2022-08-16

中央銀行 教科書には載らない歴史背景(日銀)

金融政策など、国の経済を左右する中央銀行ですが、教科書に載っているその歴史と、
表には出てこない歴史とがありそうです。
まずは身近な日本銀行から背景を探っていきます。

【教科書的歴史】日本銀行HPより引用
>日本銀行創立の経緯について教えてください。
>明治維新以降、わが国は積極的な殖産興業政策を展開していましたが、
財政的基盤のまだ固まっていない政府は、その資金の調達を不換紙幣の発行に依存せざるを得ませんでした。

そうした中、明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発し、大量の不換政府紙幣、
不換国立銀行紙幣が発行されたことから、激しいインフレーションが発生してしまいました。

そこで、明治14年(1881年)大蔵卿(現在の財務大臣)に就任した松方正義は、
不換紙幣の整理をはかるため、正貨兌換の銀行券を発行する中央銀行を創立し、通貨価値の安定を図るとともに、
中央銀行を中核とした銀行制度を整備し、近代的信用制度を確立することが不可欠であると提議しました。

こうして、明治15年(1882年)6月、日本銀行条例が制定され、同年10月10日、日本銀行が業務を開始するに至りました。
=引用終わり=

【教科書には載らない歴史】日銀と闇の権力より引用

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>横浜正金銀行は大隈重信のもとで明治12年に設立された。死蔵されている正貨(正金、ゴールド)を市中に動員して銀行紙幣との兌換を可能にし、不換紙幣を償却するのが目的である。

しかし、兌換するための正貨が当時の日本には絶対的に不足していた。そのため大隈は外債によって正貨を調達しようとした。ところが国内世論の反発を招いた大隈案は廃案となった。

大隈案に代わって、横浜正金銀行は「直輸出金融機関」へと変貌した。これは三井などの輸出企業のための国際決済を行なう機関である。横浜正金銀行はその後、日銀設立後は日銀の海外出先機関としての機能を果たすことになる。日本の海外進出が拡大するにつれて業務を拡大していったが、第二次大戦後に閉鎖され、東京銀行となった。

人事の面からも、横浜正金銀行の頭取から日銀の総裁という慣行があり、これが日本で最高の出世コースであった。高橋是清と井上準之助がこのコースを通っており、ともにその後大蔵大臣を務めた。

大隈主導による明治日本の権力構造が変化するのが、いわゆる「明治14年の政変」である。
この結果として大隈が追放処分となり、薩摩・長州出身者が主導権を握ることになる。ここにいわゆる「薩長藩閥政府」の体制が確立するのである。
大隈の後を襲って大蔵卿となったのは薩摩藩出身の松方正義である。1885年に内閣制度が創設されるまでは大蔵卿こそが最高位のポストだった。
松方が中央銀行案を推進するのは、明治10年に渡欧してフランス蔵相レオン・セーに会ってからである。

レオン・セーは、第一に日本が発券を独占する中央銀行をもつべきこと、第二に、そのさいフランス銀行やイングランド銀行がその古い伝統ゆえにモデルにならないこと、したがって第三に松方が、最新のベルギー国立銀行を例としてこれを精査することを勧めた。
ネイサン亡き後のロスチャイルド家の世襲権はパリ分家に移り、ジェームズ・ロスチャイルドがロスチャイルド家を統括する第三代当主とされ、その後を息子のアルフォンス・ド・ロスチャイルドが継いで第四代当主となっていた。
このアルフォンス・ド・ロスチャイルドの「使用人」ともいえるのが、前出のフランス蔵相レオン・セーなのである。

レオン・セーは、アルフォンスの招きでまず北部鉄道会社に入り、まもなく同社の役員に推され、さらにサラゴサ鉄道などロスチャイルド傘下のいくつかの会社役員にもなった。第三共和制の時代を迎えると、彼は政治家としての華々しい活動に乗り出し、何度か蔵相の座にすわって、金融ブルジョワジーの代弁者として、また大鉄道会社の利益を守る弁護士として、大きな影響力を築きあげた。

レオン・セーはロスチャイルド家の「使用人」であり「番頭」なのである。ゆえに、レオン・セーの示唆によって日本に中央銀行を設立した松方正義は、フランスのロスチャイルド家に見込まれて日本に中央銀行設立案をたずさえて帰国し、権力の中枢についた人物であることが分かるのである。

日銀の役割は、さきに述べたように不換紙幣、つまり政府紙幣および国立銀行紙幣の償却である。「償却」とはふつう会計の帳簿から消すことであるが、このときの「しょうきゃく」は政府紙幣および国立銀行紙幣を本当に「償却」した。経済学的には紙幣を償却すればマネーサプライの減少となり、市中に出回るお金が減り、すなわち不景気となるのは当然のことである。これが世にいう「松方デフレ」である。不換紙幣に代わって正貨(銀)兌換券である日本銀行券を流通させることが、松方率いる日銀の目的である。

松方はそのために国立銀行条例を改正し、国立銀行から貨幣発行権を奪っている。これが日本の金融史上、重要なポイントである。貨幣発行権を奪われた国立銀行は期限内に私立銀行に転換させられている。日銀券の流通により、江戸時代の「藩札」以来の地方通貨は姿を消し、日本の金融は日銀の支配下に入ったのである。

日銀券の流通前の日本経済はインフレ基調であり、物価は上がり続けていた。日銀券流通後のデフレ政策は不況政策であり、当然国民には不人気な政策である。

松方は、この政策を開始するにあたって、太政大臣三条実美と右大臣岩倉を引き連れて明治天皇に拝謁し、途中で政策の転換を行なわないという保証をとっている。

しかし、デフレはそう長く続かず、景気は次第に回復してくるのである。この間の事情を経済史学者の室山義正は以下のように分析している。
(1)デフレ政策により、輸出を促進し貿易収支を改善した。
(2)朝鮮事件を契機とする、軍事費の増大が財政支出を増やし、景気刺激となった。
(3)銀貨と紙幣の価格差が縮まり、退蔵されていた正貨が市中に復帰し通貨供給量が増大した。

また、元日銀理事である吉野俊彦は『これがデフレだ!』の中で、上記(1)と(3)の要因に加えて金銀の交換比率の変化を挙げている。明治4年には1:16だった金と銀の交換比率が、明治30年になると1:30となり、銀の値打ちが下がり、結果として銀貨の量が相対的に増大してリフレーション政策をやったのと同じ効果をもたらしたと論じている。
=引用終わり=

なるほど、ロスチャイルドと日本の関係もよく見えてきます。
次回以降、世界的な中央銀行の歴史にもさかのぼり、構造を解明していきます。

List    投稿者 motiduki | 2022-08-16 | Posted in 05.瓦解する基軸通貨No Comments » 

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