九六一」と称される軍事演習を実施、ミサイルを台湾向けに発射しました。一方、米国は、2隻の航空母艦を台湾海峡に派遣して牽制し、両岸の緊張度が一気に高まりました。 
 
前年1995年に、江沢民総書記による台湾統一への呼びかけをしていますが、その呼びかけを無視する形で、総統選挙が進行したのです。 
 
1997年には、香港が返還されています。香港は「一国二制度」として、一定の自由度が与えられていますが、香港政府の責任者は北京の任命です。当然ながら、香港市民の不満が噴出しました。 
 
1995年から、江沢民政権は、台湾問題・香港問題にてこずっていたのです。 
 
江沢民総書記の権力基盤を巡る軋轢 
 
江沢民総書記は、1989年の天安門事件の時、上海の学生・労働者デモを抑制したことで、鄧小平氏に抜擢されて、趙紫陽氏失脚の後を継いだのですが、共産党中央及び解放軍中枢に基盤がありませんでした。 
 
そこで、共産党中央及び解放軍中枢に、人事権を梃子にして基盤をつくっていきます。1995年、1996年は、江沢民総書記が、共産党中央及び解放軍中枢で、一定の基盤を形成した時期です。 
 
経済政策よりは、対外的な政治を重視する江沢民総書記が、1995年から対外的な強硬策をとりだしたのです。しかし、台湾問題に見られるように、江沢民氏の思うようにはいかず、主に対米関係で妥協を迫られました。 
 
この強硬策、妥協という動きは、共産党中央で権力闘争をもたらしました。 
 
天安門事件以来、首相職にある李鵬氏や共産党の理論面を担当する喬石氏等と江沢民総書記との対立が陰で起こっていたのです。 
 
最終的には、江沢民総書記が、解放軍の予算を大幅に増やすことで、解放軍中枢を味方につけ、李鵬首相の退陣(1998年)で決着したのです。 
 
その後も、1999年のNATO爆撃機(米軍爆撃機)によるベオグラード中国大使館のミサイル爆撃問題、2000年の台湾総統選挙への強硬干渉があり、対米関係が緊張しています。 
 
やはり、1998年〜2001年の経済停滞の陰に、政治的緊張(政変)があったのです。 
 
参考:ウイキペディア、江沢民・党総書記・国家主席の項 
 
写真は、1998年11月25日、東京・元赤坂の迎賓館で開かれた非公式夕食会で、ご満悦の表情を浮かべる江沢民国家主席。この時の日本訪問では、日本の中国侵略問題を訪問する先々で指摘し、日本人をうんざりさせました。 
 
  china303.bmp 
 
 
3.2008年の世界金融恐慌に対処する財政出動の陰にある路線対立 
 
最後に、2008年と2009年の経済挫折ですね。2008年の成長率は前年の11.4%から9.6%に落ち込み、2009年はさらに8.7%まで落ち込んでいます。 
 
その原因は、リーマン破綻(2008年9月)からの世界経済大恐慌の中国への波及です。
そして、中国政府がとった対策が、大幅な財政出動による経済失速の防止でした。 
 
この対応策に対して、政治的な路線対立があったのでしょうか? 
 
イヴァン・ウィルさんの分析から紹介します。 
 
2008年9月のリーマン・ショックにより、引き締め策から財政出動へ転換

2008年前半までの中国政府による金融引き締め政策は、株や不動産のバブルが大きくなりすぎることを警戒したものであったが、それによって輸出産業にブレーキが掛かったと感じた一部の人々は、「今はまだ引き締めをする時期ではない」と反発していたようである。 
 
北京オリンピック終了直後に、予想していなかった外的状況の変化が起こった。2008年9月15日にアメリカの名門投資銀行のリーマン・ブラザーズが連邦破産法の申請をしたことに端を発した世界的な金融危機の発生、いわゆるリーマン・ショックである。中国における北京オリンピック終了後のバブル崩壊が来る前に、中国の外の世界経済の方がはじけてしまったのである。 
 
中国の輸出産業は、欧米などの輸出先の経済危機の影響をまともに受けた。広東省や上海周辺など沿岸部の労働集約型輸出産業では、工場閉鎖等が相次いだ。 
 
世界各国がリーマン・ショック対策を議論する中、中国は金融引き締め策を急きょ転換し、素早く大きな経済対策を発表した。このスピーディーな対応は、一党独裁政権ならではのものだったと言える。2008年11月9日、中国政府は2010年末までに総額4兆元(約60兆円)に上る景気刺激策を実施する旨を発表したのである。 
 
この総額4兆元の景気刺激策の発表においては、住宅などの民生、農村・農民対策などが掲げられていたが、金額的なパーセンテージで見ると、この景気刺激策は、鉄道、道路、空港等の建設や災害被災地の復興・復旧で全体の7割を占めるなど公共投資型のものであった。 
 
経済対策バブルと「抵抗勢力」の肥大化。下記も同じ。

高度成長至上主義と調和社会・マクロ経済調整主義との隠れた路線対立

現在の中国の政治勢力は、「とにかく猛スピードで経済成長を成し遂げ、社会の最下辺の人々の生活をも向上させることにより、社会に不満を溜めないようにすべきである」と考える勢力と、「経済成長のスピードをやや抑え気味にしてでも経済格差を是正するとともに社会のセーフティ・ネットを充実させて社会の最下辺の人々の不満に対応すべきである」と考える勢力の二つの勢力がある。 
 
前者が江沢民政権の考え方を引き継いだものであり、後者が「和諧」を強調する胡錦濤主席が主張している政策である。
前者の考え方は大きなバブルを招く可能性がある、として、後者の立場に立つ人は、常にバブルがはじけないように経済をコントロールしようとする。 
 
リーマン・ショックでは、こういった立場の違いによる議論を無意味にした。 
 
とにかく緊急の対応策が必要となったからである。そのため、後者の立場の人も、バブルを警戒した引き締め政策を当面は封印せざるを得なくなった。前者のいわば「高度経済成長至上主義派」の人たちは、中央政府が景気刺激策を打ち出したことにより、自分たちが「錦の御旗を得た」と考えて、急速な投資活動に走るようになった。それが結果的に、中国内陸部における消費の拡大に繋がり、2010年5月現在、中国経済全体の復活を引っ張り、結果的にそれが世界経済の回復を大きく押し上げているのである。 
 
しかし、現在の中国の景気刺激策に基づく急速な消費の拡大は、公共投資型景気刺激策が効いているものであって、バブル的な不動産価格の高騰を伴っているものであり、バブルがはじける危険性を常にはらんでいる。

大型財政出動が、バブル崩壊と政変につながるのか中国は目が離せません。 
 
上海万博が終了すると、中国バブルが破綻するとの指摘もあります。一方、沈氏が指摘しているように、経済挫折は、政変が起因で発生するとの説をとるならば、次の指導者交代時期である2012年の共産党大会までは、安定してるのでしょうか。 
 
2012年の共産党大会の最大のテーマは何でしょうか。それは、第二次天安門事件の再評価問題であり、胡耀邦氏と趙紫陽氏の復権、政治への国民参加要求の許容が隠れたテーマだと思います。 
 
その意味で、2010年4月15日の人民日報(共産党機関誌)に掲載された温家宝首相の「胡耀邦」氏の人徳に言及した論文が注目されます。 
 
温総理が「人民日報」に胡耀邦氏を偲ぶ文章を発表 
 
それを含めて、2012年に向けた政治的動向、経済挫折の可能性の分析を第4回で行います。 
 

List    投稿者 leonrosa | 2010-06-02 | Posted in 07.新・世界秩序とは?2 Comments » 

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コメント2件

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