日本の支配構造⑦ 裏天皇の系譜、明治の金融制度をつくったのは誰か?
“裏天皇一派が「天皇財閥」をつくった主体である”という仮説を検証するために、話を再び幕末~明治維新の頃に戻して、財閥の中心となる金融制度をつくったのは誰か?を追求します。
●幕末の貨幣事情
江戸時代の貨幣制度は金本位制でした。金貨(小判など)を本位通貨と定め、秤量貨幣として銀貨(丁銀など)を流通させていた幕府は、江戸後期に至り、財政難の解消のため、銀貨に金貨の単位「分」(「両」の1/4)を表示した名目貨幣を発行します。実際に発行された銀貨は銀の含有量が少なく鋳造されていたので、差額の銀分を改鋳出目(差金)として幕府が利得していました。
日米修好通商条約の通貨条項で、アメリカ側の要求に屈して金本位制から金銀複本位制になり、銀貨にも純度が要求されたため、幕府に銀貨鋳造差金の旨みがなくなってしまいます。
そればかりか、金銀複本位制を押し付けられたことによって、外人(金貸し)が安い銀貨を日本に持ち込んで金貨と兌換することが可能になり、小判が大量に海外に流出するようになったということが徳川幕府の危機感を強めます。
<「明治維新の極秘計画」(落合莞爾著、成甲書房)>より要約
●明治の金融制度をつくったのは誰か?
○勘定奉行の小栗忠順
>安政改鋳の失敗で、金銀比率を国際基準にピッタリ合わせなければ駄目と覚った幕府
>井伊大老は、平価切下げに伴う利得を確保する目的で、小栗忠順に天保金の買占めを秘かに命じました。
>井伊大老の密命を受けた小栗は、旧(もと)は小栗家の中間(ちゅうげん)で為替商になっていた三野村利左衛門(三井家番頭)に頼み、直ちに天保小判の買占めに取り掛からせます。
>幕府公金を預かっていた豪商三井家は・・・1866年にはもはや堪えきれなくなり、勘定奉行小栗忠順に減額を嘆願・・・
>三井組はこの時に実質的に小栗の管理下に入ったのですが、小栗の構想は三井組を将来の通貨発行銀行に育てることでした。
>維新後に小栗が渋沢栄一を送り込んで、三井銀行に仕立て上げます。
>1867年、勘定奉行小栗忠順は・・・開港場における外国商人の商館貿易に対抗するため、コンペニー兵庫商社の設立と金札発行を将軍慶喜に提議します。
>日本最初の株式会社「兵庫商社」の理念は維新後に三野村と渋沢栄一によって受け継がれ、後に益田孝が加わりました。三井銀行・第一国立銀行・三井物産がそれです
○明治新政府の井上馨、大隈重信
>政府側で造幣計画を進めたのが井上馨
>井上が辞官した明治6(1873)年・・・大蔵卿に就いた大隈重信の処に、益田はよく用があって行きましたが、三井組の三野村利左衛門もよく来ていました。
○明治新政府に登用された徳川幕臣の益田孝、渋沢栄一等
>益田はフランスで経済学などを勉強して明治元(1868)年12月に帰朝し・・・慶喜の密命を受け、大隈重信の勧誘の形で新政府に入ります。
>益田は「古金銀分析所」に入社して古金銀の回収を始める代わりに、大蔵省に入省して造幣権頭になった
>渋沢栄一は(中略)1863年京都で一橋慶喜の家臣となり、1866年12月の慶喜の将軍就任によって、自動的に家臣になりました。
>明治2(1869)年の大蔵省租税司租税正を振り出しに・・・昇竜のごとき出世ぶり・・・井上馨の信任を得た渋沢は・・・大蔵大輔井上馨に次ぐ大蔵省の実質ナンバー2へ
>小栗によって三井組に押し込まれた三野村は、明治6(1873)年に小野組と合弁で、「三井小野組合銀行」を設立します。これはアメリカ型の国法銀行ですから「第一国立銀行」と改称し、大蔵省を辞めた渋沢栄一が総監役(大頭取)に就任しました。
※「第一国立銀行」(旧第一勧業銀行)は日本最初の銀行。
●徳川退蔵金(堀川基金)が明治の金融制度の原資?
>小栗忠順が買い占めた天保小判は、一尹(いちいん)政権(朝彦親王が主導する政権)で使用しないままに慶喜の管理下にありました。
>この資金を「堀川基金」と呼ぶことにいたします。
>維新後の慶喜は静岡で趣味生活に耽るとみせながら、堀川基金の活用のためにコンペニー(株式会社)の設立を渋沢に図らせます。
>事実は大隈や井上の方から渋沢・益田に接近し、厚遇で新政府に迎えたのです。両人の後ろ盾にはむろん徳川慶喜がいました。その所管する莫大な堀川基金、すなわち数百枚の天保小判が、金貨新鋳の材料として会計官副知事大隈重信と造幣頭井上馨の関心を惹き、両人が紙幣頭・造幣権頭に就いた所以であろうと思います。
<「明治維新の極秘計画」(落合莞爾著、成甲書房)>より引用
話を総合すると、幕末の外人(金貸し)による金貨収奪に対抗して、徳川幕府が退蔵した小判(堀川基金)が、明治維新後の金融制度創設のための原資に使われたということのようです。
明治新政府の金融制度創設に貢献した、長州の井上馨、肥前の大隈重信等が、幕末に勘定奉行の小栗忠順が退蔵した堀川基金を当てにして、徳川幕府の家臣であった益田、渋沢を抱きこんだのが事実であるとすれば、日本の金融制度をつくった黒幕は、旧徳川勢力をメンバーに含む裏天皇一派であったと考えられます。
次回は、今回の分析をさらに掘り下げるべく、金融制度の中枢である日銀創設の謎に迫ります。
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