2011-01-11

止まらない円高=世界通貨戦争どうなる?〜ブレトン・ウッズ体制後の円ドル推移〜

こんにちは
前回ご案内の通り、ブレトンウッズ体制後の円ドル相場の推移を調べていきます。
円ドル相場では、昨年9月15日に野田財務相が6年半ぶりに為替介入を行ったことを発表したことは、皆さんも記憶に新しいところではないでしょうか?戦後最高値となる79円75銭を割り込むかどうか?という緊迫した状況下で、円売りドル買いを行った結果、現在の円ドルレートは1ドル80円強を小幅に行ったり来たりという値動きが続いています。 🙄
ちなみに、今から6年半前に行った為替介入と言えば、俗にいう「日銀砲」が有名です。
当時はイラク情勢の影響などにより、投資ファンドが円高を見込んで世界中からマネーを集めて円買い攻勢を強めていました。
危機感を抱いた政府日銀は総額30兆円にも上る為替介入を実施。円買いを進めていた投資ファンドが結局思ったように円高誘導を実現できず、早々に撤退して目的達成したことは有名です。威力の大きさと効果から、日銀砲という愛称 が付けられたようです。
少し脱線しましたが、改めて。
今回記事では、戦後暫くは円ドル固定相場で、1ドル360円という今では考えられない値段が設定されていた頃から、現在の80円前後に至るまでの過程を、円ドルレートグラフを元におさらいしてみたいと思います。
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元の画像はウィキペディアよりお借りしました。
◇ブレトン・ウッズ体制下での日本の復興(東洋の奇跡)
第二次世界大戦の末期:1944年7月に、アメリカのニューハンプシャー州にある一地区「ブレトン・ウッズ」で、45ヶ国が参加して連合国通貨金融会議が開催され、翌年の1945年に国際金融の枠組みが発表される。
ここで、戦後、世界に存在する「金=ゴールド」の実に75%以上を保有していたアメリカの通貨であるドルと、金との交換比率を決定し、各国の通貨はドルとの交換比率を固定する体制(俗にいうブレトン・ウッズ体制)になった。※これにより、基軸通貨はイギリス:ポンドからアメリカ:ドルへと完全に移行
円はブレトン・ウッズ体制の発表後1949年、1ドル=360円の固定相場が設定され、この為替相場は以後22年間日本経済を支配することになる。
この体制下で西側諸国を初め、特に日本では1950年代〜1970年代初めにかけて高度経済成長を実現し、「東洋の奇跡」とよばれるまでの復興を遂げることになる。
◇アメリカから金が流出、ニクソンショックへ
先のブレトン・ウッズ体制で基軸通貨国となったアメリカは、過大な輸出入によって世界中にドルを浸透させることになり、他国への支配も強めることにもなった。
しかし、同時に他国はここぞとばかりに戦中失った金を取り戻そうと、アメリカへの輸出で儲けたドルと金の交換を進めたため、金も大量に流出させることになってしまう。
そこで、アメリカはこれ以上の金ドル交換は不可能と一方的に判断し、1971年金ドル交換停止を当時のリチャード・ニクソン大統領が全世界に発表(ニクソン・ショック)。これによって、世界中の紙幣は実物=金と交換できない、不換紙幣となる。
この発表は国際通貨体制を根底から覆す内容のため、全世界を震撼させた。
1ヶ月も経たない内にG10会議の場が設けられ、通貨体制の安定に向けて協議が開始される。
そこで、アメリカ側は自国の事情(社会福祉費の増大や、ベトナム戦争の巨額支出)を踏まえて、先進国と通貨の増価(ドル安誘導)交渉に入っていく。
日本としてもアメリカの要望を受け入れる形で、ニクソンショックと同年の1971年に、G10でのスミソニアン協定に調印。
1ドル=308円の固定相場を決定する。
◇固定相場制から変動相場制へ
しかし、スミソニアン体制後も、肝心のアメリカでは、国際収支の悪化が止まらない。
そこで、1972年にイギリスがいち早くこの体制に見切りを付け、変動相場制に移行したことを皮切りに、1973年3月までに先進国が続々と変動相場制へ移行していく。
日本も同年に変動相場へと舵を切った。

ここで、アメリカの国際収支の悪化によって、各国が変動相場へ切り替える理由は何か?を考えてみる。
例えば、日本で考えると、1ドル308円体制で円をドルに替えたいと考える人より、ドルを円に替えたいと考える人が圧倒的に増えてくるとどうなるか?(当時は、高度経済成長により日本からアメリカへの輸出が盛ん)
固定相場を維持するためには、ドルを円に替えたい人の需要を満たすために、日本銀行がドルを受け取って308円を支払うことになる。
これが進めば、日本銀行内部にドルがどんどんたまる一方、日本銀行は円をどんどんだしてしまうため、世間に出回る日本円がどんどん増えていくことになる。
日本円が多く出回ると、通貨に対して物価の価値が上昇するインフレリスクが上昇することになる。
その問題を解決するために、需要と供給のバランスを市場に委ねる変動相場制が取られることになる。
参考:MBAホルダーが語るノンネイティブへの道より
◇プラザ合意締結後に一気に円高へ
変動相場制へ世界が舵を切った後、円ドルレートは円高ドル安へ向けて為替相場が動き出す。
1978年に170円台半ばまで進んで以降、アメリカのレーガン大統領によるインフレ対策としての高金利政策も影響して、ドルが買われ、ジワジワと円安ドル高へ向かっていく。
インフレ対策は一息ついたが、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」が深刻さを増していく。
そんなアメリカ経済の先行き不安を感じ始めた先進国は、通貨危機を懸念して、協調的なドル安介入を図ることで合意(プラザ合意)。
戦後一貫している、日本の経常収支黒字はますます巨大化し、アメリカの対日貿易赤字が顕著であったことから、実質的に円高ドル安に誘導する内容となる。

プラザ合意によって、たった1日で円ドルレートは1ドル235円から約20円下落。1年後にはドルの価値はほぼ半減し、150円台で取引されるようになった。
参考:ウィキペディア
●日本の不動産バブルとの関係
プラザ合意による円高誘導が、その後の日本バブルの原因になったと指摘する意見は多い。
恣意的な過度の円高によって、円高不況を予測した政府は、低金利政策を実行。
低金利によってダブついたマネーが不動産や株式市場へ流れ込み、投機を加速させた。
行き過ぎたバブル経済を沈静化させようと、不動産への融資総量規制と利上げを行ったことで、1990年にバブル経済は崩壊に至る。
◇戦後最高値 1ドル=79円75銭を記録!
バブル崩壊後も一貫して円高ドル安基調は続いていく。
そして、1995年4月19日、1ドル=79円75銭の戦後最高値を記録する。
1985年のプラザ合意後の強烈な円高傾向にあっても、日本の輸出企業は徹底した合理化と工場の海外移転を進め、アメリカの対日赤字は膨らむ一方であった。
不満を募らせるアメリカは、1989年〜1990年にかけて「日米構造協議」によって、日本の市場開放や経済構造の改革などの膨大な要求を突きつけ、対日圧力を一段と高めていく。
◇1996年〜1998年にバブル崩壊の影響が深刻化。海外との金利差広がる。
1996年に住専問題の深刻化を契機に、1997年に山一證券の破綻、北海道拓殖銀行の破綻、1998年に長銀の破綻と、バブル崩壊の影響が企業の倒産という形で顕在化し始める。
それにあわせて、失業率も上昇。
この状況から、日本は低金利政策を一層推し進めることになり、アメリカとの金利差が拡大。円安ドル高が進行していく。
◇2000年以降の為替安定期を経てリーマンショック、一気にドル不信へ
その後、アメリカでITバブル→崩壊、2001年の同時多発テロを受けて為替相場も影響を受けるものの、戦後30年と比べて大きくは安定期に入っていく。
そして、2007年のアメリカのサブプライムローン破綻を発端として、2008年9月に投資銀行大手リーマンブラザーズが破綻。損失額算定不能という世界の金融システムを震撼させる大問題が生じる。
震源地となったアメリカはその火消しに躍起となり、超低金利政策や公的資金の投入を矢継ぎ早に導入。
巨額の財政赤字を膨らませ続けることで、世界的にドルに対する信用不安が拡大。
相対的に円が買われ、円高ドル安が一気に進んでいくことになった。

List    投稿者 wabisawa | 2011-01-11 | Posted in 07.新・世界秩序とは?2 Comments » 

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コメント2件

 じょじょ | 2011.11.18 23:34

人が人を治めるとは
そもそも何だったのでしょう
集団の中にリーダーが生ずる
なんでしょう?。リーダーに
なりたい争い。なぜでしょう?
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