2008-02-05

FRS(連邦準備制度)創設にみる米国の金融権力

『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』の著者である本山美彦氏(京都大学名誉教授・福井県立大学教授)の金融専門のブログある。
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米国流のマネー経済の実態を歴史的考察を含めて書いてくれています。 
 
『消された伝統の復権』
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今回は、福井先生のブログから、FRB設立の経緯を学習します。 
 
『福井日記 NO.203 FRS(連邦準備制度)創設にみる米国の金融権力』
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格付け会社の話がイントロです。

プアーにせよムーディにせよ、まだ信用調査段階に止まり、証券の格付けまでには進んでいなかった。 
 
格付けを行う必要性が認識されたのは、一九〇七年の金融恐慌を経験して以後である。この金融恐慌は、米国史上でも非常に厳しいものであった。これに対処するために、FRBができたのである。 
 
一九〇〇年以降、信託銀行の設立が相次ぎ、そうした新興金融機関から融資を受けて企業買収が活発になっていた。例えば、アウグストス・ハインツとその兄弟たちは、モンタナ銅山会社株を一二〇〇万で売却し、ニューヨークの信託銀行、クニッカーボッカーを買収し、この信託銀行を通じて企業の売買を繰り返していた。旺盛な企業買収ブームによって、ニューヨークの金融は非常に逼迫したものになっていた。 
 
まず、一九〇七年三月、ニューヨーク株式市場が崩壊した。対前年比五〇%の下落であった。ハインツ兄弟たちは、ユナイテッド銅山会社の買収を進めていた。傘下の信託銀行を利用して強引な企業買収を進めていたハインツ兄弟への批判がニューヨーク金融界には高まっていた。そして、クニッカーボッカー信託銀行の手形をナショナル商業銀行が一九〇七年一〇月二一日に拒否し、それによって、この信託銀行とその関連会社であるナショナル・バンク・オブ・ノース・アメリカが破産し、当時の金融中心地であったニューヨークの信託銀行への取り付け騒ぎが広がり、またたく間に全米で信託銀行の倒産が相次いだ。 
 
事態に対処すべく、財務省は三五〇〇万ドルの政府資金を銀行に融資した。金融界の大立物、J・P・モルガンが銀行の首脳たちを集めて、支援体制を固めた。一九〇八年二月、騒ぎは終息した。

この危機から、モルガンを中心として、民間主導の中央銀行の設立に動き出す。 
 
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そして、このモルガンをはじめとする金融界の大物たちが、中央銀行設立に向かって動き出した。
当時のロード・アイランド選出共和党上院議員で院内幹事であったネルソン・オルドリッチが主役となって、一九〇八年五月、オルドリッチ=ブリーランド法が議会を通過した。中央銀行創設を目指す「国家金融委員会」が、一九〇九年、この法によって設立され、この委員会が一九一二年、「連邦準備法」の制定を議会に勧告して解散した。この勧告は、委員会議長のオルドリッチの名前を関したオルドリッチ・プランと呼ばれている。
委員会の中心人物であったオルドリッチは、保守派の共和党大物議員というだけでなく、金融界にも大きな影響力をもつ人であった。彼は、J・P・モルガンのパートナー(共同経営者)であり、娘婿はジョン・D・ロックフェラー・ジュニアである。そして、孫のネルソン・オルドリッチ・ロックフェラーは後の米国大統領である。(leonrosa注:ネルソン・ロックフェラーはフォード政権の副大統領)
中央銀行設立を求めて活躍した人々を列挙しよう。いかに、モルガン商会やクーン・レーブ商会関係者が設立運動に大きく関与していたことがが分かる。
モルガン商会関係者は、J・P・モルガン本人、J・P・モルガンの上級パートナーであったヘンリー・デビッドソン、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨーク頭取のチャールズ・D・ノートン、バンカーズ・トラスト社長で後にニューヨーク連銀総裁となったベンジャミン・ストロングたちであった。
クーン・レーブ商会関係者は、クーン・レーブ商会を代表しナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク頭取のフランク・A・バンダーリップ、クーン・レーブ商会のパートナーのポール・M・ウォーバーグであった。このポール・ウォーバーグは、ドイツとオランダを拠点にしていたウォーバーグ銀行経営者、マックス・ウォーバーグの兄である。

オルドリッチ・プランは、連邦法による設立にもかかわらず、徹底的に政府の関与を排除し、ニューヨークの金融家達に都合の良いものであった。それに対して、西南部の農民を支持基盤とした民主党から批判が巻き起こった。

オルドリッチ・プランは、民間銀行が主導する中央銀行であった。まず、商業銀行で組織される全米銀行協会が中央銀行の管理を行う。この協会の下に一五の地域中央銀行(国家準備銀行=National Reserve Associates)を作る。この地域中央銀行は、独自に利子率の設定なり、この制度の加盟銀行に資金融資を行う。加盟は強制ではない。地域中央銀行も民間銀行であり、運営資金は加盟銀行から得る。つまり、中央銀行のすべては民間によって運営されるという構想が、オルドリッチ・プランであった。 
 
当時、共和党は、金融界を基本とする北東部保守派エスタブリッシュメントによって支持されていた。 
 
当時の共和党は、連邦政府による市場介入を嫌い、民間の自治を尊ぶ党であった。FRSが成立した同じ一九一三年には連邦所得税が導入されているが、これは私的財産権の侵害であり、憲法違反であるとの疑義が共和党から出されたほどである。 
 
しかし、オルドリッチ・プランが議会を通過してしまうと、ニューヨークの金融寡頭勢力(the Money Trust)によって民衆の生活が圧迫されるというオルドリッチ・プラン批判がポピュリストたちによって提起された。 
 
ポピュリストというのは、一八九一年に創設された人民党を支持する人たちも総称で、恐慌に不満をもった人々がウィリアム・ジェニングズ・ブライアンを党首にしてネブラスカ州のオマハで決起大会を開いて成立した第三の党である。その後、ブライアンは、一九一二年一一月五日の大統領選挙で勝利した民主党のウッドロー・ウィルソン政府の国務長官に就任した。彼の意見がオルドリッチ・プランを大きく修正して設立されたFRSに強く反映されたのである(渡部亮[2007])。 
 
ポピュリストと民主党は米国の南西部の農民を支持基盤とするものであった。彼らが、市場経済万歳論の共和党に対抗して、連邦政府権力による市場の修正を訴えていたのである。 
 
一九一二年の選挙で、民主党が大統領戦で勝ち、両院をも多数支配するようになった。この年の党綱領では、明確にオルドリッチ案への批判と金融寡頭勢力から大衆を守るべきであることが謳われた。

共和党と民主党の妥協の結果、連邦政府・議会がFRB(連邦準備制度)の理事指名と承認を行う、現在のFRB(連邦準備制度)が出来上がった。

一九一二年、ウィルソンは、オルドリッチ・プランの批判を政治綱領に掲げて大統領選を戦い、勝利した。しかし、経済苦境の再来を防ぐためには、中央銀行そのものの設立の必要性については否定しなかった。 
 
ウィルソンは、議会の両院で多数の議席を確保できていた。上下両院の銀行・通貨委員会のそれぞれの議長を民主党が握り、下院のカーター・グラス議長と上院のロバート・ラザン・オーエン議長がグラス・オーエン法案を作成した。 
 
これは、オルドロッチ・プランを大幅に修正するものであった。繰り返しになるが、オルドリッチ・プランは、中央銀行を民間金融界の支配下に置こうとし、グラス=オーエン・プランは、中央銀行の理事会にできるかぎり民衆の代表である政治家を送り込もうとしていた。 
 
グラス=オーエン・プランは、各地に中央銀行を配置し、それを単一の上部機関で監督するのは、オルドリッチ・プラント同じであるが、監督機関は民間人ではなく大統領に指名による公人からなる連邦準備理事会(FRB)にし、各地の中央銀行にすべての民間銀行を強制的に参加させることにした。オルドリッチ・プランにはほとんどなかった公の監督を前面に押し出したのである。北部の金融業界も細部の面ではこの法案作りに協力することになった。 
 
各地に作られる連邦準備銀行は株式会社とし、加盟銀行は連邦準備銀行の株式を保有することになった。銀行券も金融界が主張する民間銀行券ではなく、また、ポピュリストたちが主張する国家紙幣でもなく、妥協策として連邦準備券とした。ウィルソン大統領の仲介でポピュリストと金融界とが歩み寄ったのである。 
 
いくつかの修正を経て、一九一三年一二月二二日に連邦準備法案(the Federal Reserve Act)が下院を通過した。賛成二九八、反対六〇、保留七六であった。翌二三日、上院を通過した。賛成四三、反対二五、保留二七であった。民主党員は全員が賛成であった。そして、同日、ウィルソン大統領がこの法案に署名して、連邦準備法が成立したのである。

そして、出来上がった米国の中央銀行、FRB(連邦準備制度)の骨格である。

現行の連邦準備制度理事会(FRB=Federal Reserve Board)が他国の中央銀行に相当し、一四年任期の理事七名から構成され、理事は大統領の指名である。指名された理事は上院の承認がいる。理事の中から議長と副議長は四年任期で任命される。 
 
もっとも重要な決定機関は、連邦公開市場委員会(FOMC=Federal Open Market Committee)である。委員は一二名で、理事七名と地区連邦準備銀行のうち、ニューヨーク連銀総裁は指定席、その他、四名が地区連銀の持ち回りである。議長はFRB議長、副議長はニューヨーク連銀総裁である。 
 
連銀と略称される連邦準備銀行は、一二ある。ドル紙幣の発行が許されている。ドル紙幣とは、正確には連邦準備券と呼ばれている。 
 
地区ごとの連銀は以下の一二地区に配置されている。ボストン連銀(第一地区)、ニューヨーク連銀(第二地区)、フィラデルフィア連銀(第三地区)、クリーブランド連銀(第四地区)、リッチモンド連銀(第五地区)、アトランタ連銀(第六地区)、シカゴ連銀(第七地区)、セントルイス連銀(第八地区)、ミネアポリス連銀(第九地区)、カンザスシティ連銀(第一〇地区)、ダラス連銀(第一一地区)、サンフランシスコ連銀(第一二地区)。 
 
米国の文化風土の中で、連邦政府の権限が強く働くFRSは特異な存在である。FRSは、連邦議会に対して報告する義務を課せられているものの、財務省や他の政府部局からの指揮命令系統には服していない。経費も政府に依存せず、地区連銀の収益によってまかなわれる独立採算である。民間銀行は、FRSに強制的に組み込まれている。 
 
ポピュリストによる強い反発を受けて、北部金融界とポピュリストとの妥協の産物であったことが、FRSを財務省からの干渉を除け、連邦政府から財政的に独立している等々、米国の統治機関として特異な存在にしているのである。

皆さん、本山先生のネット上の生徒になりましょう!
お勧めは、
『福井日記 NO. 214 金融バブルを生んだ自由市場信仰』
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『福井日記 NO. 205 米国政府が推し進めた格付け会社の寡占体制』
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『福井日記 NO. 206 国債の格付け』
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List    投稿者 leonrosa | 2008-02-05 | Posted in 05.瓦解する基軸通貨1 Comment » 

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 hermes australia | 2014.02.02 13:45

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