2015-06-23

日本の支配構造③ 大政奉還は孝明天皇一派と徳川慶喜が結託したものだった

<江戸幕府最後の将軍徳川慶喜>

<江戸幕府最後の将軍徳川慶喜>

明治維新とは何だったのか?を考えるために、「明治維新の極秘計画」(落合莞爾著、成甲書房)より、教科書が書けない闇の真相に迫る説を紹介します。教科書では、大政奉還によって江戸幕府が天皇に政権を返上したのが明治新政府の始まりであると教えられますが、著者は、「堀川政略」説の中で、実は、大政奉還は孝明天皇一派と徳川慶喜が結託したものだったと分析しています。

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●公武一和を体現した人

>江戸幕府の幕引きを自ら実行して、日本近代化に決定的役割を果たした十五代将軍徳川慶喜公は、(中略)水戸中納言徳川斉昭(裂公)と御簾中(正室)登美宮吉子女王との間に生まれ・・・
>公武一和とは江戸時代を通じて唱えられ、求められた政治思念であります。公(天皇)と武(将軍家)の血統的結合に基づく強固で安定した政治体制の意味です。慶喜の出自は母方が世襲四親王家、父方が徳川御三家ですから、公武一和に準ずる血統と謂うこととなります。

●幕府終焉を予見していた慶喜

>慶喜が少年時代から将軍就任を敬遠していた所以は、「幕藩体制はすでに破綻しており、自分の生きている裡に幕府の終焉は確実」と、早くから見切りを付けていたからです。

>結局幕藩体制の幕引き役は自分しからないことを自覚して、最後の将軍に就かざるを得なくなった・・・
>慶喜は、これを自ら本来の運命と受け取り、戊辰戦争では怯懦を装い敢えて無為に徹し、幕藩体制の大リストラを間接的に敢行しました。戊辰戦争では多少の犠牲を伴いましたが、いかなる革命においても不可避とされる階級抗争による大流血と、それに付け込む外国の内政介入を防いだことは、(中略)日本史上最大の偉業である・・・

●朝彦親王と慶喜の公武合体政権

>朝彦親王(「魔王」と言われる公家方の「堀川政略」の仕掛け人)は、孝明天皇より7歳、慶喜より14歳年長
>安政の大獄(桜田門外での水戸・薩摩脱藩士による大老井伊直弼の暗殺)によって蟄居を命じられたが、同じく蟄居を命じられた慶喜の蟄居期間と全く同期しています
>この間、蟄居を好都合に世間から姿を消した両人が、秘かに京都で逢って公武合体策を論じていたとみる方が自然
慶喜の進言により還俗した朝彦親王は、以後は正に慶喜と一連托生です。蟄居前とは打って変わり、朝廷内の公武合体派の領袖となった

反幕志向の強い水戸家出身の慶喜が考えていた公武合体とは、幕府を救済する弥縫策ではなく、幕藩体制を解体して新政体を樹立することにあった
>慶応3(1867)年10月14日、慶喜の呈出した大政奉還のお願いが翌日勅許され、ここに幕藩体制は終わりました。(中略)尊攘倒幕派の公卿が復権します。

以上、<「明治維新の極秘計画」(落合莞爾著、成甲書房)>より引用

●徳川家は消滅したのか?

大政奉還後、江戸幕府は崩壊し、歴史の表舞台から消えたことになっていますが、実は、徳川家は明治維新後も生き延びており、一定の力を保持しているという情報があります。落合莞爾氏の「孝明天皇一派と徳川慶喜が結託して生き延びた」という「堀川政略」説に立てば、あり得る話です。

実際、徳川家は明治維新後も生き延び、ロスチャイルド家とも関係を持っていることが報告されています。

>一般に「幕末の志士たちによる偉業」として語られることの多い明治維新であるが、より大きなフレームワークで当時の為政者である徳川家が中心となって行った一大プロジェクトであったというのが事実である。グローバル・マクロ(国際的な資金循環)のシステム構築が米欧によって進められている現実を目の当りに した徳川幕府が決心をしてこれに適応し、我が国が生き延びていくためのプロジェクトであった
明治維新と徳川家・・・・天皇家との関係と併せて考えれば真実が見えてくる>参照

List    投稿者 yukitake | 2015-06-23 | Posted in 05.瓦解する基軸通貨No Comments » 

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