中東で暴れまわってきたアメリカの歴史
イラン、イラク、アメリカと中東は、どうなっているの?とよく聞かれる。
難しいく見えるのは、彼らの歴史が複雑だからだ。
しかし本質はアメリカの支配の歴史だ。(中東諸国の派閥、利権争いをアメリカが利用)
1)石油利権を独占する為 → 派閥国家に争わさせて自分達のコントロールが効く側に付く
2)兵器を多量に売り勝たせるが借金漬けになる → その結果、傀儡政権の成立
莫大な兵器が売れ、借金だらけにしたのでそのおかげで石油利権を手に入れて傀儡政権が誕生。
結局、中東国家の宗教派閥・石油利権争いに、アメリカが裏で暗躍し、兵器を売りまくって大儲けし、石油利権を獲得・維持し続ける。その為に、中東の小競り合い戦争は永遠に続けさせて、裏でそれをコントロールして常に勝馬に乗り続けようとするアメリカの姿が見えてきます。
この間、アメリカの一番の大敵は、傀儡政権を倒して革命を起こし、イスラム原則でアメリカの支配から離脱しようとするイスラム勢力たち=革命後のイランが中心だ。
これだけの、意識を持って中東のイラン、イラク近代史のダイジェストに下記に並べる。
◆アメリカはイラン(シーア派)を傀儡政権で操っていたのが、イラン革命で反米国家に。
◆イラク(スンニ派)でも野心家のサダム・フセイン政権が成立
◆フセインが暴れてイラン・イラク戦争
◆さらにクエートに攻め込んだフセインをアメリカ連合軍(湾岸戦争)が討つ
◆アメリカは同時多発テロの後、イラン・イラク・北朝鮮の三国をテロ支援国家に指定
◆大量破壊兵器を所有しているとしてイランに軍事介入。フセインを捕らえられて処刑。
◆しかし、ISも暴れてイラクでは内戦がつづく。安定せずに在留米軍が引き上げられず。
◆今回のアメリカのイラン司令官虐殺、イラクの野党(シーア派)だけでなく与党であるスンニ派もが、反米デモに参加し始めた。
※イラクも反米が拡大してアメリカ危機的?
以上を読んだうえで、下記の記事を読むと、アメリカの戦争商売,石油利権確保の意思が見えて面白い。
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湾岸戦争の概要を簡単に紹介
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/5603 honcierge.より引用
湾岸戦争とは、1991年にイラク、クウェート、サウジアラビアといったペルシャ湾周辺の国家地域で起こったイラクのサダム・フセイン政権とアメリカを中心とした多国籍軍によって行われた戦争で、日本では1980年に同地域で起こったイラン・イラク戦争と区別する際に特に「湾岸戦争」と呼びます。
元々、いわゆる湾岸地域と呼ばれるイスラム諸国では東西冷戦以来ずっと戦争が続いていましたが、1980年に始まったイラン・イラク戦争はそれぞれの政権が支持する教派の違いと先進国への石油輸出の権利を巡ることによって起こりました。
1988年、一旦は国際連合の仲裁によって両国間に停戦が成立しましたが、両国の戦争による財政難は非常に深刻でした。そこでイラクのフセイン政権は石1990年に油を大量に保有しているクウェートに対して攻撃を仕掛け占領します。フセイン政権のこの行為は当然、国際社会から非難を浴びることになります。
国連安保理はイラクに対し期限までにクウェートから撤退することを要求しますが、イラクはこれを拒否。こうして1991年1月、アメリカを中心に非戦闘参加国を含む合計35ヵ国による多国籍軍がイラクなどに対して攻撃を開始。通称「砂漠の嵐作戦」と呼ばれる空爆が数週間に渡って行われました。
空爆が行われた後、戦局は「砂漠の剣作戦」と呼ばれる地上戦に移行します。空爆によって重要拠点が機能停止していたことで勝敗は明らか。戦争は数ヶ月でイラクの停戦合意、そしてクウェートからの撤退という形で終わります。
湾岸戦争の原因は?
長い目で見ると、湾岸戦争は長く続く中東戦争の中の一部分に過ぎません。その背景には長い長い歴史の中で起こった対立構造を理解する必要があります。
中東地域のイスラム教の国々は、イスラム教の開祖ムハンマド(570?-632)の時代は全て一つの国でした。しかしそのムハンマドが後継者を明確に指定しなかったことから後継者の地位を巡って争いが起こり、イスラム教はシーア派とスンナ派に分かれました。それから千年近くに渡って妥協と分裂を繰り返しながらも存続した両派。
契機となったのが16世紀になってからのこと。当時中東はオスマン帝国の時代でしたが、この時代になってシーア派が特に激しく迫害され続けました。オスマン帝国はおよそ700年以上もの歴史を誇った国でしたが、第一次世界大戦によってあっさりと滅亡。その故地には多くの民族が問題を抱えたまま放置されます(現在の領土・民族問題が形成される)。
そんな中、イスラム教を信仰する部族の中で台頭したのがホメイニー率いるイラン政権、そしてフセイン率いるイラク政権でした。両者は前者がシーア派、後者がスンナ派という歴史の中の古い対立構造を持ち出して戦争を開始します。その原因は外国への石油輸出権でした。
フセインはイランの石油輸出権を奪うためにイランに奇襲攻撃を仕掛けますが、実はそのバックでイラクを支援していたのが大国アメリカとロシアでした。アメリカは中東での利権拡大のために「イスラム原理主義」と呼ばれる他宗教に対する排他的な思想を有するイランのホメイニー政権に危機を感じていたのです。
戦争の結果、イランのホメイニーがイランから亡命しますがイラクは思ったように戦果を得ることができないまま停戦せざるを得なくなります。しかしイラクにはアメリカから借りた軍事費の債務がそのままのしかかり、債務の延長を図るもののアメリカからは拒否されました。
こうして財政難に陥ったイラクは他国から利益を盗むことで財政難を打開しようとし、ついにクウェート侵攻へと踏み切り、湾岸戦争になるのです。
湾岸戦争の口火を切ったのはアメリカですが、この時にアメリカはナイラというクウェート人少女がイラク軍がクウェートで化学兵器を使用するなどの残虐行為を行っているという演説を放映しました。しかしこのナイラは実は元クウェート王族・現駐米大使のサウードの娘で当時アメリカにいて戦争とはまったく無関係、そしてこの演説がアメリカのコンサルティング会社によるプロバガンダだということが発覚したのです。
アメリカの真意は、冷戦によって財政危機に陥ったことからそれを打開するために石油事業を掌握することだったのです。しかしそれにはイランのホメイニー政権のようにいわば他宗教に排他的な政権が邪魔だったのでちょうど対立関係にあったイラクを利用しました。つまり、湾岸戦争は用済みになったイラクからさらに搾り取るための方便だったと見るべきでしょう。
湾岸戦争とイラク戦争
湾岸戦争の終了後、アメリカはイラクに対して大量破壊兵器の不保持を義務付けます。しかしこの時以降、検査が抜き打ち方式となったためイラクはアメリカの要求に対して素直に応じません。アメリカらはこれに対し軍事攻撃を散発的に繰り返すことでイラクを威嚇するなど、緊張状態が何年もの間続いていました。
2001年、アメリカでジョージ・ブッシュ(息子)政権が発足してまもなく、アメリカ・ニューヨークでアフガニスタン系のタリバン政権麾下のテロ組織アルカーイダのビンラディンが指示したとされる同時多発テロが発生、数台の飛行機がエアジャックされ世界貿易センタービルに突撃し多くのアメリカ国民が犠牲になりました。
この事件を受けて、アメリカは国民の心情を追悼から反戦、そして戦争へと操作していき開戦への理由を「イスラム原理主義による過激思想」へと持ち込んでいきます。当時アメリカでイスラムに対する差別や過激派運動が横行しており、人種に関係なくターバンやサリーを巻いただけで襲撃されました。
イラクのフセインはアメリカ市民に追悼の意を表するなどむしろアメリカに対し好意的な姿勢で望んでいました。しかしいざアメリカが報復のためにアフガニスタンに侵攻を始めると、イラクにアフガニスタンテロ組織との関連性を指摘する情報がアメリカから流されます。
明くる2002年、アメリカはイラン・イラク・北朝鮮の三国をテロ支援国家、通称「悪の枢軸」だと厳しく糾弾し、イラクに対して強引に大量破壊兵器の調査を実行するよう命じます。結果イラクは膨大な報告書を提出しアメリカの体制を非難しますが、さらに明くる2003年にアメリカは国連にてフランス、ドイツ、ロシア、中国が反対を押し切って強引にイラク攻撃を可決。ついにイラク戦争が始まるのです。
2006年、フセインが米軍に捕らえられて処刑。2011年、米軍の完全撤退を持ってアメリカの完全勝利で一連のアメリカ侵攻が終わり占領時代へと入ります。こう見ると、湾岸戦争はアメリカがイラクを介して中東の石油戦略に参入した契機だと見ることが出来るでしょう。
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by猪飼野
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